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©︎igaki photo studio

アートプロジェクトが地域に起こすこと、残すもの
~美術作家・太田奈緖美の竹野での滞在制作から~【前編】
小島寛大(芸術文化観光専門職大学)

2024.11.10

城崎国際アートセンターでは、3組のアーティストとともに豊岡のさまざまな文化や自然をリサーチし、人々との交流を通して作品創作を行う「KIACコミュニティプログラム」を3年継続プログラムとして実施しています。最終年度の今年は、3組それぞれの視点と手法で捉えた地域の姿を、テキスト・音楽・映像・写真などのメディアとして保存し、共有と活用の可能性を探るべくアーカイブサイトを制作しています。

2025年1月のアーカイブ完成と報告会に先駆けて、芸術文化観光専門職大学の小島寛大氏によるレポートを掲載します。

小島さんには、3つのプロジェクトのうちの一つ、『この家で』滞在制作に関わった7名の地域住民の皆さん、KIACスタッフ、そして美術作家・太田奈緒美へのインタビュー実施をもとに、その過程で起こったことを検証し、記事を執筆いただきました。ぜひご一読ください。
(1)はじめに

 城崎国際アートセンターの地域連携ディレクターである橋本麻希さんから、同センターの「コミュニティプログラム」の1つとして実施している太田奈緖美さんの滞在制作についての原稿の相談を受けたのは2023年の夏。作品評ではなく、滞在制作でアーティストが地域に関わることでどのようなことが起こったのかを書いてほしいという依頼だった。
 その時、筆者は太田さんと面識がないばかりか、太田さんの作品を見たこともなく、また竹野という町には一度しか行ったことがなかった。やや不安もあったが、それでもお引き受けしたのには2つの理由がある。1つ目は、初めて訪れた時に、竹野浜の夕焼けと町並みの雰囲気にとても感動したという単純な理由だ。その竹野でどんなリサーチと創作が行われたのか知りたいと思った。2つ目は、文化事業の評価に関心があり、そして、今回依頼された方法がとても興味深く感じられたからだ。アーティストの滞在制作で起こったことを第三者がリサーチしてレポートすることで、客観的な視点からの記録になり、またプロジェクトの成果検証の資料にもなるかもしれない。
 そんな思いを持ちつつ、今年2月にパフォーマンスの上演を観劇し、続いて5月から7月にかけて、このプロジェクトに関わったKIACのスタッフ、7名の地域住民の方々、そして作家である太田さんにインタビューをさせていただいた。
インタビューでお聞きしたお話は、どれも時間を忘れてしまうほど面白く、すべての採録を掲載してもいいのではと真剣に思ったほどだ。たくさんの個性を持つ方々が、1つのアートプロジェクトの中で関わり合っていくプロセスを詳しく知ることは特別な体験だった。アートプロジェクトの醍醐味はそのプロセスの中にこそあるのではという思いを強くした。太田さんの滞在制作のプロセスで生まれたアーティストと地域の方々の交流の様子を少しでも感じとっていただけたら幸いである。
 なお、この原稿では、インタビューからそれぞれのコメントをたくさん引用させていただいているが、いずれも筆者の独断で抜粋させていただいたものである。プロジェクトのことだけでなく、ご自身のこれまでの活動についても生き生きと楽しくお話いただいた皆さんにこの場をお借りして感謝を申し上げたい。

(2)タケノ時空間散歩『この家で』~かつての竹野の情景へ誘うパフォーマンス

 兵庫県北部の日本海に面した兵庫県豊岡市竹野町(以下、竹野と略す)は、城崎温泉から車で西に15分ほどの距離にある。現在は人口4千人ほどの小さな町だが、江戸時代には北前船の寄港地として栄え、また明治の終わりから戦後までの約40年間、竹野鉱山(1949年に閉鎖)の金銀採掘で賑わった歴史を持つ。海から山に向かって竹野、中竹野、竹野南と呼ばれる3つのエリアが竹野川に沿って広がり、車を走らせれば海岸や漁港、農村や棚田などエリアによって異なる風景が表れてくる。行政区分では、竹野村、中竹野村、三椒村、奥竹野村が1955年に合併して城崎郡竹野村となり、1957年には城崎郡竹野町となった。2005年に豊岡市、城崎町、日高町、出石町、但東町と合併して現在の豊岡市竹野町となった。
 竹野を訪れた人がまず驚くのは、その海の美しさだろう。竹野浜海水浴場は遠浅で透明度が高く、夏には南国の海のようにエメラルドグリーンに輝く。その水質と1キロにわたって続く白い砂浜は、日本の渚100選などにも選ばれている。また、竹野海岸周辺には、外壁に潮風と砂から建物を守る伝統的な焼杉板を用いた家屋が並び立つ集落があり、2023年度「住まいのまちなみ賞」を受賞している。

提供:豊岡市
 

 そんな竹野浜の白い砂浜が目の前に広がる奥城崎シーサイドホテルで、2024年2月10日、「タケノ時空間散歩『この家で』お座敷語りならべ」が午後2時から上演された。美術作家の太田奈緖美さんが竹野に滞在してリサーチを重ねながら脚本を書き、俳優の岸本昌也さんが演じたパフォーマンスだ。上演会場は、ホテルの地階に下りて長い廊下を抜けた先にある宴会場「千石船」だ。広さ80畳の落ち着いた和風の空間に、50席ほどの客席が並べられ、緋毛氈が敷かれた台の上には見台と紫の座布団が1つ。落語か講談でも始まりそうな雰囲気の中、開演を待っていると、白いシャツに黒の半纏を来た若い男性が静かに1人現れ、柔らかな手つきで身振り手振りを交えながら穏やかに語り始める。

photo by bozzo
 


本日は、竹野に今暮らす方々の、そして、昭和52(1977)年〜平成16(2004)年まで28巻続いた文集『万年青』に綴られた、あの家、この家のお話から、3つお届けします。


 このパフォーマンスでは、「案内人(=語り手)である岸本さんによって、「竹野の嫁入り」、「竹野の遊び」、「竹野の仕事」という3つの話が語られる。岸本さんの言葉と言葉の合間に、インタビューの録音らしき話し声や、いろいろな風景の音などが滑り込むように聞こえてくる。

観客が耳にする言葉は、現在、竹野に暮らす年配の方々へのインタビューの内容と、文集『万年青』*¹に綴られたものから構成されている。およそ明治後半〜戦後まもない頃(今から約70〜100年ほど前)の竹野の暮らしを生き生きと語る言葉から、当時の情景が浮かび上がってくる。3つの話から、それぞれテキストの一部を引いてみよう。

南但から北但の竹野にお嫁に来て50数年経ちました。年の暮れに来てまず大雪にびっくりしました。
でも一番驚いたことはお墓でした。亡きがらを埋葬する墓と、先祖代々の魂を祀る墓とが別々なんです。あれから世の中もすっかり変わり、古い習慣が次々に消えて淋しく感じています(「竹野の嫁入り」より)


森中におった時は冬季合宿があってね。12月から3ヶ月間は、冬季合宿なんです。で、そこの屋根の雪下ろしをして、もう、大屋根からみんなで飛び降りると言う。抜けんようになって、助けてくれーなんて言って。(「竹野の遊び」より)


おじいさんたちは、またたびで籠の大きいの小っさいの作って、神鍋へ売りに行ってました。柳行李に使う柳は冬のはじめに刈り取って、春に川に浸けて柔らかくなったのを、金子箸と言う2本の鉄棒の又に入れて、びゅーと引っ張ると、しゅぱっと皮が剥けます。それを洗って晒して白くしたのを豊岡の人が買いにきて、大事な現金収入でした。豊岡で柳行李をつくっていて、それが今の豊岡カバンのルーツです。(「竹野の仕事」より)


 このように短く断片的ないくつものテキストが、岸本さんの柔らかな語りと録音の再生によって重ねられていく。3つの話が終わるまでおよそ50分の間、音楽はなく、岸本さんの柔らかい口調も変わることはない。観客は、少し照明が落とされた座敷でじっと耳を傾けながら、1つ1つの話の情景が頭の中で浮かんでは消えるのに身を任せながら、かつての竹野での暮らしに思いを馳せる。

 終演後には、同じ会場で太田さんの進行で観客を交えたトークイベントが行われ、上演を見に来ていた竹野の年配の方々にもマイクが回された。「年をとると大切なことを忘れていく。地域で暮らしていることを思い出して若返った」と感想を述べる人や、「まだまだ楽しいことはある。密着取材をしていると竹野から抜け出せなくなるのでは」と語る人。竹野の方々の言葉から感じられたのは、自分たちの竹野での暮らしに対する愛情と誇りだった。

photo by bozzo
 

(3)「美術作家」の太田さんが「お座敷語りならべ」を作るまで

『この家で』の観劇の帰り道に、このパフォーマンスを作った太田奈緖美さんというアーティストのことがとても不思議に思えた。プロフィールには「国内外で舞踏、ダンス、演劇など分野を横断して作品創作を行ってきた美術作家」とあるが、『この家で』は美術作家本人による即興的なパフォーマンスでもなければ、インスタレーションでもない。
 今回の上演を見れば、綿密に構成されたテキストがあり、それをもとに俳優が複数の役を演じ分け、その語りや身振りと音響効果や照明が絡み合う細やかな演出が施されていた。言葉にとても重点が置かれた演劇的な作品なのだ。しかし、作品のパンフレットには、脚本家や演出家などの名前は見当たらない。ということは、彼女が一人で脚本家や演出家のような仕事をしたということだろうか(ちなみに太田さんの「テキスト・構成」と書かれている)。そんなことができてしまう「美術作家」とは? 彼女はどんなキャリアやバックグラウンドを持つアーティストなのか。そして、なぜこのパフォーマンスを創ることになったのか。

 太田さんは、京都市立芸術大学で染織(テキスタイル)を学び、1988年に修士号を取得。1991年からオーストラリアのメルボルンに拠点を移した。オーストラリアでも芸術活動と並行して、RMIT University(Royal Melbourne Institute of Technology University、メルボルン工科大学)で彫刻を学び、1996年には修士号を取得、2012年には同大学でファッションと染織の博士号を取得している。このようにアカデミックな場で染織や彫刻を研究しつつ、現地に滞在する中で上演芸術との関わりも深まっていった。筆者とのインタビューに次のように答えてくれた(以下、インタビューの抜粋の文中でKは筆者)。

太田:メルボルンでダンサーやミュージシャンなど、パフォーマンス関係の人たちと知り合うことが多く、一緒にやることが増えていきました。2004年頃からです。
K:ご自身で出演されることはあったのですか?
太田:かたく嫌だと断り続けました(笑)
K:当時の主な役割は?
太田:空間構成ですね。でも、図面を引いたりはしない。大きなところでパフォーマーと相互作用しながらインスタレーションの配置を変えていく感じです。


その後、太田さんはメルボルンを拠点に国内外の多数の作品やプロジェクトに参加し(現在は神戸在住)、ダンスや演劇の分野のアーティストとの共作も重ねてきた。特に2007年からは劇団ノットル(韓国)のプロジェクトに継続的に参加している。このような経験を持つ太田さんにとって、『この家で』のクリエイションはこれまでの活動の延長にあったようだ。

K:今回の作品では、かなり言葉をたくさん扱われていて、劇作家あるいは編集者のような役割もされていたかと思います。
太田:そうなんです。コロナなど色々な経緯があって、2020年の『この家で』に、参加するのが私ひとりになってしまって。脚本家がいた方がいいのではという話もあったけれど、私しかリサーチに参加していないし、未経験の人に伝えるのはできないと思いました。だから、テキストから全体の構成から、全部やりました。
K:一人でそこまで担うことは、太田さんにとってはじめてのことだったんですか?
太田:特別な気持ちでやったわけではなかったけど、はじめてでしたね。でも、そのことをあまり深く考えたり、抵抗があったわけではないです。わりと文章は好きなんです。インタビューをして、文字起こしをしたものを、どんどん構成していって。自分で一から物語を作ったわけではないです。ダンスの作品でダンサーがどう出てくるかを一緒に考えたりしたことはあったので、特別に新しいことにチャレンジしたという気持ちではありませんでした。


『この家で』の約50分間のパフォーマンスの中で、観客が耳にする俳優が発話する様々な言葉や録音は、「聞いたもの、読んだものだけで構成した」という。創作されたものはなく、滞在制作の中で太田さんが出会ったものが編み合わされて観客に届けられていたのだ。

太田:もともと土地のことを調べること、民俗学とかが好きなんです。
K:地域の歴史、文化、そこに住んでいる方々のお話に興味があったのですね。
太田:取材をすることも好きです。やっぱり現地調達でということも多かった。
K:現地調達?
太田:現地調達。ちょっとこじつけかもしれないけれど。沖縄の竹富島のかすり織が大好きで、なぜ、このデザインになったのかを調べたことがあるんです。空間性とか文化といった背景とデザインがすごくマッチしている。その織物で使っている素材、繊維はそこで採れたものを使っている。その土地の素材を作品に取り入れることで、例えばシアターという閉ざされた空間だけにとどまらずに、外の空間や環境ともつながる。今回、言葉を集める上でも私の中では素材を集めることとそんなに変わりがない気がしています。今回は言葉ですけど、わりと自然に自分の作業としてやっていました。


 『この家で』で語られた3つのお話(テキスト)は、現地の言葉で編まれた3つの織物(テキスタイル)のようにも思われてくる。テキストもテキスタイルも、ラテン語で「織る」や「編む」を意味するtexere(テクセレ)という同じ語源を持つ。太田さんにとっては、素材が繊維であれ言葉であれ、土地の素材を現地で見つけ、それらを編み合わせて構成や配置をデザインするということは「変わりがない気がする」のだろう。

 パフォーマンスの上演を終えてから数ヶ月後のインタビューで太田さんは「竹野の素晴らしさをなんとか抽出したいと思っていたが、はたして何ができたのかと考えることもある」、「本当はフィクション、物語を書きたいと思っている」と心境を語ってくれた。

太田:メルボルンにいた時に読んだ本で、アメリカの文化人類学者がスールー諸島の船上民族をリサーチして学会で発表しても日記を書いても自分の体験と違うと感じ、10年くらいかけて物語を書いて、それでやっと納得できたという話があった*²。わかるんですよ、その感覚が。なるほどって。私が今感じている気持ち。
K:自分が滞在した経験をアカデミックな形で発表しても、日記にしても、間違ってはいないが何かこぼれ落ちてしまうものがあるということですね。
太田:クリエイティブなもので昇華できるものがあるのではないでしょうか。


そして、これからも竹野に通って何か形に残るものを作りたいのだと、太田さんはカルタをつくるという1つのアイデアを話してくれた。KIACのコミュニティプログラムは今年で一区切りになるそうだが、太田さんの竹野でのプロジェクトは、きっとまだまだ続いていくのだろう。

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小島寛大
アーツマネージャー、エデュケーター。芸術文化観光専門職大学 助教。こどもを対象とする芸術文化プログラムの企画と評価をテーマに実践と研究に取り組む。京都芸術センター、NPO法人アートネットワーク・ジャパン、フリーランスを経て2023年より現職。2021年よりコジカレーベルを主宰し「移動おんがく実験室スタジオ☆ムジカ!」を各地で開催。準認定ファンドレイザー、日本評価学会認定評価士。本とアートに囲まれたこどもの学び基地「knocks! horikawa」共同運営者。