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photo by bozzo
解体しながらつくる、音で観るダンスは続いていく
田中みゆき
2022.5.13
photo by bozzo
2021年7月、9月、11月の城崎国際アートセンターでの滞在制作、12月の横浜でのショーイングを経て、2022年3月に実施した「音で観るダンス 上演&トーク」。企画者の田中みゆきさんによる、KIACでの1年間のプロジェクトの総括をお届けします。
はじめに
「音で観るダンス」とは何なのだろう。このプロジェクトは、映画や映像の分野で普及しつつある、視覚に障害のある人に音声で視覚情報を伝える「音声ガイド」に着想を得て、視覚の有無問わずダンスを見る多様な視点を共有することを目的に企画した。もともと私が音声ガイド制作者養成講座に通った際に、そこで共有される受講生の音声ガイドの多様さに感銘を受けたことがきっかけだった。視覚に障害のある人に情報を伝えるという前提のもとに見えているものを言葉にするとき、その人が何を描写するかには、その人がその対象をどう見ているかが露呈してしまうのだ。これまでみんなが当たり前に共有していると思っていた目の前の視覚情報が、言葉にされることでこんなにも視点や見方が異なるということが明らかになったとき、まだまだ世界は面白いことを教えてもらったような気がした。
ただ、ダンスはそもそも音や言葉だけで魅力が伝わるものではないし、逆に見えている人(晴眼者)にとってはダンスを言葉にすること自体が野暮であり、余計な情報であると思う人も少なからずいるだろう。そもそも晴眼者であれば、目の前のダンスを見て得た言葉にならない印象や感情を、自分なりに受け止めて内に留めるか、同伴者がいれば少し話すことで一旦落ち着かせるのが常だろう。人によっては、忘れた頃に不意にその時見たイメージが頭をよぎったりするかもしれない。門外漢にとっては、ダンスはそれくらい(専門家や業界人を除いて)他者によって語られることから遠い題材のように思えていた。映画の音声ガイドは、決められた時間の中で物語の理解を補助するという目的がある一方で、ダンスはそもそもそれ自体に物語や合理性を伴わないことが多い(そのためか、国内でのダンスの音声ガイドの事例もごくわずかしかない)。ダンスの持つそのような余地と、晴眼者であってもダンスの音声ガイドを完璧に付けられる人はいないことを前提に、ダンスに音声ガイドを付ける試みを通して、視覚の有無問わず、鑑賞者の側からも表現を造形していくようなことができるのではないかと考えた。
よって、このプロジェクトは、視覚に障害のある人に向けた福祉サービスではなく、目の見えない/見えづらい人も見える人も、それぞれの違いを抱えたまま、そもそも捉え難いダンスというものが持つ時間と空間を共有することを目的としている。それによって、まず視覚に障害のある人にとっては、普段縁遠いダンスというものを、音声を通した読書体験や映画鑑賞のように、視覚に依らずに想像を広げられる表現媒体として楽しんでもらいたいという思いがある。それと同時に、晴眼者にとっては、ダンスという多くの人には捉え難い身体表現を敢えて言葉にすることにより、さまざまな見方に開いていくことで、他者と表現を鑑賞することの醍醐味を体感したり、ダンス自体を解すことにつながればという思いを持っている。
KAATでの3年間から次の展開への試行錯誤
もともとKAAT神奈川芸術劇場の主催事業として始めたこの企画は、音声ガイドを取り込んだ上演をつくるというだけでなく、音声ガイドの啓蒙やその可能性を考える場をつくる意図があり、①音声で情報を伝える専門家によるワークショップ、②研究会、③上演&トーク(+タッチツアー)という構成で2017〜2019年の3年間進めてきた。全ての工程、特に②の音声ガイドを実際につくる研究会に複数の視覚障害当事者が関わり、時にはダンサーとともに踊ったり音声ガイドの書き手となったりしてクリエーションに深く携わるのが特徴だった。今回は、滞在制作という形で行うことで、クリエーションとその発表に注力することになったが、近隣に住む視覚障害者を見つけることができなかったため、遠方に住む視覚障害者の方に、滞在期間中に一度ダンスを見てもらい、意見を頂くのみとなった。
KIACで制作するにあたっては、新たに康本雅子とともに企画を進めていった。実は2021年の春から年末まで、康本とラブドールによるダンスを元にしたクリエーションを行っていた。それは、KAATの時はソロダンスだったものを、ダンサーを増やしてデュオとするよりも、次の展開として音声ガイドがあるからこそ境界が曖昧になるようなものができないかという思いと、康本がKIACでも行った性教育ワークショップなどの話をするなかで出てきたアイデアだった。
今回扱うテーマとして、言葉でダンスを描写するにあたって難しい点の一つである「質感」を扱いたいと考えていたのもある。「(言葉があることで)動作を追えるようになったとしても、それだけではそのダンスをもう一度見たいとは思わない」とかつて視覚障害のある研究会メンバーに言われたことは、それ以来このプロジェクトの指針となっている。つまり、見えている動きが情報として追えてもそれはダンスを鑑賞する醍醐味とは程遠く、通常晴眼者の鑑賞者は見えていないものを合わせてダンスを受け止めており、視覚に障害のある人もそれこそが共有したいものなのだ。そのためには、言葉を視覚情報を補完するものとして付けるのではなく、ダンスとともに並走するものとしてある必要がある。そうして、このプロジェクトで言葉の役割を「音声ガイド」と呼ぶのは3年目で止めた。
そのようにダンスと並走する力を持ちながら、想像力を広げるようなテキストを書いてもらう役割として、五所純子にチームに加わってもらうことにした。また、このプロジェクトが音声ガイドから発想して企画したこともあり、それまでの3年間は言葉に軸を置いて展開してきた「言葉で観る」要素が強かったが、新しくつくるにあたっては「音で観る」要素も補強したく、サウンドとして荒木優光に参加してもらうことにした。
そうして、滞在制作の大部分の時間を使って、ラブドールとどのようにコミュニケーションが成立するか、それをどう作品にできるかを探っていった。しかし、2021年12月に横浜のDance Base Yokohamaで行わせて頂いた試演会での感触を経て、大きな転機を迎えることとなる。そこには15名ほどの視覚に障害のある人たちも参加してくれた。その上演及びトーク(感想共有)は、ラブドールというものが視覚に訴える目的に特化して精巧につくられていることを痛切に感じさせる時間だった。むしろ視覚に障害のある人の方が、その存在を脳の中でキャンセルし、音や言葉の世界で別のものを想像して楽しむ自由さがあったという感想が寄せられた一方で、見えているとその視覚的存在感に拘束され、その先に進めない人が多いことが感じられた。また、ラブドールが普段見慣れないものであるからこそ、多くの人が頭で先行して認識している性的な文脈が一人歩きし、そこから切り離して見てもらうことの難しさがあった(ある意味、社会における障害の認識とも共通する部分がある)。それは、晴眼者にとっての「障害」となるという面白さはあったものの、観客間での情報の不均衡さがこれまでとは違う意味で複雑化してしまっていた。
それを受けて、チーム全体で話し合いの場を設け、ラブドールを扱わないという決断をした。関わりによって変容するモノや体の「質感」というテーマは残しつつ、ダンサーの鈴木美奈子に加わってもらい、康本とのデュオでダンスがつくられていった。新聞紙、包丁、ネギといった日常にもあるものにアプローチしながら、いつの間にか動かす/動かされる主体と客体が移り変わっていく、「中動態」的なダンスと言ってよいと思う。また、よほど離れて見ない限り、晴眼者は二人のダンサーを同時に視野に入れることはできないほど、二人は大半の時間離れた場所にいて、扱うものは同じであってもそれぞれのやり方で向き合っている。つまり、視覚的にも全体を把握することはできない前提で構成されているのも特徴だ。
それに伴い、五所は、言葉が持つ支配力に十分気を配りながら、「ぎくしゃくして」「まとまらないまま」「ひとところにある」、そういう状態と運動を意識してテキストを制作した、と言う。どうしてもダンサー二人をつなげて意味を生成しようとする人間の欲求に抗い、バラバラなまま、目の前で起こっている体や関係の変容をそのまま受け止めてもらうようなテキストになったと私は解釈している。
また、荒木は、ほとんど音を出さないというサウンド泣かせのこのダンスに、ダンサー自身の呼吸や声を使うことによってアプローチした。それらの呼吸や声が録音され編集された音の出るスピーカーは、荒木とテクニカルの甲田徹によって移動される。ダンスの大きな要素の一つである動きが別の身体によって制御されるとき、ダンスを担保するものは何なのか、挑戦的な構造を提示している。
最後に加わってもらったのが、朗読の中間アヤカだった。KAATでの3年間で、「音で観るダンス」には、ダンサーの体以外に、テキストが持つ体、テキストを発する人の体が影響することがわかっていた。それを踏まえ、固有のリズムを持つダンサーが声を発することで、テキストもともに踊るようなものになればと思った。中間の声の軽やかさに助けられた部分は大きかった。
上演は、荒木によるサウンドパフォーマンス(ダンスなし)が上演される「サウンドバージョン」から、五所のテキストとともにダンスを上演する「テキストバージョン」という二部構成で行った。その間に、転換の都合もあり康本によるワークを導入した。観客に向けて、中動態的な感覚に意識を向けてもらうような短いワークだ。サウンドバージョンとテキストバージョンはそれぞれ抽象と具体の配分や解釈が大きく異なり、鑑賞者はそれぞれ異なる脳の使い方をすることが求められる。それをどのような流れや仕様で構成すれば全体の体験が豊かなものとして鑑賞者一人ひとりの中に積み上げられるかは、今後も試行錯誤が続く部分だろう。
このプロジェクトで上演と同じくらい重視しているのが、上演後に行うトークという名の感想共有の場だ。KIACでは、その形態も一日ずつ変えた。初日は全員に対して感想を聞く形で行い、二日目は、より一人ひとりの意見が聞き出しやすいように10人ずつほどのグループに分かれて行った。
地方におけるこのプロジェクトの可能性
地方で障害を扱うプロジェクトを行う場合、もともとその分野で活動してきた団体がいない限り、障害当事者とのコンタクトが最も大きなハードルであることは、これまでも度々経験してきた。それが観客でなく、クリエーションに関わるとなると尚更だ。今回も、視覚障害当事者と直接会う機会が非常に限られていたことは、私よりも今回初めてプロジェクトに関わる他のメンバーにとって、このプロジェクトの意図を理解し難いものにしていたと思う。当事者がいたら身をもって示してくれることを、当事者でない私がこれまでのプロジェクトの経験として語らなければいけないのは辛いものもあった。
しかし、滞在制作中、県内の視覚障害者の方たちにいらして頂いてやり取りしたことは、わずかな時間ながらもやはり印象深い時間だった。そこで強く感じたのは、視覚障害の有無よりも、普段触れている文化や芸術がそれぞれの見方やイメージにもたらす影響だった。年齢層が高かったこともあり、音声ガイドで映画を観たことがある人もそこにはおらず、読書が文化との接点ということだった。彼らは皆、物語、特に結論を求めていた。それがないとわかると不安そうな様子を見せ、ある人は「想像するって難しいことですね」と言った。一方、聞こえる声の種類が増えると出演者が増えたと認識されたり、常識に囚われない意見も頂き、非常に興味深かった。
私が普段会っている視覚障害者の人たちは、音楽ライブや映画や演劇、サーフィンなどにも積極的に出かけていき、時に自らも演じるなど、自分の好きなものに対して貪欲に活動する人たちだ。そんな彼らと接しているとつい忘れがちだが、あらすじや結論がないものを自由に想像することは、必ずしも最初から誰もが楽しめるものではないのだ。もちろんそれは個人の資質の問題ではなく、型にはまらない表現に触れる機会にどれくらいアクセスできるかに影響される部分が大きいと思う。
晴眼者でも、都市であればふと立ち寄った場所で自分では選ばない表現に偶然触れる機会があったりするが、車社会だとどうしても目的地に直接向かうことが多いだろう。さらにそれが誘導を必要とする視覚障害者だと尚更であることは想像に難くない。私たちは誰もが、最初は手探りでいろんな表現に触れながら、自分の見方や嗜好を形成してきたと思う。障害はそれ自体が障害ではなく、それによってもたらされる機会の少なさが障害をつくっていると私は考える。この問題に対しては、やはり地元の文化芸術施設が、福祉の枠に囚われず、日常的に幅の広い表現を多様な客層に届ける試みを実践していって欲しいと心から願う(福祉の世界では、基本的にベストセラーやシネコンの映画など大衆に受けるものが音声化や点訳されるため)。
一方、どうしても「視覚に障害のある人のためにやっている」と最初は思われがちなこのプロジェクトが実際に持つ、「それぞれ違う見方をしていることを受け止める」という側面が、地方の文化芸術施設において貢献できることも改めて感じた。視覚の有無問わず見たこともない表現、わからない表現に触れる機会が少ないことで壁ができてしまう状況で、隣に座っていた人もわからなさを抱えながら同じ時間を過ごしていたことを知る安心感は、時に人を饒舌にする。わかる人しか見にいってはいけないのではなく、わからないものだからこそ開かれていることを知ること。そのことを鑑賞者が互いの存在や視点を借りてともに認識していくことによって、芸術鑑賞への壁は少しずつ低くなっていくのではないか。二日目の上演後のトークの熱気や交わされた内容の濃さから、そんなことを感じたりもした。
このプロジェクトの正式なタイトルは「音で観るダンスのワークインプログレス」である。それは、上演ごとに形式や伝え方、構成を変えてきたプロジェクトのあり方を反映してもいるし、鑑賞者が変わればダンスの観方も変わっていくという意味も込めている。そんな変化し続けるプロジェクトに理解を示し、温かくサポートをしてくださったKIACの皆さん、試行錯誤し続けてくれているプロジェクトのメンバーに、改めて感謝を申し上げたい。
音で観るダンス 上演&トーク
振付・出演:康本雅子/出演:鈴木美奈子/サウンド:荒木優光/テキスト:五所純子/
朗読:中間アヤカ/サウンドテクニカル:甲田 徹/制作:加藤奈紬/企画・プロデュース:田中みゆき
主催・製作:城崎国際アートセンター(豊岡市)
助成:令和3年度 文化庁 文化芸術創造拠点形成事業、公益財団法人セゾン文化財団
「音で観るダンス」とは何なのだろう。このプロジェクトは、映画や映像の分野で普及しつつある、視覚に障害のある人に音声で視覚情報を伝える「音声ガイド」に着想を得て、視覚の有無問わずダンスを見る多様な視点を共有することを目的に企画した。もともと私が音声ガイド制作者養成講座に通った際に、そこで共有される受講生の音声ガイドの多様さに感銘を受けたことがきっかけだった。視覚に障害のある人に情報を伝えるという前提のもとに見えているものを言葉にするとき、その人が何を描写するかには、その人がその対象をどう見ているかが露呈してしまうのだ。これまでみんなが当たり前に共有していると思っていた目の前の視覚情報が、言葉にされることでこんなにも視点や見方が異なるということが明らかになったとき、まだまだ世界は面白いことを教えてもらったような気がした。
ただ、ダンスはそもそも音や言葉だけで魅力が伝わるものではないし、逆に見えている人(晴眼者)にとってはダンスを言葉にすること自体が野暮であり、余計な情報であると思う人も少なからずいるだろう。そもそも晴眼者であれば、目の前のダンスを見て得た言葉にならない印象や感情を、自分なりに受け止めて内に留めるか、同伴者がいれば少し話すことで一旦落ち着かせるのが常だろう。人によっては、忘れた頃に不意にその時見たイメージが頭をよぎったりするかもしれない。門外漢にとっては、ダンスはそれくらい(専門家や業界人を除いて)他者によって語られることから遠い題材のように思えていた。映画の音声ガイドは、決められた時間の中で物語の理解を補助するという目的がある一方で、ダンスはそもそもそれ自体に物語や合理性を伴わないことが多い(そのためか、国内でのダンスの音声ガイドの事例もごくわずかしかない)。ダンスの持つそのような余地と、晴眼者であってもダンスの音声ガイドを完璧に付けられる人はいないことを前提に、ダンスに音声ガイドを付ける試みを通して、視覚の有無問わず、鑑賞者の側からも表現を造形していくようなことができるのではないかと考えた。
よって、このプロジェクトは、視覚に障害のある人に向けた福祉サービスではなく、目の見えない/見えづらい人も見える人も、それぞれの違いを抱えたまま、そもそも捉え難いダンスというものが持つ時間と空間を共有することを目的としている。それによって、まず視覚に障害のある人にとっては、普段縁遠いダンスというものを、音声を通した読書体験や映画鑑賞のように、視覚に依らずに想像を広げられる表現媒体として楽しんでもらいたいという思いがある。それと同時に、晴眼者にとっては、ダンスという多くの人には捉え難い身体表現を敢えて言葉にすることにより、さまざまな見方に開いていくことで、他者と表現を鑑賞することの醍醐味を体感したり、ダンス自体を解すことにつながればという思いを持っている。
KAATでの3年間から次の展開への試行錯誤
もともとKAAT神奈川芸術劇場の主催事業として始めたこの企画は、音声ガイドを取り込んだ上演をつくるというだけでなく、音声ガイドの啓蒙やその可能性を考える場をつくる意図があり、①音声で情報を伝える専門家によるワークショップ、②研究会、③上演&トーク(+タッチツアー)という構成で2017〜2019年の3年間進めてきた。全ての工程、特に②の音声ガイドを実際につくる研究会に複数の視覚障害当事者が関わり、時にはダンサーとともに踊ったり音声ガイドの書き手となったりしてクリエーションに深く携わるのが特徴だった。今回は、滞在制作という形で行うことで、クリエーションとその発表に注力することになったが、近隣に住む視覚障害者を見つけることができなかったため、遠方に住む視覚障害者の方に、滞在期間中に一度ダンスを見てもらい、意見を頂くのみとなった。
KIACで制作するにあたっては、新たに康本雅子とともに企画を進めていった。実は2021年の春から年末まで、康本とラブドールによるダンスを元にしたクリエーションを行っていた。それは、KAATの時はソロダンスだったものを、ダンサーを増やしてデュオとするよりも、次の展開として音声ガイドがあるからこそ境界が曖昧になるようなものができないかという思いと、康本がKIACでも行った性教育ワークショップなどの話をするなかで出てきたアイデアだった。
今回扱うテーマとして、言葉でダンスを描写するにあたって難しい点の一つである「質感」を扱いたいと考えていたのもある。「(言葉があることで)動作を追えるようになったとしても、それだけではそのダンスをもう一度見たいとは思わない」とかつて視覚障害のある研究会メンバーに言われたことは、それ以来このプロジェクトの指針となっている。つまり、見えている動きが情報として追えてもそれはダンスを鑑賞する醍醐味とは程遠く、通常晴眼者の鑑賞者は見えていないものを合わせてダンスを受け止めており、視覚に障害のある人もそれこそが共有したいものなのだ。そのためには、言葉を視覚情報を補完するものとして付けるのではなく、ダンスとともに並走するものとしてある必要がある。そうして、このプロジェクトで言葉の役割を「音声ガイド」と呼ぶのは3年目で止めた。
そのようにダンスと並走する力を持ちながら、想像力を広げるようなテキストを書いてもらう役割として、五所純子にチームに加わってもらうことにした。また、このプロジェクトが音声ガイドから発想して企画したこともあり、それまでの3年間は言葉に軸を置いて展開してきた「言葉で観る」要素が強かったが、新しくつくるにあたっては「音で観る」要素も補強したく、サウンドとして荒木優光に参加してもらうことにした。
そうして、滞在制作の大部分の時間を使って、ラブドールとどのようにコミュニケーションが成立するか、それをどう作品にできるかを探っていった。しかし、2021年12月に横浜のDance Base Yokohamaで行わせて頂いた試演会での感触を経て、大きな転機を迎えることとなる。そこには15名ほどの視覚に障害のある人たちも参加してくれた。その上演及びトーク(感想共有)は、ラブドールというものが視覚に訴える目的に特化して精巧につくられていることを痛切に感じさせる時間だった。むしろ視覚に障害のある人の方が、その存在を脳の中でキャンセルし、音や言葉の世界で別のものを想像して楽しむ自由さがあったという感想が寄せられた一方で、見えているとその視覚的存在感に拘束され、その先に進めない人が多いことが感じられた。また、ラブドールが普段見慣れないものであるからこそ、多くの人が頭で先行して認識している性的な文脈が一人歩きし、そこから切り離して見てもらうことの難しさがあった(ある意味、社会における障害の認識とも共通する部分がある)。それは、晴眼者にとっての「障害」となるという面白さはあったものの、観客間での情報の不均衡さがこれまでとは違う意味で複雑化してしまっていた。
それを受けて、チーム全体で話し合いの場を設け、ラブドールを扱わないという決断をした。関わりによって変容するモノや体の「質感」というテーマは残しつつ、ダンサーの鈴木美奈子に加わってもらい、康本とのデュオでダンスがつくられていった。新聞紙、包丁、ネギといった日常にもあるものにアプローチしながら、いつの間にか動かす/動かされる主体と客体が移り変わっていく、「中動態」的なダンスと言ってよいと思う。また、よほど離れて見ない限り、晴眼者は二人のダンサーを同時に視野に入れることはできないほど、二人は大半の時間離れた場所にいて、扱うものは同じであってもそれぞれのやり方で向き合っている。つまり、視覚的にも全体を把握することはできない前提で構成されているのも特徴だ。
それに伴い、五所は、言葉が持つ支配力に十分気を配りながら、「ぎくしゃくして」「まとまらないまま」「ひとところにある」、そういう状態と運動を意識してテキストを制作した、と言う。どうしてもダンサー二人をつなげて意味を生成しようとする人間の欲求に抗い、バラバラなまま、目の前で起こっている体や関係の変容をそのまま受け止めてもらうようなテキストになったと私は解釈している。
また、荒木は、ほとんど音を出さないというサウンド泣かせのこのダンスに、ダンサー自身の呼吸や声を使うことによってアプローチした。それらの呼吸や声が録音され編集された音の出るスピーカーは、荒木とテクニカルの甲田徹によって移動される。ダンスの大きな要素の一つである動きが別の身体によって制御されるとき、ダンスを担保するものは何なのか、挑戦的な構造を提示している。
最後に加わってもらったのが、朗読の中間アヤカだった。KAATでの3年間で、「音で観るダンス」には、ダンサーの体以外に、テキストが持つ体、テキストを発する人の体が影響することがわかっていた。それを踏まえ、固有のリズムを持つダンサーが声を発することで、テキストもともに踊るようなものになればと思った。中間の声の軽やかさに助けられた部分は大きかった。
上演は、荒木によるサウンドパフォーマンス(ダンスなし)が上演される「サウンドバージョン」から、五所のテキストとともにダンスを上演する「テキストバージョン」という二部構成で行った。その間に、転換の都合もあり康本によるワークを導入した。観客に向けて、中動態的な感覚に意識を向けてもらうような短いワークだ。サウンドバージョンとテキストバージョンはそれぞれ抽象と具体の配分や解釈が大きく異なり、鑑賞者はそれぞれ異なる脳の使い方をすることが求められる。それをどのような流れや仕様で構成すれば全体の体験が豊かなものとして鑑賞者一人ひとりの中に積み上げられるかは、今後も試行錯誤が続く部分だろう。
このプロジェクトで上演と同じくらい重視しているのが、上演後に行うトークという名の感想共有の場だ。KIACでは、その形態も一日ずつ変えた。初日は全員に対して感想を聞く形で行い、二日目は、より一人ひとりの意見が聞き出しやすいように10人ずつほどのグループに分かれて行った。
地方におけるこのプロジェクトの可能性
地方で障害を扱うプロジェクトを行う場合、もともとその分野で活動してきた団体がいない限り、障害当事者とのコンタクトが最も大きなハードルであることは、これまでも度々経験してきた。それが観客でなく、クリエーションに関わるとなると尚更だ。今回も、視覚障害当事者と直接会う機会が非常に限られていたことは、私よりも今回初めてプロジェクトに関わる他のメンバーにとって、このプロジェクトの意図を理解し難いものにしていたと思う。当事者がいたら身をもって示してくれることを、当事者でない私がこれまでのプロジェクトの経験として語らなければいけないのは辛いものもあった。
しかし、滞在制作中、県内の視覚障害者の方たちにいらして頂いてやり取りしたことは、わずかな時間ながらもやはり印象深い時間だった。そこで強く感じたのは、視覚障害の有無よりも、普段触れている文化や芸術がそれぞれの見方やイメージにもたらす影響だった。年齢層が高かったこともあり、音声ガイドで映画を観たことがある人もそこにはおらず、読書が文化との接点ということだった。彼らは皆、物語、特に結論を求めていた。それがないとわかると不安そうな様子を見せ、ある人は「想像するって難しいことですね」と言った。一方、聞こえる声の種類が増えると出演者が増えたと認識されたり、常識に囚われない意見も頂き、非常に興味深かった。
私が普段会っている視覚障害者の人たちは、音楽ライブや映画や演劇、サーフィンなどにも積極的に出かけていき、時に自らも演じるなど、自分の好きなものに対して貪欲に活動する人たちだ。そんな彼らと接しているとつい忘れがちだが、あらすじや結論がないものを自由に想像することは、必ずしも最初から誰もが楽しめるものではないのだ。もちろんそれは個人の資質の問題ではなく、型にはまらない表現に触れる機会にどれくらいアクセスできるかに影響される部分が大きいと思う。
晴眼者でも、都市であればふと立ち寄った場所で自分では選ばない表現に偶然触れる機会があったりするが、車社会だとどうしても目的地に直接向かうことが多いだろう。さらにそれが誘導を必要とする視覚障害者だと尚更であることは想像に難くない。私たちは誰もが、最初は手探りでいろんな表現に触れながら、自分の見方や嗜好を形成してきたと思う。障害はそれ自体が障害ではなく、それによってもたらされる機会の少なさが障害をつくっていると私は考える。この問題に対しては、やはり地元の文化芸術施設が、福祉の枠に囚われず、日常的に幅の広い表現を多様な客層に届ける試みを実践していって欲しいと心から願う(福祉の世界では、基本的にベストセラーやシネコンの映画など大衆に受けるものが音声化や点訳されるため)。
一方、どうしても「視覚に障害のある人のためにやっている」と最初は思われがちなこのプロジェクトが実際に持つ、「それぞれ違う見方をしていることを受け止める」という側面が、地方の文化芸術施設において貢献できることも改めて感じた。視覚の有無問わず見たこともない表現、わからない表現に触れる機会が少ないことで壁ができてしまう状況で、隣に座っていた人もわからなさを抱えながら同じ時間を過ごしていたことを知る安心感は、時に人を饒舌にする。わかる人しか見にいってはいけないのではなく、わからないものだからこそ開かれていることを知ること。そのことを鑑賞者が互いの存在や視点を借りてともに認識していくことによって、芸術鑑賞への壁は少しずつ低くなっていくのではないか。二日目の上演後のトークの熱気や交わされた内容の濃さから、そんなことを感じたりもした。
このプロジェクトの正式なタイトルは「音で観るダンスのワークインプログレス」である。それは、上演ごとに形式や伝え方、構成を変えてきたプロジェクトのあり方を反映してもいるし、鑑賞者が変わればダンスの観方も変わっていくという意味も込めている。そんな変化し続けるプロジェクトに理解を示し、温かくサポートをしてくださったKIACの皆さん、試行錯誤し続けてくれているプロジェクトのメンバーに、改めて感謝を申し上げたい。
音で観るダンス 上演&トーク
振付・出演:康本雅子/出演:鈴木美奈子/サウンド:荒木優光/テキスト:五所純子/
朗読:中間アヤカ/サウンドテクニカル:甲田 徹/制作:加藤奈紬/企画・プロデュース:田中みゆき
主催・製作:城崎国際アートセンター(豊岡市)
助成:令和3年度 文化庁 文化芸術創造拠点形成事業、公益財団法人セゾン文化財団
田中みゆき
プロデューサー。「“障害”は世界を捉え直す視点」をテーマにカテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の見方や捉え方を障害当事者を含む鑑賞者とともに再考する。近年の仕事に「ルール?展」(21_21 DESIGN SIGHT)、展覧会「語りの複数性」(東京都渋谷公園通りギャラリー)など。