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豊岡市出石B&G海洋センター 温水プール(photo by bozzo)
デイナ・ミシェル滞在成果発表『SWIMSUIT EDITION』レポート
“どうして私たちは泳げるのか?”
武本拓也
2026.1.24
2025年10月に城崎国際アートセンターで滞在制作を行ったカナダのライブ・アーティスト、デイナ・ミシェル。その滞在成果発表『SWIMSUIT EDITION』のレポートをパフォーマンスアーティストの武本拓也氏に寄稿いただきました。
シンプルで日常的な課題から創作を始める。と彼女は言った。
カナダのライブ・アーティスト、デイナ・ミシェルの新作『IN WATER I MUST』のクリエーションは、彼女自身が「なぜ泳げないのか」というシンプルな問いから始まっている。城崎国際アートセンターでの滞在制作の成果発表は『SWIMSUIT EDITION』と題して、市立プールを貸し切って行われた。
赤いライフジャケットを身につけたデイナ・ミシェルはプールサイドを歩き回り、水に足をつけたりシャワーを浴びたりした。時折脈絡なく、黒いキャップや靴下を使ったり、赤毛のウィッグを被ったりした。最後にはプールに全身で入り、短い距離を泳いだ。
シンプルで日常的な課題から創作を始める、とは、デイナ・ミシェルが成果発表後のトークで語った言葉だ。「なぜ私はいまだに泳げないのだろうか?」という問いは、確かにシンプルで日常的な問いに聞こえる。少なくとも私を含む多くの日本人の観客にとって、「泳げない」ということは単なる個人の資質の問題だと感じるし、取るに足らない日常的な課題に聞こえたのではないかと思う。
だが、誰かにとってのシンプルで日常的な課題を前にした時、私たちは私たち自身に問う必要があるのではないだろうか。それは誰にとってのシンプルなことか。それは誰にとっての日常なのか。
デイナ・ミシェルの家族はカリブ諸島の出身で、海に囲まれているにも関わらず、家族の誰も泳ぐことができないという。それどころか、それどころか、島に住む祖父母を含め、彼女の家族には長い間、水や海で過ごす習慣もなかったという。そして「泳げない」というのは、彼女と彼女の家族だけではなく、カナダや合衆国におけるアフリカ系住民を始めとしたマイノリティの多くがそうであるらしいという。
シンプルで日常的な課題から始める。泳げない、ということは、本当に単なる個人の技能の問題だろうか。海が目の前にありながらそこに入る習慣がないのは、単にその家族が泳ぐことに関心がなかっただけだろうか。

photo by bozzo
人魚姫はなぜかみんな赤い髪をしている。
2023年、実写版『リトル・マーメイド』のアリエル役に、アフリカ系アメリカ人であるハリー・ベイリーが起用された。その際に、SNSを始めとして多くの批判があったことを私は覚えている。曰く、アリエルは白い肌で赤い髪をしているべきだ。黒い肌のアリエルは私のアリエルではない。興味深いのは、こうした人種差別的批判が、同じ有色人種である日本のネットユーザーからもあったことだ。多くの日本人が、人魚姫は白い肌と赤い髪をしているべきで、そうでない人間は人魚姫になって海を自由に泳いではいけないとSNSで発信した。
しかしそう発信した彼ら彼女らは知っていたのだろうか。2017年のミュージカル版『リトル・マーメイド』では、アリエル役に日系人であるダイアナ・ヒューイが起用されていたことを。そしてその時もアメリカ国内では、実写版と同様の人種差別的なバッシングがあったということを。日系人、日本人もまた、人魚姫となって自由に泳いではいけないと多くの人に断じられたのだ。
実写版リトル・マーメイドの配役を批判した日本の人々は、日系人の/日本人の人魚姫もまた必要ないと言うだろうか。これは推測だが、そして同じ日本で生まれ育ったものとしてそれなりの確信を持って推測するのだが、言うだろう。そして更に言うなら、言うことができるだろう。なぜなら私たち日本人は、水の中で自由に泳ぐ為に人形姫になる必要はないのだから。

photo by bozzo
私を含む多くの日本人は、泳げないというのは単なる個人の資質の問題だと考えているのではないかと思う。家庭の経済状況によってはスイミングスクールに通えなかった為にそれほど上達しなかったということもあるかもしれない。しかしほとんどの日本人は義務教育で水泳を学び、上手とまではいかずとも最低限泳げるようになる機会は与えられる。海に囲まれ川も多い日本列島では、水に入る機会も身近だ。私自身も大きな川の近くで生まれ育ち、そこで泳ぐまではあまりしなかったけども普通に入って遊んだし、夏休みには友達と近所の市民プールで遊んだ。日本人にとって川や海などの水のある場所は古来からとても身近で、そこで自由に泳げるということはこの土地の恩恵でもあり、そしてかつてこの土地で生き延びる為に必要な技術だったとも言えるだろう。それは水中から生きる為の食物を主体的に得る為の方法であり、危険から逃れる技術であり、海や川を超えて自由に移動する力だった。そして泳ぐ技術を学べるということは、それを学ぶことが許されていたということは、主体的に食物を得ることが許され、危険から逃れることを許され、自由に土地の境界を超えて移動することを認められていたということでもあると言えるのではないか。

photo by bozzo
カリブ諸島のアフリカ系住民とそれに連なる人々の歴史と状況について、私は十分と言える量の知識を現時点では持たないままこの文章を書いている。だが奴隷として別の土地から海を超えて連れてこられた過去を持つ彼ら彼女らにとって、海、そして水という存在は私たち日本人にとってのそれと全く違う在り方なのだろう、と想像しようとする。そこは彼ら彼女らにとって泳ぐ場所ではなく、故郷と自身を分断し、あるいは投げ込まれ、沈んでいく場所だった。であるなら、泳げる/泳げないという事実もまた、全く違う捉え方をされているのではないだろうか。日本に古来から住む多数派民族である日本人にとって、水の中を自由に泳ぐために私たちの赤毛の人魚姫を新たに描き直す必要はないだろう。だが、デイナ・ミシェルがトークで語った言葉を借りれば、文化や土地への愛着と歴史を奪われてきた人々にとってはどうだろうか。泳ぐという技術を習得する機会自体を奪われてきた人々にとっては。彼ら彼女らにとって、未だ存在しない「私たちの」人魚姫を描き直し、未知のやり方を創造し、学んでいくことは切実な課題ではないか。それをどのようにやっていけるのか。

photo by bozzo
パフォーマンスではいつも、新しいことを学ぼうという姿勢でいるとデイナ・ミシェルはトークで語った。それはある意味、快適でない状況に自分を置くことであると。ライブであるパフォーマンスにとってそれは、アーティストと観客双方にとって非常に重要なことだと考える。同時に、これはパフォーマンスを実演するものとしての実感でもあるのだけど、それは本当に難しいことでもある。その場で学んでいくこと、やり慣れたのではない快適でないやり方や状況に自分自身を置き、その場所から新たに始めていくことが、どんなに難しいことか。そしてごく稀にでもそれができた時は、どんなに素晴らしいことが起こるか。
30分ほどの成果発表では、しかしデイナ・ミシェルはそれをやってのけたと私は感じた。起こったことはシンプルで、赤いライフジャケットを身につけたデイナ・ミシェルはプールサイドを歩き周り、水に足をつけたりシャワーを浴びたりした。時折脈絡なく、黒いキャップや靴下を使ったり、赤毛のウィッグを被ったりした。彼女がトークで語ったところによれば、赤毛のウィッグは人魚姫をヒントにしたトライなのだという。そして最後にはプールに全身で入り、短い距離を泳いだ。会場全体に音楽が流れていて私の席からはよく聞こえなかったのだけど、泳ぐ前、彼女は確かに何かを叫んでいた。
それはある人にとっては、シンプルで取るにたらない行為の集まりかもしれない。だがその行為に立ち会う時、私たちは私たち自身に問う必要があるのではないか。それは誰にとってのシンプルなことか。誰にとっての日常なのか。私たちの立場と過去は全く異なっていて、どんなに知ろうとし想像しようとしても手が届かないかもしれない。だが立場の違う人々がその場所で変わり続けるライブに立ち会い、それを通してそれぞれが少しでも学び変わるということがあるとしたら、それは快適なことではないかもしれないが、過去に誰も奪えなかった新しいやり方を芽吹かせることになり得るのではないか。それは泳げなかった人が泳げるようになるというような、取るに足らない、驚くべき魔法のようなことかもしれない。
『IN WATER I MUST』のクリエーションはこれからも続き、今年2026年に初演が予定されている。

photo by bozzo
デイナ・ミシェル滞在成果発表『SWIMSUIT EDITION』
https://kiac.jp/event/3561/
日時:2025年10月6日(月) 18:30
会場:豊岡市出石 B&G 海洋センター 温水プール
助成:令和7年度 文化庁 アーティスト・イン・レジデンス型地域協働支援事業
カナダのライブ・アーティスト、デイナ・ミシェルの新作『IN WATER I MUST』のクリエーションは、彼女自身が「なぜ泳げないのか」というシンプルな問いから始まっている。城崎国際アートセンターでの滞在制作の成果発表は『SWIMSUIT EDITION』と題して、市立プールを貸し切って行われた。
赤いライフジャケットを身につけたデイナ・ミシェルはプールサイドを歩き回り、水に足をつけたりシャワーを浴びたりした。時折脈絡なく、黒いキャップや靴下を使ったり、赤毛のウィッグを被ったりした。最後にはプールに全身で入り、短い距離を泳いだ。
シンプルで日常的な課題から創作を始める、とは、デイナ・ミシェルが成果発表後のトークで語った言葉だ。「なぜ私はいまだに泳げないのだろうか?」という問いは、確かにシンプルで日常的な問いに聞こえる。少なくとも私を含む多くの日本人の観客にとって、「泳げない」ということは単なる個人の資質の問題だと感じるし、取るに足らない日常的な課題に聞こえたのではないかと思う。
だが、誰かにとってのシンプルで日常的な課題を前にした時、私たちは私たち自身に問う必要があるのではないだろうか。それは誰にとってのシンプルなことか。それは誰にとっての日常なのか。
デイナ・ミシェルの家族はカリブ諸島の出身で、海に囲まれているにも関わらず、家族の誰も泳ぐことができないという。それどころか、それどころか、島に住む祖父母を含め、彼女の家族には長い間、水や海で過ごす習慣もなかったという。そして「泳げない」というのは、彼女と彼女の家族だけではなく、カナダや合衆国におけるアフリカ系住民を始めとしたマイノリティの多くがそうであるらしいという。
シンプルで日常的な課題から始める。泳げない、ということは、本当に単なる個人の技能の問題だろうか。海が目の前にありながらそこに入る習慣がないのは、単にその家族が泳ぐことに関心がなかっただけだろうか。

人魚姫はなぜかみんな赤い髪をしている。
2023年、実写版『リトル・マーメイド』のアリエル役に、アフリカ系アメリカ人であるハリー・ベイリーが起用された。その際に、SNSを始めとして多くの批判があったことを私は覚えている。曰く、アリエルは白い肌で赤い髪をしているべきだ。黒い肌のアリエルは私のアリエルではない。興味深いのは、こうした人種差別的批判が、同じ有色人種である日本のネットユーザーからもあったことだ。多くの日本人が、人魚姫は白い肌と赤い髪をしているべきで、そうでない人間は人魚姫になって海を自由に泳いではいけないとSNSで発信した。
しかしそう発信した彼ら彼女らは知っていたのだろうか。2017年のミュージカル版『リトル・マーメイド』では、アリエル役に日系人であるダイアナ・ヒューイが起用されていたことを。そしてその時もアメリカ国内では、実写版と同様の人種差別的なバッシングがあったということを。日系人、日本人もまた、人魚姫となって自由に泳いではいけないと多くの人に断じられたのだ。
実写版リトル・マーメイドの配役を批判した日本の人々は、日系人の/日本人の人魚姫もまた必要ないと言うだろうか。これは推測だが、そして同じ日本で生まれ育ったものとしてそれなりの確信を持って推測するのだが、言うだろう。そして更に言うなら、言うことができるだろう。なぜなら私たち日本人は、水の中で自由に泳ぐ為に人形姫になる必要はないのだから。

私を含む多くの日本人は、泳げないというのは単なる個人の資質の問題だと考えているのではないかと思う。家庭の経済状況によってはスイミングスクールに通えなかった為にそれほど上達しなかったということもあるかもしれない。しかしほとんどの日本人は義務教育で水泳を学び、上手とまではいかずとも最低限泳げるようになる機会は与えられる。海に囲まれ川も多い日本列島では、水に入る機会も身近だ。私自身も大きな川の近くで生まれ育ち、そこで泳ぐまではあまりしなかったけども普通に入って遊んだし、夏休みには友達と近所の市民プールで遊んだ。日本人にとって川や海などの水のある場所は古来からとても身近で、そこで自由に泳げるということはこの土地の恩恵でもあり、そしてかつてこの土地で生き延びる為に必要な技術だったとも言えるだろう。それは水中から生きる為の食物を主体的に得る為の方法であり、危険から逃れる技術であり、海や川を超えて自由に移動する力だった。そして泳ぐ技術を学べるということは、それを学ぶことが許されていたということは、主体的に食物を得ることが許され、危険から逃れることを許され、自由に土地の境界を超えて移動することを認められていたということでもあると言えるのではないか。

カリブ諸島のアフリカ系住民とそれに連なる人々の歴史と状況について、私は十分と言える量の知識を現時点では持たないままこの文章を書いている。だが奴隷として別の土地から海を超えて連れてこられた過去を持つ彼ら彼女らにとって、海、そして水という存在は私たち日本人にとってのそれと全く違う在り方なのだろう、と想像しようとする。そこは彼ら彼女らにとって泳ぐ場所ではなく、故郷と自身を分断し、あるいは投げ込まれ、沈んでいく場所だった。であるなら、泳げる/泳げないという事実もまた、全く違う捉え方をされているのではないだろうか。日本に古来から住む多数派民族である日本人にとって、水の中を自由に泳ぐために私たちの赤毛の人魚姫を新たに描き直す必要はないだろう。だが、デイナ・ミシェルがトークで語った言葉を借りれば、文化や土地への愛着と歴史を奪われてきた人々にとってはどうだろうか。泳ぐという技術を習得する機会自体を奪われてきた人々にとっては。彼ら彼女らにとって、未だ存在しない「私たちの」人魚姫を描き直し、未知のやり方を創造し、学んでいくことは切実な課題ではないか。それをどのようにやっていけるのか。

パフォーマンスではいつも、新しいことを学ぼうという姿勢でいるとデイナ・ミシェルはトークで語った。それはある意味、快適でない状況に自分を置くことであると。ライブであるパフォーマンスにとってそれは、アーティストと観客双方にとって非常に重要なことだと考える。同時に、これはパフォーマンスを実演するものとしての実感でもあるのだけど、それは本当に難しいことでもある。その場で学んでいくこと、やり慣れたのではない快適でないやり方や状況に自分自身を置き、その場所から新たに始めていくことが、どんなに難しいことか。そしてごく稀にでもそれができた時は、どんなに素晴らしいことが起こるか。
30分ほどの成果発表では、しかしデイナ・ミシェルはそれをやってのけたと私は感じた。起こったことはシンプルで、赤いライフジャケットを身につけたデイナ・ミシェルはプールサイドを歩き周り、水に足をつけたりシャワーを浴びたりした。時折脈絡なく、黒いキャップや靴下を使ったり、赤毛のウィッグを被ったりした。彼女がトークで語ったところによれば、赤毛のウィッグは人魚姫をヒントにしたトライなのだという。そして最後にはプールに全身で入り、短い距離を泳いだ。会場全体に音楽が流れていて私の席からはよく聞こえなかったのだけど、泳ぐ前、彼女は確かに何かを叫んでいた。
それはある人にとっては、シンプルで取るにたらない行為の集まりかもしれない。だがその行為に立ち会う時、私たちは私たち自身に問う必要があるのではないか。それは誰にとってのシンプルなことか。誰にとっての日常なのか。私たちの立場と過去は全く異なっていて、どんなに知ろうとし想像しようとしても手が届かないかもしれない。だが立場の違う人々がその場所で変わり続けるライブに立ち会い、それを通してそれぞれが少しでも学び変わるということがあるとしたら、それは快適なことではないかもしれないが、過去に誰も奪えなかった新しいやり方を芽吹かせることになり得るのではないか。それは泳げなかった人が泳げるようになるというような、取るに足らない、驚くべき魔法のようなことかもしれない。
『IN WATER I MUST』のクリエーションはこれからも続き、今年2026年に初演が予定されている。

デイナ・ミシェル滞在成果発表『SWIMSUIT EDITION』
https://kiac.jp/event/3561/
日時:2025年10月6日(月) 18:30
会場:豊岡市出石 B&G 海洋センター 温水プール
助成:令和7年度 文化庁 アーティスト・イン・レジデンス型地域協働支援事業
武本拓也
1990年 群馬県生まれ。
日本 東京都在住。
「上演芸術において人の前に人が立つとはどういう事か」という関心を出発点に、微細な知覚と動きによるパフォーマンスを行う。
2017年よりこの上演を観客の有無にかかわらずほぼ毎日行うことを開始し、現在に至るまで継続している。希望者には常に公開をしている。
武蔵野美術大学でパフォーマンスアートと演劇を学び、20代後半でアクショニスト・首くくり栲象に師事。以降、パフォーマンスアートと演劇の文脈を背景に活動を行っている。
これまでに東京、横浜、京都、兵庫、青森、パリ、ニューヨーク、ランカスター、マンチェスター、デュッセルドルフ、ハンブルク、モントリールなどで上演やワークショップを行っている。
2024-25年度 セゾン・フェローⅠ。
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