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photo by 蛭田絵里香
残らないものを残すこと
〜上村なおか+森下真樹「駈ける女、掘り出す女。」滞在制作レポート〜
蛭田絵里香
2024.11.21
2013年に故・黒沢美香が振付家・ダンサーとして活躍する上村なおかと森下真樹の二人に振付した『駈ける女』
初演から10年を経て、再び身体に蘇らせることを通して、ダンス作品を後世に残すことについて、上村と森下が探究した滞在制作「駈ける女、掘り出す女。」(滞在期間:2024年2月15日~3月11日)
このプロジェクトを記録担当として追った芸術文化観光専門職大学1期生の蛭田絵里香さんによる滞在制作レポートを掲載します。
初演から10年を経て、再び身体に蘇らせることを通して、ダンス作品を後世に残すことについて、上村と森下が探究した滞在制作「駈ける女、掘り出す女。」(滞在期間:2024年2月15日~3月11日)
このプロジェクトを記録担当として追った芸術文化観光専門職大学1期生の蛭田絵里香さんによる滞在制作レポートを掲載します。
「駈ける女、掘り出す女。」この滞在制作は記録に残すべきだ。そう決意してから、半年あまりが過ぎた。『駈ける女』とは、故・黒沢美香が、10年前に振り付けた作品である。それを、当時のダンサーである上村なおかと森下真樹が、振付家不在でもう一度踊る。城崎にて、この試みがなされたのは2024年2月から3月にかけてのことだった。
『駈ける女』が上演されたのは、2013年4月末。振付家はコンテンポラリーダンス界のゴッドマザーとも言われる、黒沢美香。当時既に、振付家としても円熟していた上村なおかと森下真樹がダンサーとして出演した。会場はスパイラルガーデン。東京・青山の複合文化施設 スパイラルの1階に位置する、円形のギャラリーである。螺旋型のスロープが壁面を囲む、美しい空間だ。
photo by 高橋 遥
滞在制作中、当時のことを知る多くの関係者たちが城崎に駆けつけた。なおかさんと真樹さん、そして美香さんの人柄がうかがえる。ホワイトボードに書かれたスケジュールはパンパンだった。
私がなおかさんと真樹さんのお二人に初めて会ったのは、2024年2月24日だった。プロジェクトの趣旨も詳しく知らないままにKIACを訪れたその日は、作品にとって重要な一日だった。
この日は、10年前に衣装を製作した、萩野緑さんが来ていた。緑さんは、当時の衣装を再現し製作した衣装を携えて城崎にやってきた。本当は保管した当時の衣装を持ってくるつもりでお二人とやりとりをしていたのだが、あいにく見つからず、数少ない写真を参考に新しくつくってきたそう。この5日前、19日に合流していたなおかさんと真樹さんは、緑さんが来るまでに、地図(当時の振付スコア)と記憶を頼りに<妄想バージョン>を創作していた。地図は、27のシーンタイトルと、円形のエリアを時計に見立てた位置記号がたまに書いてあるくらいの、とても簡素なものだった。その妄想バージョンを緑さんに見せるべく、二人は踊った。私はそこで初めて、二人が粗く掘り出し始めた『駈ける女』を見たのだった。
踊りの後、緑さんはお二人に衣装を渡して見せた。白と鮮やかなピンクの衣装を手にした二人は、懐かしさにぶわっと花が咲いたようだった。衣装を着た二人は、全身の感覚が変わったかのように、恐る恐る歩いてきた。眠っていた身体の記憶が、衣装に触れてこれでもかと感光したのである。この日は、ここからが本題だった。衣装姿のまま、当時の記録映像を見る。二人はこの映像を、10年前の本番後からこの日まで一度も、見てこなかったそうだ。画面にタイトルが表示され、無事再生されることがわかると、いよいよその場の空気が震えるのがわかった。会場であるスパイラルガーデンは、開放的な空間に見えた。映像の中の二人は、目の前で見た踊りよりも野性的で瑞々しく、迸るエネルギーを抑えようと思っても抑えられないような土臭さ、獣臭さがあった。白く美しいスロープに人々が詰めかけ、小さな天体でも見るように二人を囲んでいた。その中に懐かしい顔ぶれが見えると、楽しげに画面を指さしている現在の二人。しかし画面の中の二人は、身体のありようも違うが、振付やスピードに関しても、先ほど踊っていたものとはまるで違っていた。それは優劣ではなく、違いであり、恐らくは変化であった。上演時間は約1時間。踊り終えた二人は、360度回りながら観客に礼をする。すると、その二人の元に、客席から黒沢美香が現れた。
「美香さんだ…」
photo by 高橋 遥
「よく食べてよく笑う!」by美香さん
この滞在制作の観察は、大学同期の髙橋遥と共に行った。概要を知って、これは記録するしかないと確信した髙橋に誘われる形で、二人でお二人の変化をつぶさに見つめることになったのだ。ホワイトボードに書かれた文字通り、私たちはお二人とよく食べてよく笑う日々を過ごした。思い出すために集まった人々と食事を囲むのは、何だか弔いのようで、いない人まで呼び寄せる気がした。
上演芸術のアーカイブ、ドキュメンタリー、語り、写真、ダンスなど、つまり変化してゆく存在をどう捉えるか、記録によって何が残るかという点において髙橋と私の興味は一致していた。振付家は不在、10年経ってダンサーたちの身体は変化し、どんな記録や記憶をかき集めても、そのダンスのすべてが記録され再現されるなんてことはあり得ない。だとしたら、もう一度踊りたいと願ったときに、一体何が起きるんだろう。そのことの困難と、切望に二人が向き合い、変化するさまを客観的に記録することにこそ、このプロジェクトの本質があるように思われた。
photo by 高橋 遥
なおかさんと真樹さんはその後、映像に残った振付を現在の身体で踊ってみることにした。<再会バージョン>だ。お二人は滞在中、日々ランニングをすることで駈ける身体をつくることを欠かさなかった。なおかさんの手元に残っていた当時のスケジュール表を見ると、リハーサル期間に入る前にランニングをするように美香さんから指示があったようだ。同じウォームアップをしていても、当時のスピードで当時の振付を踊るのは、やはり相当に大変なようだった。
映像を解禁してから4日後の2月28日。照明家の三浦あさ子さんが来ていた。あさ子さんは『駈ける女』の照明家ではなかったが、黒沢美香と数多く協働しており、二人のこともよく知る人物だった。私たちは、再会バージョンとして二人が踊った映像を見ながら、食事を囲んだ。「一挙手一投足を残すことが振付を残すことではない」「”これ”がいまの身体でできないならやめるべき」、とあさ子さんは言う。当時の振付を”駈ける”エネルギーで踊れないのであれば、新たに創作した妄想バージョンでいいのではないかと。厳しい指摘だ。当時の衣装には、顔を隠すような、額からかかるフリンジがあった。それも現在の二人には不要なのではないかと言う。駈けたそばから土煙が立つような迫力と疾走感が踊りの質感だったのであれば、やっとの思いで振付通りに踊ることができるという状態で踊っても、それは『駈ける女』ではない。10年を経た現在の身体でできることを考える、その方向にアプローチしてもいいのではないかという意見だった。ワインを飲みながら、27のシーンを1つずつ振り返り、あさ子さんが二人に所感を聞き取っていく。この気の遠くなりそうなフィードバックは、深夜まで続いた。
さらに4日後。3月3日に行われたオープンリハーサルでは、スクリーンに10年前の記録映像を映し、その前で二人が踊るという試みをした。これはあさ子さんの提案だった。映像中の音声にしたがってタイミングを取るため、スピードも当時のままである。KIACのスタジオには、スパイラルガーデンを再現した螺旋状の客席が組まれた。
photo by 高橋 遥
滞在制作が佳境に差し掛かったところで、この文章のカメラアングルを現在(2024年11月)の私の自室に移したい。なぜなら、今こうして書いていることも、私には恐ろしいからだ。残すということは、ある種の複雑さを切り捨てて簡略化し、表象可能な情報に置き換えるということだ。それも、自分が思い出すためのヒントとしてではなく、それまでを知らなかった人にも共有するものとして記録をまとめている。この恐ろしさは、滞在制作でともに過ごした時間が長いほど、記録が多いほど、肩に重くのしかかる。時間が経てば、記憶は削ぎ落とされて、それでも残った自分にとっての本質のようなものが浮かび上がり、文章にすることが少しはラクになるだろうかと思った。変わりゆくものに点を打つ。変化を変化として振り返ることができるように、記憶を留め、記録を残す。この困難はなかなか消えず、だからこそ一層、ダンサーたちが振付を掘り出すことの凄みを感じていた。
再びカメラを2024年3月のKIACに戻す。
オープンリハーサル後、なおかさんと真樹さんは、1週間後の成果発表をどのように行うかについて検討していた。KIACには、黒沢美香作品の制作である平岡久美さん、当時は観客で現在はドラマトゥルクや舞踊評論などで活躍する呉宮百合香さん、『駈ける女』プロデューサーの宮久保真紀さんなどが次々訪れて、来たる成果発表の日を見守ろうとしていた。髙橋と私は、成果発表の当日パンフレットを制作することとなり、それに向けてたくさんの聞き取りをした。
photo by 蛭田絵里香
この滞在制作は、数年前、真樹さんがなおかさんに「踊ってみたいけど、どうですか?」と誘うところから始まる。振付家不在で踊れるのか、記録映像なしでは踊れないのではないかなど、課題は多かったが、それよりも踊りたいという気持ちが勝った。当時はいっぱいいっぱいでわからなかった、『駈ける女』とは何だったのかを知りたいという気持ち。今だから噛み締められたり、今でもわからないことがあったり。この作品と出会い直すことでこの10年をどう過ごしたかを実感したい、確認したかったと二人は語る。お互い東京に住んでいるが、生活が雑然としていて、会うだけでも難しかったようだ。思い切って、当時の資料をトランクに詰め込み、自宅から遠く離れた城崎という地に来ることにしたという。
『駈ける女』はそもそも、なおかさんと真樹さんの宣材写真が似ていると話題になっていたことがきっかけだった。二人は面識がなかったが、似ていると言われることで意識していたという。プロデューサーの宮久保さんがそんな二人のデュオを制作しようと決めた。当時二人はすでにそれぞれ独立した振付家として活動しており、誰かの振付作品にダンサーとして参加することが少なくなっていたため、新たに振付家を呼ぶことにした。そこで二人が出した希望が、黒沢美香だったのである。顔が似ていると言われる二人の身体性や踊りの違いをあえて明確にする狙いで、衣装で顔を隠し、髪も二人とも長いままで出演するよう指示されたという。しかし、10年が経った今、二人の違いはもはや明確である。似ているということがきっかけだったと聞いても、いまいちピンとこなかった。
再会バージョンを制作するにつけ、「踊ることを繰り返すうちにどんどん没入して、隠れていた身体の記憶と結びつく感覚を得た」と、なおかさんは言う。真樹さんも、オープンリハーサル後の所感について、「もっとやりきるところまでやりたい、もっと染み込むまで、ここで終わるのは絶対に嫌だ」と力強く語る。そのプロジェクトは再演が目的ではない。当時と比較することでもない。作品を残すとは何なのか、作品とは一体何を指すのかを考えるために二人は来た。
photo by 高橋 遥
滞在中に訪れた、ダンサーの水越朋さんや宮崎あかねさんからのメッセージも届く。そこには「美香さんを見ようとしてたけど、作品を見ればいいんだ、作品と出逢えばいいんだと思った」「振付家がいないで作品だけが残る、これを実は美香さんは求めていたのではないかと思った」などとある。ずっと印象的だったのは、誰もが美香さんの話をすることだった。美香さんの話し方や美香さんのワードチョイス、稽古場での眼差しの記憶を持ち寄っては思い出し合っていた。みんな美香さんが好きだった。だからこそ、あの作品の中で、ダンサーとして自立すること、振付家不在で作品が自走することが難しいのだろうと思った。親離れの難しさのようなものかもしれない。シーンタイトルや小道具の名前に至るまで、美香さんの世界が広がっている。作品を掘り起こすことを考えていても、美香さんが残した面白い言葉たちに夢中になる。自身も振付家である真樹さんは、「自分は、作品に独り立ちしてほしい。自分が振付した作品に自分がそこにいたくない。いない方が面白くなるんじゃないかと思う。作品が子どもだとしたら可愛い子には旅をさせよじゃないけど、捨ててみる、離してみるっていうのをしたい」と語る。実際、真樹さんが私達の大学の学生に振り付けたフラッシュモブも、上演を繰り返すうちに全く別のダンスになっている。
当時の当日パンフレットに寄せた、宮久保さんの文章には「これからますます飛躍して行く二人のダンサーに、偉大なる振付家が大切なエッセンスを分けてくださいました。この新作はあくまでも通過点です。これから先の二人の道行きをどうぞ一緒に見届けていただければと思います」と記されている。この作品は、とにかく走り続けていくお二人の身体と共にあると当時から考えられていたのかもと振り返る。
何がダンスの骨なのか、ダンス作品のアーカイブとはなんなのか、私と髙橋は毎晩語り合い、考えた。インタビューを録音し、リハーサルの写真撮影をし、お二人やゲストとよく話し、たくさんのメモを残した。残るばかりで、何も残らない、散らかされたままのように感じられた。だからといって整理することは編集することになるため、その責任の重さも感じていた。お二人が掘り散らかした記憶の畑を、畑のまま守る。ダンサーが二人いて、私たち記録者も二人いる。見るものも残すものもお互いに違うことをよくわかっていて、それでも立ち上げる。自分から引き受けておいて、当日パンフレットは一向にまとまる気配がなかった。
私たちはよく食べ、よく笑った。よく会い、よく語り、よく踊った。どんなところにいようと、こんな日々を、美香さんが放っておけるわけがないだろうと思った。私は振付家・黒沢美香も知らなければ、もちろん美香さん個人のことも知らない。けれども目の前にいる人たちが美香さんを思い出して、その確かなあたたかさを互いの存在に見ているとき、この世ではない場所にいるように、私もふわふわと浮かれていた。
photo by 高橋 遥
迎えた成果発表当日。
緑さんから、最終版の衣装が届いた。実は記録映像を見た後、画像を頼りに再現した衣装とはディティールが違うとわかって、東京のアトリエに戻ったあとに作り直したのだ。鮮やかな衣装を手にした二人は、やはりそわそわとうれしそうだった。髙橋と私は、呉宮さんのアドバイスを受けながら当日パンフレットを必死に編集していた。残すということについて果てしなく考えた結果、一枚の紙にこの滞在の記録を残すなんてできないという悩みにぶち当たり、音をあげていた。見かねて食事やお茶などを用意してくださった平岡さんや宮久保さんは、しきりに感慨深そうにしていた。刷り上がったパンフレットを見て、「この滞在の大地図だね」となおかさんが言った。
お二人は衣装に身を包み、テーピングやメイクも当時のままを施した。まるで儀式に向かうようだった。当時は裸足でのパフォーマンスだったが、今回はスニーカーを着用している。10年経った身体の証だ。ほぼ毎日のように見ていた踊りも今日で最後かと思うと悲しかった。きっと忘れてしまう。最終リハーサルの横で、髙橋と私が見様見真似で踊っていると、お二人が振り写しをしてくださった。今回の滞在に際し、若いダンサーに継承することも一瞬考えたそうだが、やはり二人が踊ることにしたという。そんなことも聞いた後に、記録者である我々に振りが写されるという事態。震えた。
円形に並べられた客席には実に多くの人が座った。
なおかさんが、真樹さんが、駈けてきて、駈けていった。あの速さへ向かって、とにかく駈けていたら、それはだんだん、美香さんから離陸していくようで、二人は振り切って軽やかに見えた。10年という時を跨いで駈けるスピードはとてつもなく、私たちはただその風を受けているだけだった。二人は80歳になっても、人間じゃなくなっててんとう虫になっても、『駈ける女』をやれるんだろうなと思った。城崎での日々は、駈けるために踏み込んで踏み切る飛び石でしかなく、その跡は耕されて記憶の畑になる。ここにいられた我々は幸福だ。これからますます飛躍して行く二人のダンサーに、大切なエッセンスを分けていただいたのだから。
photo by bozzo
その日の夜も、私たちはよく食べ、よく笑った。宴の席で我々2人は、なんと衣装のフリンジを装着させてもらい、そのまま駈けたり踊ったりした。
「美香さんもこんな風に私たちのこと見てたのかな」、と聞こえた。
別れの日、真樹さんは手を握ってこう言った。「走っといてください」
かつて二人が、美香さんから言われたように。
『駈ける女』が上演されたのは、2013年4月末。振付家はコンテンポラリーダンス界のゴッドマザーとも言われる、黒沢美香。当時既に、振付家としても円熟していた上村なおかと森下真樹がダンサーとして出演した。会場はスパイラルガーデン。東京・青山の複合文化施設 スパイラルの1階に位置する、円形のギャラリーである。螺旋型のスロープが壁面を囲む、美しい空間だ。
滞在制作中、当時のことを知る多くの関係者たちが城崎に駆けつけた。なおかさんと真樹さん、そして美香さんの人柄がうかがえる。ホワイトボードに書かれたスケジュールはパンパンだった。
私がなおかさんと真樹さんのお二人に初めて会ったのは、2024年2月24日だった。プロジェクトの趣旨も詳しく知らないままにKIACを訪れたその日は、作品にとって重要な一日だった。
この日は、10年前に衣装を製作した、萩野緑さんが来ていた。緑さんは、当時の衣装を再現し製作した衣装を携えて城崎にやってきた。本当は保管した当時の衣装を持ってくるつもりでお二人とやりとりをしていたのだが、あいにく見つからず、数少ない写真を参考に新しくつくってきたそう。この5日前、19日に合流していたなおかさんと真樹さんは、緑さんが来るまでに、地図(当時の振付スコア)と記憶を頼りに<妄想バージョン>を創作していた。地図は、27のシーンタイトルと、円形のエリアを時計に見立てた位置記号がたまに書いてあるくらいの、とても簡素なものだった。その妄想バージョンを緑さんに見せるべく、二人は踊った。私はそこで初めて、二人が粗く掘り出し始めた『駈ける女』を見たのだった。
踊りの後、緑さんはお二人に衣装を渡して見せた。白と鮮やかなピンクの衣装を手にした二人は、懐かしさにぶわっと花が咲いたようだった。衣装を着た二人は、全身の感覚が変わったかのように、恐る恐る歩いてきた。眠っていた身体の記憶が、衣装に触れてこれでもかと感光したのである。この日は、ここからが本題だった。衣装姿のまま、当時の記録映像を見る。二人はこの映像を、10年前の本番後からこの日まで一度も、見てこなかったそうだ。画面にタイトルが表示され、無事再生されることがわかると、いよいよその場の空気が震えるのがわかった。会場であるスパイラルガーデンは、開放的な空間に見えた。映像の中の二人は、目の前で見た踊りよりも野性的で瑞々しく、迸るエネルギーを抑えようと思っても抑えられないような土臭さ、獣臭さがあった。白く美しいスロープに人々が詰めかけ、小さな天体でも見るように二人を囲んでいた。その中に懐かしい顔ぶれが見えると、楽しげに画面を指さしている現在の二人。しかし画面の中の二人は、身体のありようも違うが、振付やスピードに関しても、先ほど踊っていたものとはまるで違っていた。それは優劣ではなく、違いであり、恐らくは変化であった。上演時間は約1時間。踊り終えた二人は、360度回りながら観客に礼をする。すると、その二人の元に、客席から黒沢美香が現れた。
「美香さんだ…」
「よく食べてよく笑う!」by美香さん
この滞在制作の観察は、大学同期の髙橋遥と共に行った。概要を知って、これは記録するしかないと確信した髙橋に誘われる形で、二人でお二人の変化をつぶさに見つめることになったのだ。ホワイトボードに書かれた文字通り、私たちはお二人とよく食べてよく笑う日々を過ごした。思い出すために集まった人々と食事を囲むのは、何だか弔いのようで、いない人まで呼び寄せる気がした。
上演芸術のアーカイブ、ドキュメンタリー、語り、写真、ダンスなど、つまり変化してゆく存在をどう捉えるか、記録によって何が残るかという点において髙橋と私の興味は一致していた。振付家は不在、10年経ってダンサーたちの身体は変化し、どんな記録や記憶をかき集めても、そのダンスのすべてが記録され再現されるなんてことはあり得ない。だとしたら、もう一度踊りたいと願ったときに、一体何が起きるんだろう。そのことの困難と、切望に二人が向き合い、変化するさまを客観的に記録することにこそ、このプロジェクトの本質があるように思われた。
なおかさんと真樹さんはその後、映像に残った振付を現在の身体で踊ってみることにした。<再会バージョン>だ。お二人は滞在中、日々ランニングをすることで駈ける身体をつくることを欠かさなかった。なおかさんの手元に残っていた当時のスケジュール表を見ると、リハーサル期間に入る前にランニングをするように美香さんから指示があったようだ。同じウォームアップをしていても、当時のスピードで当時の振付を踊るのは、やはり相当に大変なようだった。
映像を解禁してから4日後の2月28日。照明家の三浦あさ子さんが来ていた。あさ子さんは『駈ける女』の照明家ではなかったが、黒沢美香と数多く協働しており、二人のこともよく知る人物だった。私たちは、再会バージョンとして二人が踊った映像を見ながら、食事を囲んだ。「一挙手一投足を残すことが振付を残すことではない」「”これ”がいまの身体でできないならやめるべき」、とあさ子さんは言う。当時の振付を”駈ける”エネルギーで踊れないのであれば、新たに創作した妄想バージョンでいいのではないかと。厳しい指摘だ。当時の衣装には、顔を隠すような、額からかかるフリンジがあった。それも現在の二人には不要なのではないかと言う。駈けたそばから土煙が立つような迫力と疾走感が踊りの質感だったのであれば、やっとの思いで振付通りに踊ることができるという状態で踊っても、それは『駈ける女』ではない。10年を経た現在の身体でできることを考える、その方向にアプローチしてもいいのではないかという意見だった。ワインを飲みながら、27のシーンを1つずつ振り返り、あさ子さんが二人に所感を聞き取っていく。この気の遠くなりそうなフィードバックは、深夜まで続いた。
さらに4日後。3月3日に行われたオープンリハーサルでは、スクリーンに10年前の記録映像を映し、その前で二人が踊るという試みをした。これはあさ子さんの提案だった。映像中の音声にしたがってタイミングを取るため、スピードも当時のままである。KIACのスタジオには、スパイラルガーデンを再現した螺旋状の客席が組まれた。
滞在制作が佳境に差し掛かったところで、この文章のカメラアングルを現在(2024年11月)の私の自室に移したい。なぜなら、今こうして書いていることも、私には恐ろしいからだ。残すということは、ある種の複雑さを切り捨てて簡略化し、表象可能な情報に置き換えるということだ。それも、自分が思い出すためのヒントとしてではなく、それまでを知らなかった人にも共有するものとして記録をまとめている。この恐ろしさは、滞在制作でともに過ごした時間が長いほど、記録が多いほど、肩に重くのしかかる。時間が経てば、記憶は削ぎ落とされて、それでも残った自分にとっての本質のようなものが浮かび上がり、文章にすることが少しはラクになるだろうかと思った。変わりゆくものに点を打つ。変化を変化として振り返ることができるように、記憶を留め、記録を残す。この困難はなかなか消えず、だからこそ一層、ダンサーたちが振付を掘り出すことの凄みを感じていた。
再びカメラを2024年3月のKIACに戻す。
オープンリハーサル後、なおかさんと真樹さんは、1週間後の成果発表をどのように行うかについて検討していた。KIACには、黒沢美香作品の制作である平岡久美さん、当時は観客で現在はドラマトゥルクや舞踊評論などで活躍する呉宮百合香さん、『駈ける女』プロデューサーの宮久保真紀さんなどが次々訪れて、来たる成果発表の日を見守ろうとしていた。髙橋と私は、成果発表の当日パンフレットを制作することとなり、それに向けてたくさんの聞き取りをした。
この滞在制作は、数年前、真樹さんがなおかさんに「踊ってみたいけど、どうですか?」と誘うところから始まる。振付家不在で踊れるのか、記録映像なしでは踊れないのではないかなど、課題は多かったが、それよりも踊りたいという気持ちが勝った。当時はいっぱいいっぱいでわからなかった、『駈ける女』とは何だったのかを知りたいという気持ち。今だから噛み締められたり、今でもわからないことがあったり。この作品と出会い直すことでこの10年をどう過ごしたかを実感したい、確認したかったと二人は語る。お互い東京に住んでいるが、生活が雑然としていて、会うだけでも難しかったようだ。思い切って、当時の資料をトランクに詰め込み、自宅から遠く離れた城崎という地に来ることにしたという。
『駈ける女』はそもそも、なおかさんと真樹さんの宣材写真が似ていると話題になっていたことがきっかけだった。二人は面識がなかったが、似ていると言われることで意識していたという。プロデューサーの宮久保さんがそんな二人のデュオを制作しようと決めた。当時二人はすでにそれぞれ独立した振付家として活動しており、誰かの振付作品にダンサーとして参加することが少なくなっていたため、新たに振付家を呼ぶことにした。そこで二人が出した希望が、黒沢美香だったのである。顔が似ていると言われる二人の身体性や踊りの違いをあえて明確にする狙いで、衣装で顔を隠し、髪も二人とも長いままで出演するよう指示されたという。しかし、10年が経った今、二人の違いはもはや明確である。似ているということがきっかけだったと聞いても、いまいちピンとこなかった。
再会バージョンを制作するにつけ、「踊ることを繰り返すうちにどんどん没入して、隠れていた身体の記憶と結びつく感覚を得た」と、なおかさんは言う。真樹さんも、オープンリハーサル後の所感について、「もっとやりきるところまでやりたい、もっと染み込むまで、ここで終わるのは絶対に嫌だ」と力強く語る。そのプロジェクトは再演が目的ではない。当時と比較することでもない。作品を残すとは何なのか、作品とは一体何を指すのかを考えるために二人は来た。
滞在中に訪れた、ダンサーの水越朋さんや宮崎あかねさんからのメッセージも届く。そこには「美香さんを見ようとしてたけど、作品を見ればいいんだ、作品と出逢えばいいんだと思った」「振付家がいないで作品だけが残る、これを実は美香さんは求めていたのではないかと思った」などとある。ずっと印象的だったのは、誰もが美香さんの話をすることだった。美香さんの話し方や美香さんのワードチョイス、稽古場での眼差しの記憶を持ち寄っては思い出し合っていた。みんな美香さんが好きだった。だからこそ、あの作品の中で、ダンサーとして自立すること、振付家不在で作品が自走することが難しいのだろうと思った。親離れの難しさのようなものかもしれない。シーンタイトルや小道具の名前に至るまで、美香さんの世界が広がっている。作品を掘り起こすことを考えていても、美香さんが残した面白い言葉たちに夢中になる。自身も振付家である真樹さんは、「自分は、作品に独り立ちしてほしい。自分が振付した作品に自分がそこにいたくない。いない方が面白くなるんじゃないかと思う。作品が子どもだとしたら可愛い子には旅をさせよじゃないけど、捨ててみる、離してみるっていうのをしたい」と語る。実際、真樹さんが私達の大学の学生に振り付けたフラッシュモブも、上演を繰り返すうちに全く別のダンスになっている。
当時の当日パンフレットに寄せた、宮久保さんの文章には「これからますます飛躍して行く二人のダンサーに、偉大なる振付家が大切なエッセンスを分けてくださいました。この新作はあくまでも通過点です。これから先の二人の道行きをどうぞ一緒に見届けていただければと思います」と記されている。この作品は、とにかく走り続けていくお二人の身体と共にあると当時から考えられていたのかもと振り返る。
何がダンスの骨なのか、ダンス作品のアーカイブとはなんなのか、私と髙橋は毎晩語り合い、考えた。インタビューを録音し、リハーサルの写真撮影をし、お二人やゲストとよく話し、たくさんのメモを残した。残るばかりで、何も残らない、散らかされたままのように感じられた。だからといって整理することは編集することになるため、その責任の重さも感じていた。お二人が掘り散らかした記憶の畑を、畑のまま守る。ダンサーが二人いて、私たち記録者も二人いる。見るものも残すものもお互いに違うことをよくわかっていて、それでも立ち上げる。自分から引き受けておいて、当日パンフレットは一向にまとまる気配がなかった。
私たちはよく食べ、よく笑った。よく会い、よく語り、よく踊った。どんなところにいようと、こんな日々を、美香さんが放っておけるわけがないだろうと思った。私は振付家・黒沢美香も知らなければ、もちろん美香さん個人のことも知らない。けれども目の前にいる人たちが美香さんを思い出して、その確かなあたたかさを互いの存在に見ているとき、この世ではない場所にいるように、私もふわふわと浮かれていた。
迎えた成果発表当日。
緑さんから、最終版の衣装が届いた。実は記録映像を見た後、画像を頼りに再現した衣装とはディティールが違うとわかって、東京のアトリエに戻ったあとに作り直したのだ。鮮やかな衣装を手にした二人は、やはりそわそわとうれしそうだった。髙橋と私は、呉宮さんのアドバイスを受けながら当日パンフレットを必死に編集していた。残すということについて果てしなく考えた結果、一枚の紙にこの滞在の記録を残すなんてできないという悩みにぶち当たり、音をあげていた。見かねて食事やお茶などを用意してくださった平岡さんや宮久保さんは、しきりに感慨深そうにしていた。刷り上がったパンフレットを見て、「この滞在の大地図だね」となおかさんが言った。
お二人は衣装に身を包み、テーピングやメイクも当時のままを施した。まるで儀式に向かうようだった。当時は裸足でのパフォーマンスだったが、今回はスニーカーを着用している。10年経った身体の証だ。ほぼ毎日のように見ていた踊りも今日で最後かと思うと悲しかった。きっと忘れてしまう。最終リハーサルの横で、髙橋と私が見様見真似で踊っていると、お二人が振り写しをしてくださった。今回の滞在に際し、若いダンサーに継承することも一瞬考えたそうだが、やはり二人が踊ることにしたという。そんなことも聞いた後に、記録者である我々に振りが写されるという事態。震えた。
円形に並べられた客席には実に多くの人が座った。
なおかさんが、真樹さんが、駈けてきて、駈けていった。あの速さへ向かって、とにかく駈けていたら、それはだんだん、美香さんから離陸していくようで、二人は振り切って軽やかに見えた。10年という時を跨いで駈けるスピードはとてつもなく、私たちはただその風を受けているだけだった。二人は80歳になっても、人間じゃなくなっててんとう虫になっても、『駈ける女』をやれるんだろうなと思った。城崎での日々は、駈けるために踏み込んで踏み切る飛び石でしかなく、その跡は耕されて記憶の畑になる。ここにいられた我々は幸福だ。これからますます飛躍して行く二人のダンサーに、大切なエッセンスを分けていただいたのだから。
その日の夜も、私たちはよく食べ、よく笑った。宴の席で我々2人は、なんと衣装のフリンジを装着させてもらい、そのまま駈けたり踊ったりした。
「美香さんもこんな風に私たちのこと見てたのかな」、と聞こえた。
別れの日、真樹さんは手を握ってこう言った。「走っといてください」
かつて二人が、美香さんから言われたように。
蛭田絵里香
芸術文化観光専門職大学1期生。俳優・ダンサーとして、平田オリザ、三浦直之、山下残、田村一行(大駱駝艦)らの作品に出演。これまで、演劇作品『いたいよ』『MAMA』を発表。現在は、複数人で持ち寄り可能なメディアとしてのピクニックを探求している。