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2018年7月9日

小説『Kawalala-rhapsody』(作:嵯峨実果子)

その街には流れる川と流れない川があった。
代々洪水に悩まされてきた土地だった。水害対策をほどこす経緯で川の流れが人工的に変えられ、大きく湾曲した本流をまっすぐに改修する治水工事が行われた。そのとき取り残された支流は自然の流れから切り離され、落とし子のように街のあちこちに横たわっている。それらは廃川と呼ばれた。今では廃川をまたいで建物が立っていたりする。街を歩くと、かつて川だったところがある。橋がかかっていた場所には欄干の跡、今は路地になっているけれど、家の裏から川に降りて洗い物をした階段のなごりなどを見ることができる。小学校の校庭の下にも水路が通っていて、トンネルになった水路の奥にはコウモリの群れが住んでいる。子供たちは水路の上の校庭を走り回り、日の光を浴びていた。
本流から切り離されて流れを失っても、川から水が消えてなくなるわけではなく、廃川は廃とついても死んではいなかった。浄化機能が整うまでは水が澱んで、特に夏になると悪臭を放っていた。流れない川はいきいきと生きているとも言いがたく、かといって死んでいるわけでもなく、風景として街の一部になっていた。そもそも水気の多い土地で地盤もゆるいので、場所によっては年に1cmくらいずつ沈んでいるところもあり、特に川を埋め立てた場所などはアスファルトの地面が波打って割れ、もとの位置より沈み込んでいるのがはっきりわかる。
この土地では稲刈りが終わった後も年中水が入ったまま乾くことのないじゅるじゅるした「じゅる田」と呼ばれる泥深い田んぼが多かった。じゅる田はドジョウやザリガニなどの住処になっていて、そういう水棲生物を食べる鳥たちも舞い降りた。
晴れの日は少なく、梅雨時は机の上の紙類が湿気で波打つこともある。押入の湿気取りにはあっという間に水が溜まり、しっかり封をしておかないと戸棚の乾燥わかめが勝手にもどって増えてしまう。楽器の多くは湿度に音質を左右される。気候的にも曇りが多いせいで、鍵盤から冴えない音が出がちなこの街はプロの音楽家を泣かせた。
川の流れを人工的に変えることを、水を治す、と書いて治水と呼ぶ。川はどこも病んではいないけれど、住む人々からしてみれば、しょっちゅう氾濫する川にはしかるべき治療が必要だった。もちろん自然の流れを変えようとする大規模な治水工事は、それが可能になる技術が熟すのを待つことも含めた長い年月がかかった。今では水害はずいぶん減ってそうそう水に浸されることはなくなったけれど、ここが水気の多い川の街であることは今も昔も変わりなく、街は事情と共に代謝しながら脈打ち、人々は過去の景色の名残と共に暮らしていた。


背割線上のアリア

西日の路地を女がひとり歩いている。道幅はバイク一台通れるくらいで、両側は民家が建ち並び、家と家の隙間の道が車通りに出るまでひたすらまっすぐ伸びている。
模様ガラスの向こうにぼんやり見える台所、キッチンハイターのボトル、ステンレスのボウルや鍋、吊り下げられたおたまにヘラ。路地にはそれぞれの壁の内側に収まった暮らしの気配が漏れている。錆びたトタンに外壁のひび、軒先に積み重ねられた白いプラスチックの植木鉢のそばでは緑のホースがとぐろをまいて、癖のついた箒、褪せた青いバケツ、割れたじょうろ、ゴムのつっかけなどが無造作に、油断の構図を作っている。廃屋の蔦は引き戸の隙間から屋内にも侵入し、人の住んでいる家の電気メーターは脳の芯が溶けそうな速度で這っている。
女の足取りは軽いけれど軽快というのじゃない。地面から少し浮いたように頼りなく地面と接触しながらふらふらと、歩いているというよりも流れてくるというほうがしっくりくる。実際女は流れてきた。流れるといったら川上から川下へ向かってくるものだけれど、女は少し離れた河口に近い街から、川の流れに逆らってこの街にたどり着いた。女の働いていた街は観光で栄え、住人のほとんどは観光産業に関わっていた。女もその一端を担っていたけれど、ある日働いていた一郭が火事で焼け落ち、住まいと職場を同時に失ってこの街に流れてきたのだった。

路地を進むと古い市場と交差する。昔大きな地震があって、街は壊滅的な被害を受けた。バラックを建てて暮らし始めた人々の生活を支えたのはこの市場で、食料も日用品も大抵のものが手に入った。現在の市場には花屋と食べ物屋が多い。バケツに入れられた種々の切り花の断面から生きた緑のにおいがして、道幅の狭い市場の通路に蒸れて立ちこめ、そこに揚げ油のにおいが混ざり込む。
徐々に日が落ちる。茶色いトラ柄の猫が女の前方をよこぎった。ついさっきまで女は映画館にいた。古い映画をやっていて、大きな目のヒロインは雨でびしょ濡れになりながら自分で捨てた猫を探していた。その猫と柄が似ていた。ヒロインは猫に名前をつけていなかったので、猫、猫と呼びながら路地を探しまわった。女は取り立てて映画が好きなわけでもなく、大きなスクリーンを前に赤い椅子に座って、娯楽の感じを味わうために時々映画館にあらわれた。演目をわざわざ調べて見に行くことはあまりなかったし、上演途中でも入りたくなったときに入った。字幕を追うのは面倒できちんと読んでいない。一定のリズムで白いポップコーンを口に放り込んでいる。劇場に入る前は山盛りなのに、映画を一本見終わる頃にポップコーンは消えている。全部口に入れたはずなのに食べたというより消えている。映画の内容はほとんど覚えていない。女はいつも途中で寝てしまう。かろうじて起きていたシーンでヒロインが歌ったMoonriverという曲だけが女の耳に残っていた。それでさっきからこの曲が頭の中でリピートしていた。

女は身軽だった。家もないし家族もいない。身ひとつあればとりあえず食べることには困らなかった。望んだ暮らしというよりは、特にすることもしたいこともなく、何かを選択したり拒んだりする理由もないまま自然とそうなった。そんなことよりとにかく女はいつも眠かった。前にいた街を火事で追われるかたちで出てきたけれど、特に街への未練も持っていない。だいたいどこでも同じだった。つまり女自身が場所なのだ。
家族はいないと言ったけれど、今よりずっと若かった頃、女には子供がいたことがあった。一緒に暮らしたことはなく施設に預けたままだった。半年に一度くらいは顔を見に行き、ふたりで出かけたことも数回あったけれど、子供は6歳になってすぐ死んでしまった。父親ははっきりしない。子供が可愛いと身の内から沸き起こってくるような感覚はほとんどなく、とにかく女はいつも眠かったので、睡眠時間のほぼすべてを捧げる子育てが自分にできる気もしなかった。それに子供を産んだ頃の女自身もほとんど子供のようなものだった。女にとって、生きて動いているものを自分が産んでしまったという事態はどちらかといえば不気味だった。産まないことを選択するには遅すぎたので産むことになったけれど、周囲の勧めもあって施設に入れた。女はいつも身の上に敷かれていた道をただ歩いてきただけで、時々の場所にたどり着いて生きていた。けれど女は眠気で朦朧としながらも幸せになりたいと思ってはいた。お金は必要だけれど金持ちになりたいわけではなく、結婚したいとも誰かと一緒にいたいとも思わないし、こうなりたいというものがなかった。ただ人よりも余計に眠る時間が必要だった。それくらい抗えない眠気が女を体の中に引きずりこみ、何かや誰かに執着する暇を与えず、眠りのなかに沈めてしまう。

往々にして重たいまぶたが西日の眩しさでますます落ちてくる。ファンデーションの油が浮いて、化粧をしないほうがましな顔になっている。よく見ると女は右手に何かを握りしめている。近づいてみるとそれはどうやら鞄の取っ手だった。けれどその取っ手の下にあるべき鞄の部分がついていない。取っ手から察するに実際そこに鞄があるなら旅行鞄くらいの大きさだろうか。もしも鞄があるとしたらそこには鞄の外側と、その中に持ち運ぶべき荷物が入っている。女は鞄と鞄に仕舞うべきものをどこに置いてきたのか。握られた取っ手の下が何につながっているのか誰にもわからない。そのことについて女が誰かに何かを話したことは一度もなかったし、何より女は眠かった。鞄はどこかへ行くために必要なものを運ぶ表面である。女は内容を語らない。透明な鞄を手に物語を語り損ねたまま眠い女は路地を歩いている。日が沈んだ後も残照で街はまだしばらく明るく、45分かけて街は夜になっていく。

背割線(せわりせん)…区画整理のため、道路に囲まれた長方形の土地を長辺に平行かつ短辺の真ん中で分断すること、またその分割線。


雲の下請け職人

もともとこの地方は湿地帯であり、水量の豊かな川があるこの土地は、雲の原材料に恵まれ、雲産業にはうってつけだった。雲の下請け職人は工房で雲を作っている。このごろ以前にも増して仕事に熱が入っているのは、結婚して妻と暮らす家を買ったばかりだったからだ。街の中心部に見つけた物件を工房付きの住居に造りかえ、新たな生活を始めたばかりの夏の夜。

「何か飲む?」
「あ、牛乳あったらホットミルクください。」
「へえホットミルク、コーヒーとかじゃないんだね。」
「うん、雲作ってる最中はなるべくね、白いほうがいいんだよ。」
「そうなの。え、もしかして、冷蔵庫によく卵の黄身だけ残してあるのって…。」
「そうそう。自分で昼めし作るときは、白ごはんに白身の目玉焼き乗せてマヨネーズかけて食べてる。」
「ほんと真っ白だね。メレンゲって知ってる?」
「メレンゲ。」
「今度作ってあげよう。とりあえず仕事中はホットミルクね。」
「あとカルピス。牛乳は冷たいままだとすぐ腹こわすんだ、子供の頃から。」
「わかったわかった。」

「ごめん、ごめんごめん牛乳チンしすぎた。買ったばっかで使い方よくわかんなくて電子レンジ。なんか無駄に高性能で、あ、皮はってる。」
「ラムスデン現象。」
「そういうの。」
「うん、湯葉もそう。」
「湯葉だとありがたみあるのに。」
「でもおれわりとこの膜きらいじゃないよ、ん、どうしたの。」
「…あ、いや、お仕事はかどってる?」
「まあいつも通りかな。」
「これは、何雲?」
「子宝雲。空に上げると膨らんで、中から小さい雲がたくさん出てくる。」
「ポップコーンみたい。」
「うん。でも子宝雲はどっちかというと古典雲だよ。今はなんかのキャラクターとかさ、そういう雲がもてはやされるけど、雲っていうのはそういうもんじゃないんだよ本来。」
「わかりやすいものってすぐ飽きるよ。」
「まあね、なんかの形をなぞるとか真似るってのは、雲の仕事じゃない。」
「それに輪郭線なんてほんとはこの世のどこにもないからね、どういうものにも。そう見えるだけで。」
「そうだね。でも境界は確かにあるよ。だってほら君はここに…」
「こら仕事中でしょ。」
「しょうがないよ。だって我々は、」
「新婚です。」
「ああでも、そうだ、そう雲は触りすぎるとうまく浮かなくなるんだ。だからあんまりこだわってやりすぎるのも良くない。」
「この前作ってた星の形が浮き出てる雲、何て言うんだっけ。」
「盗星雲。」
「時々空で燃えてるやつは発火雲、同じ雲が重なってるのは、ふた、えー、双生雲でしょ。」
「そうそう。双生雲は難しいんだよ。全く同じ形を作るのがね。空に上がった時にほどけていく速度も揃うように編まないといけないからね。」
「こないだ買い物に出たら商店街のあたりで地面に落ちてる雲を見たよ。」
「そういうのは不雲て言うんだ、職人のあいだでは。」
「この途中の雲の編み目、すごくきれい。」
「それはまず糸がいいんだよ。ここの気候と雲糸職人がいい仕事をしてくれるからさ。この細さを均一に作れる雲糸工場はもう2件しかない。雲もものによっては機械入れて大量生産できるけど、うちみたいに手でやるしかない雲もあるからね。」
「あんまり作り置きもできないもんね。消えちゃうし。」

「雲って、昔は人が作らなくても自然と空に浮かんでるものだったんでしょ。」
「そうらしい。どこかで循環がうまくいかなくなったんだって。」
「雨降らなくなったら生きもの全員の問題だよ。」
「雨雲はね割合簡単なんだよ、機械でできるし。おかげで砂漠に降らせて農地を作れるようになったから世界の食料事情はかなり改善されたけど。雨雲だけじゃなくて、やっぱ青空にただ浮かんでるだけの雲もあってほしいって思ったんだろうね。」
「人はなんで消えてしまうような雲を求めるんでしょうか。」
「それはさ、ふわーっと浮かんでるようなものが頭上にあったほうが、なんていうか生きるのが楽になるんだよ。人は生まれてからずっと重力に引っ張られてるから。ん、なに、外、なんかいる?」
「…え、ああなんでもない。なんか動いたような、猫かな、たぶん猫。暗くてよく見えなかった。」
「一緒に暮らし始めて思ったんだけど、なんか時々ぼーっと変な方向見てるよね。」
「あー、それね、あんまり気にしないで、子どもの頃から親にもよく言われた。それでさ、ふわーっとしたものがあったほうが生きるの楽っていうのは、なんだろ、信仰っていうか、そういうのをちょっと思ったけど。」
「うーん、いい雲はある程度心の淀みを吸着してくれるってのはあるけど、信仰っていうか、まあでも、消えるしなあ。」

「この、雲心月性?って書いてある木の札は実家から持ってきたの?ずいぶん年季入ってるけど。」
「うちは代々雲作りだからね、親父の工房に掛かってて引っ越すときにもらったんだ。これがなにより大事なことだって、作れるようになったからって作れると思うなってよく言われた。」
「雲職人の血なんだね。」
「近頃はなんだか人気キャラクター雲とか、オリンピックの五輪雲とか、雲がコマーシャルに使われたりするけど、役に立つとかそういうことじゃなくて、ただ浮かんでるのが雲だから。」
「その辺のことは天体気象庁も考えるべきね、今にもっとまっとうな雲が求められる時代がくるよ。」
「だといいけど。」
「いま作ってるのはいつ上がるの。」
「これから蒸して冷して削って、凍ったまま納品するけど、それでもあんまり保たないから、まあ明後日くらいかな。」
「見られるかな。」
「運が良ければね。」
「私もはやく手伝えるようになりたい。」
「でもきっと筋はいいよ、描いた絵を見たときそう思った。」
「そうかなあ。」
「とりあえずコツは一生懸命作りすぎないことかな、懸命さは重みになってしまうからね。」
「それ、簡単に言うけどむずかしい。」
「あといつも肩の力を抜くこと、肩こりはいい仕事の敵だからね。」
「肩ね、肩リラックス。」
「極力ふんわりするんだ、心の芯の方からね、それを指先に伝えて。」
「理屈はわかるんだけど、すぐそうはならないよ。意識と体がばらばらな感じがする。」
「練習すればそのうちできるようになるよ。」
「はい、がんばる。」
「がんばらないようにね。」
「がんばりません。」
「ブランコ乗ったときのさ、あのふわっとする感覚にいいヒントがあるよ、川沿いの公園にあったかな。」
「あったよ確か。」
「あとで散歩ついでに乗りにいこう。」
「ちょうど牛乳もなくなったから。」
「ああ、今日は遅くまでやんなきゃ間に合わなそうだからね、牛乳ほしい。うちにくる仕事はいつも短納期だからなー。」
「霞を食っては生きていけません。」
「ごもっともです。」
「あなた。」
「ええっ、はい。」
「初めてそう呼んでみました。」
「びっくりするわ。」
「新しいベッドはね、雲みたいにふわふわです、いいお布団買ったから。」
「それは…、雲づくりの巣にふさわしい。」
「これから毎晩、そこで寝ます。」
「毎晩。」
「ええ、たぶん。ほとんどの毎晩。」
「ほとんどの…。」
「はい。」
「……早くこの発注分終わらせよう。」
「あなた。」
「はいっ。」
「焦ってはだめです。極力ふんわりでしょ。」
「そうでした。よし、がんばろ。」
「がんばらないようにね。」


川守の唄

そうだな、水害はずいぶん防げるようになったけど、ちゃんと川を見てるやつがいなかったら今だってすぐ水に浸かるさ。そりゃそうだ、自然のものを技術でどうこうするってのは、まぁある程度可能だが、もちろん限界がある。もともと土地が持ってる性分てのは変わらんからな。

さらでだに月は悲しきものなるに

俺はもう長いことここにいて、毎日こうして川眺めとったら、ちょっと俳句なんか詠んでみるかと思うようになって、いやいや、初心者だよ。ひとに聞いてもらうのは初めてだ。でもひとりで作ってるだけだとさ、本当の意味で俳句を作ったことにはならんのだって。入門書にそう書いてあった。俳句はたった十七音で、なのに3分の1は季語に取られてしまうわけ。そうしたらもう言いたいこと言うのに全然言葉が足りんだろ。つまり俳句はカギみたいなもんで、読んだ人の想像が広がっていかんことにはただの文字でしかない、ということになるんだな。

春の野にブルドーザーのわだちかな
川ぶちのごみの目立ちて水温む

この辺りはちょっとでも雨が降ろうもんならすぐ水がついて、家の窓から魚釣りできるくらいだったよ。2、3日して水引いたらそのあと石垣にへばりついた水草やら泥から生臭さを超えた異様なにおいがしてきてな。川を治す前は3年に1度くらい床の上まで水に浸かる大洪水が起きた。もちろんその度に後は大変だったが、この土地に住むもんの宿命だからもうしょうがないしょうがないって、みんな割合悠長に暮らしてた時代もあった。

魚はねる水の音する無月かな

舟で菱の実をとったり、エビもしじみもいくらでも捕れて、それでやっぱり釣り好きは多くてな、ウグイにボラにフナ、ハヤ、ナマズ。釣りはもちろん魚が釣れるのがおもしろいんだが、来るか来ないか知れないもんを川と一体になって待つのもなかなかいいもんやと、日がな一日岸に並んで川眺めてな。ああ、風景はずいぶん変わった、なんせ川の形が変わったんだから。米洗うのも洗濯も川でやるのが普通だった。洗い場で赤い腰巻をたくし上げた裸足の女たちが、こう、うまい具合に足で踏みながら洗濯してたのがなんとも、白いふくらはぎ、まことにいい眺めでありました。

緑陰を倒にうつす水面かな

大きな地震があった。地面が波打ったんだ、本当に。ちょうど昼時で火を使ってる家が多かったもんで、街の半分くらい焼けてしまって。そういえば揺れる直前、海の方から大砲打ったみたいな不気味な音が何度か響いてきた。だからもしそういう音聞いたら用心するんだぞ。夜になると屋根から火柱が立ちのぼって、建具や壁のひとつひとつが燃え落ちていくのまでよく見えた。燃え盛る火が川面に反射してな、そりゃあちょっと現実とは思えない、絵巻物で見るような光景だったよ。避難して対岸からそれを眺めて「きれいに焼けますなあ」とつい口からこぼした人もいた。
立野橋は今より南のほうに架かってて、最初は板をつなぎ合わせたような欄干もない橋だった。長い長い。70メートルほどあった。子供が番小屋でかき餅やら頬張って、将棋で遊びながら当番して橋銭取ってた。橋銭踏み倒して突っ走っていく子供もいたな。雨風の強いときは大人でも渡るのに難儀したし、橋に慣れない女学生なんかは、通学下駄の歯が橋板に挟まると怖がって下駄脱いでさ、友達の袴の腰板持って目をつぶって渡ったよ。橋はちょっとした洪水ですぐ流されるから、その度に誰かが下流まで橋板探しに行って直してた。橋は道路が整備された頃に今の位置に架け替えられて、その頃って言ったらまだ鉄道も通ってなかったしな、人も物も船で運ばれて来るもんだったよ。

なんとこの川で水雷の演習やったこともあった。ものすごい爆音と水煙が上がって、それが静まったら、川面に白い腹浮かべた魚がわらわらわらわら浮かんできた。戦争から帰ってきた兵隊さんらが療養に来たときは、立野橋のたもとから屋形船に乗って温泉の方へ向かうの見送る人が橋に押しかけてきた。そしたら人の重みで橋板ごとバシャーンと川に落ちてな。負傷兵見送りに来て負傷かな、うーん、いちおう五七五だけどな。あと千石船ていう巨大な古い木の船が白い帆を張って、こう悠然と雪景色を上り下りしてた風景はそのまんま額に入れたいくらいだった。

仕掛花火に照らし出されて顔ふせぬ

今みたいに恋人同士が気兼ねなく手をつないで歩くなんて、自由にできなかったときもあったんだよ。でも好きになってしまったらいくらダメって言われようがやっぱり会いたくなる。そんなのもうしょうがないだろ、しょうがないよ。いつの時代もそういうもんだから、みんな人目を忍んでうまいこと会ったりしてた。見つかって泣く泣く引き離されて、一生会えなくなったふたりもいた。

踊りの輪抜けて逢う夜の立野橋
月は待つもの廃川に佇みて

川辺は暗いし人目を避けられる茂みもあってちょうどよかった。そう考えると、この川が縁でこの世にいる人だって案外いるんじゃないか、いや、結構いるかも知れん。
川沿いで育まれたのは歴史の本に書いてあるようなインダス文明だとか、そういうふうに残ってるようなもんだけじゃないんだよな。


(彼)

水のにおいがときどき、ちょっと生臭いと(彼)は思った。けれど海じゃなかった。海じゃない。でもこの川には海水も混ざっている。あちこちに水の気配があった。この街のあちこちに流れない川が横たわっている。川じゃなくなった、けれど川。それは自分と同じに死んでるってことだろうかと(彼)は思った。死ぬと体にはいられなくなる。川は死んでも体を失わない。でもそれなら川の体っていうのは水と水の流れる溝を指すわけで、どちらか一方では川とは言えなくなる。流れはないけれど水と溝があるということは、それは川という状態で、本来の川としては生きていないけど、死んでもいない。それは人でいうとゾンビみたいだと(彼)は思った。このあいだ映画館でやっていたホラー映画でゾンビというのが出てきたのを見たところだった。(彼)は自分が生きていないことをもちろん知っているし、ほとんどの生きている人に(彼)の姿が見えないこともわかっている。それだから誰にも怒られず好き勝手できることもたくさんあるけれど、時々生きている人の中に(彼)の姿が見える人もいた。
最近この街に引っ越してきた雲職人の家の奥さんはどうやら(彼)が見えるらしかった。雲職人の工房を覗いてみたとき、雲職人は(彼)に気づかなかったけれど奥さんの方とは目があった。夫婦で話しながら奥さんはちらちらと(彼)の方を見ていた。そこに幽霊がいる、と言ったりしなかったし怖がる様子もなかった。それ以来(彼)行きつけの映画館が工房に近いこともあって、通りすがりにふと覗いていくようになった。雲職人の奥さんは絵を描く人だった。(彼)がしょっちゅう現れるようになってからしばらくして、一枚の絵が工房の壁に掛けられた。輪郭線をはっきりと引かない絵で、不確かな形のまま留められているけれど、人の形がぼんやり浮かび上がっていた。これは自分を描いたものに違いないと(彼)は思った。その証拠に彼のTシャツと同じ色が画面にふんだんに使われていたし、おぼろげな線から伝わってくるものを(彼)は受信した。絵に描かれたのは、生きているあいだも死後も含め、生まれてこのかた初めてだった。(彼)は自分の名前を覚えていない。絵に描かれるのは名前を呼ばれるのとは違うけれど、別の仕方で呼びかけられた心地だった。(彼)は工房の数件先にあるとびます整体の前まで来ると、とびます、という言葉と自分の心境が合致してアタリを引いたようにうれしくなり、電柱より高くとびはねた。

日が沈んで子どもはみんな家に帰った後も、(彼)は好きなときに好きな場所に現われた。家に帰らなくても怒られないし、そもそも家がどこにあるかもわからなかった。(彼)は生きていた頃のことをいくつか覚えている。そのなかに一度映画館に連れて行ってもらった、というのがあった。始めてスクリーンで見たアニメ映画の大画面と大音量に興奮して酔い、映画の前に食べたミートソースのスパゲティーを全部吐いた。調子に乗ってこれでもかと振った粉チーズの匂いが鼻から抜けていくとき、調子に乗ったことを後悔した。もう食べることもなくなったけれど(彼)は今もミートソースが嫌いだった。

この街の映画館はもともと貯蔵庫で、すぐそばの船着場から船に荷物を積んだ。そのあとは芝居小屋、それから社交ダンス場、戦時中は軍の倉庫として徴用され、戦後は歌謡ショウやラインダンスが上演される劇場だった。それからようやく映画館になった。大劇場と小劇場が併設されている。大劇場で主にピンク映画をやっていた頃は、小劇場に普通の映画を見に来ても隣から漏れてくるピンク映画の音声がどうしても耳に入るので、むしろ声の方が印象に残ってしまうこともしばしばだった。たくさんの記憶を持った場所には記憶の数だけ名残がある。生きているお客の入りが少ない時でも、この場所にゆかりのある死者の数が多いので、生きていないお客の方が多いくらいのときもあった。(彼)はこの映画館の常連だった。何か重たそうな荷物を担いで行ったり来たりしている人、いつまでも舞台衣装のままでいる人、人の形をしている幽霊だけでなく、踊る足首から下だけ、ダンスの音楽や芝居のセリフが断片的に聞こえることもあったし、誰もいないステージ上にスポットライトがふっと点灯して消えたり、スモークが立ちのぼったり、白粉の匂いが鼻先をかすめていくこともあった。(彼)は映画だけでなくそういう記憶の断片が再生されるのも楽しんで見ていた。

生きているお客にも常連が何人かいた。その中にいつもきれいな模様の描いてある爪でポップコーンをつまんで食べながら映画を見ている、というかぼんやりしている女の人がいた。(彼)は女の人がやってくると爪に何が描いてあるかにまず注目した。来るたびに絵柄は変わっていた。この日は紺色の爪に花火が上がっていた。いつもふらっと映画館にあらわれる。上演の途中で入って来ることが多かった。そして必ず途中で寝てしまう。映画館に来る人は特に映画が好きか、ヒット作を目当てに来るかデート、あるいは休日の家族行事でやって来るか、だけれど女の人はどれでもなさそうだった。一応目線はスクリーンの方に向かっている。でも目の前の映画を見ている感じがしない。いつも一人でやって来て客席に座り、暗がりで大画面と大音量にぼんやり浸ってポップコーンを口に放り込んでいる。ちょうどその時、映画の中でもヒロインが劇場で映画を見ながらポップコーンを食べるシーンが映っていた。映画を見ながらポップコーンを食べている人を映画で見ながらポップコーンを食べている女の人がそこにいる。それがまるで映画の延長のように見えることに(彼)は気付き、この現象がさらにずっとずっと続いていくことを想像して、しばらく海老反りの姿勢になっていた。
映画では探検家の役を演じる俳優がスクリーンから抜け出して、ヒロインと恋に落ちる。ふたりはデートを重ねるが、探検家は映画の世界の人物なので、撮影用の偽札でレストランの支払いを済ませようとしたり、ふたりがいい雰囲気になったら「なぜここで照明が暗くならないんだ」と言ったりする。探検家が抜け出したおかげで映画は途中で止まってしまい、スクリーンの中に残された出演者たちは次のシーンに進めないまま立ち往生している。探検家が戻らないので映画館から制作会社に連絡が入り、探検家を演じた俳優も事態の収拾にやってきた。ヒロインはその俳優とも恋に落ち、一緒にハリウッドへ行こうと約束して探検家を説得し、映画の中に戻ってもらう。ヒロインは家に戻って旅行鞄に急いで衣類を詰め込み、暴力的な夫を振り切ってハリウッドへ行こうとしたけれど、俳優は約束を破って帰ってしまった後だった。

女の人はいつもポップコーンがなくなる頃、映画の途中で眠ってしまう。この日もやっぱり眠ってしまった。ぼんやり具合が幽霊にちょっと近いと(彼)は親近感を持っていたけれど、女の人は幽霊がいるとかいないとかそんなことにあまり興味がなかったし、(彼)が隣にいても気付かなかった。(彼)がいたずらにポップコーンに手を伸ばしてみても、肩が触れる距離に座っていてもふたりは出会わない。女の人の世界に(彼)はいなかった。映画のラストシーンでは、行くあてもなく途方に暮れたヒロインがひとり映画館に向かう。上映演目は変わっていて、別の俳優が見事なダンスのステップを披露する。それを見てヒロインは少し笑った。(彼)が隣で眠る女の人をちらっと見ると、途中で目が覚めたのか珍しくラストシーンを見ていた。

エンドロールの名前を全部見送ると場内がじんわり明るくなった。女の人は赤い椅子からゆっくりと腰を起こした。映画館を出るともうすっかり夜になっていて、丸い穴のような月が出ていた。女の人はぼんやりした体を連れて川の方に向かって歩き、暗くなった堤防をふらりふらり上がっていったので(彼)もなんとなくその後に続いた。流れない川の水を吸い上げて循環させるポンプ場を横切って、水位計を横目に歩いていく。昼間は散歩や走る人の行き交う穏やかな風景でも、夜の川は黒々とした溝のようで、もともと流れが見えず水音を立てない川に夜そのものが溜まってさらに深々と静かだった。堤防から川沿いの公園を見下ろすと、雲職人の夫婦がブランコに揺られている。
女の人はいつものように鞄の取っ手を握っている。水音を立てない川はいろんなものを飲み込んで黙っているようだった。女の人は大きな欠伸をひとつして、月に向かって取っ手を握る手を振り上げて伸びをした。一瞬、月に取っ手がついたのを(彼)だけが見ていた。


※本作は城崎国際アートセンター主催事業ツアーパフォーマンス『カワラララプソディ』のために書き下ろされたものです。


【引用文献】
豊岡市教育委員会編 1971年『目で見る豊岡の廃川』(豊岡市教育委員会)

『目で見る豊岡の廃川』は変わりゆく廃川の風情を留め置こうと、豊岡市教育委員会の編集により一般公募で市民より集められた俳句、短歌、随筆、絵画、写真などの作品集です。作中の「川守の唄」で引用した俳句や川にまつわる回想は本書に依ります。また、作中の挿絵も本書に収録されている写真を基に描き起こしました。豊岡市教育員会をはじめ、撮影者、寄稿者の皆様方にこの場を借りて御礼申し上げます。

※引用させていただいた俳句の作者は以下の方々です。
さらでだに月は悲しきものなるに  長沢千里
春の野にブルドーザーのわだちかな 池田とし
川ぶちのごみの目立ちて水温む   木村ひろむ
魚はねる水の音する無月かな    萩原すみ
緑陰を倒にうつす水面かな     藤原糸枝 
仕掛花火に照らし出されて顔ふせぬ 岩本しなえ
踊りの輪抜けて逢う夜の立野橋   大伴破智郎
月は待つもの廃川に佇みて     相坂実英 
              (作中順、敬称略)

INFORMATION

ツアーパフォーマンス『Kawalala-rhapsody』
2018年8月24日(金)、25日(土)両日18:30~20:45
詳細⇒http://kiac.jp/jp/events/5007

© 2013 Kinosaki International Arts Center