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『100万匹の猿の夢(仮題)』2025©︎森あらた
森あらた『100万匹の猿の夢(仮題)』上映会 開催レポート
宮内美彩希
2026.2.2
2026年1月に城崎国際アートセンターで映像作家の森あらたが滞在制作を行った。
『100万匹の猿』は、森が「ロスジェネ世代」を手掛かりに、サイコドラマ(=演劇を使った心理療法)の手法を用いて、映画監督で俳優の太田信吾らと共に、現実と非現実、自己と他者、演劇と映像といった境界を超え、現代社会の分断を見つめるプロジェクト。
構想中の映画に先駆けて制作され、トーキョーアーツアンドスペースレジデンス2025成果発表展で展示された映像作品『100万匹の猿の夢(仮題)』の上映会とアーティストトークを、豊岡市街地のカフェ「coffee stand コザキ」にて開催した。
そのレポートを、芸術文化観光専門職大学の「劇場プロデュース実習」の一環で参加した3期生の宮内美彩希さんに執筆していただいた。
※ロスジェネ世代:ロスト・ジェネレーション世代(失われた世代)と呼ばれる、1993年〜2005年ごろのバブル崩壊後の就職氷河期時代に社会へ出た世代のこと。1970年〜1984年生まれの人を指すことが多い。
『100万匹の猿』は、森が「ロスジェネ世代」を手掛かりに、サイコドラマ(=演劇を使った心理療法)の手法を用いて、映画監督で俳優の太田信吾らと共に、現実と非現実、自己と他者、演劇と映像といった境界を超え、現代社会の分断を見つめるプロジェクト。
構想中の映画に先駆けて制作され、トーキョーアーツアンドスペースレジデンス2025成果発表展で展示された映像作品『100万匹の猿の夢(仮題)』の上映会とアーティストトークを、豊岡市街地のカフェ「coffee stand コザキ」にて開催した。
そのレポートを、芸術文化観光専門職大学の「劇場プロデュース実習」の一環で参加した3期生の宮内美彩希さんに執筆していただいた。
※ロスジェネ世代:ロスト・ジェネレーション世代(失われた世代)と呼ばれる、1993年〜2005年ごろのバブル崩壊後の就職氷河期時代に社会へ出た世代のこと。1970年〜1984年生まれの人を指すことが多い。
「人間はみんな孤独ですよ。それに気づいている人と気づいていない人がいると思います。」映像の中でインタビューを受けていた人の言葉が私の中で繰り返される。強烈だった。それは、最近、友人と会話をした時に似たようなことを言ったからだろうか。
私たちの〈超〉個人的な悩みは、時代を超えて人間の普遍的な悩みへとつながる。
KIACの実習中、滞在制作をしていた映像作家である森あらたさんのプロジェクト『100万匹の猿の夢(仮題)』の上映会に関わる機会があった。このプロジェクトは、「もし、引きこもりだった時に日本を飛び出していなかったら、私はどのように生きていただろうか」という森さん自身が自分と向き合い、もう一人の自分を探すことをテーマとしたものである。現在、ドイツと日本を拠点とする森さんだからこそ、日本社会から出ずに日本で生きる選択をした人格、いわゆるIfルート(もしもの世界)を作品とする独創性溢れるプロジェクトである。

◯上映会にて
上映会の時間が近づき、予想より多くの方が来場した。と言ってもcoffee stand コザキというとてもプライベート寄りの空間で行われたため、何かを「共有する」空間としては最適な場所であった。
映像は空のシーンから始まった。日常のさまざまな景色が切り取られ、最初の印象としてはドキュメンタリー映像を見ている感覚がなかった。まるで映画を観ているような、そんな感覚だった。突然一人の男性が映像に現れる。インタビュー映像だった。どこか挙動不審で、どこからがリアルなのか、少し演出が入ったりもしているのか気になった。その後も、さまざまな人にインタビューをしていく様子が撮られていた。彼らは全員ロスジェネと呼ばれる世代の人達で、彼らの考えには一貫して「孤独」という印象があった。
上映が終了した後、私の中にずっと残っている言葉があった。それが「人間はみんな孤独ですよ。それに気づいている人と気づいていない人がいると思います。」だ。この言葉がなぜ自分の中に残っているのか、個人的な話も交えながら考えていきたい。

◯映像を観て思い出した、最近あった個人的な話
ある夜、友人から突然電話がかかってきた。喧嘩をしたらしい。自分が言ったことを相手が理解してくれなくて、それが辛くなったそうだ。話を聞いていくと、理解してくれなかったというより、相手に「理解しようとする姿勢がみられなかった」事が辛かったのだという結論に至った。どこまでいっても人と人は完全に理解することができないのだから、せめて理解しようという姿勢がないと人間関係は成り立たないのではないか、というのが友人の主張だった。私は友人の話を聞きながら、この人はどこまでも他人を信頼しようとしていて羨ましいと思った。同時にそんな友人に少し嫉妬してしまったからなのか、「結局人間なんて孤独なんだから、他人と深く関わってもしんどいだけでしょ」と皮肉めいたことを言ってしまった。すると友人は少し悲しそうに笑っていた。
私はこの瞬間、友人に対して「私はあなたとそこまで理解しあう気はないですよ」と言っているようなものだということに気づけなかった。
今回、森さんの映像を観てそれに気づいた。他人を通して違う自分を見つける事ができるのに、そのことすら放棄しようとしている私は一生自分のことを理解することなんてできないのではないだろうかという恐怖さえ覚えた。
これが映像を観て思い出した、とても個人的な話だ。この出来事がタイムリーすぎてそれにも恐怖を覚えた。

◯孤独が生む繋がり
なぜ孤独を感じるのか。映像の中で「わからないから孤独なのかもしれない」という発言がまさに今の自分に言われているように感じた。現在、何者でもない私は「私」を確立させる社会的な枠組みがないまま生きている。自分が何にも該当しないこの浮遊感は、希望や不安と同時に孤独を感じさせる。それは決して特別な誰かの話ではなく、友人関係や仕事、将来に対する不安の中で、多くの人が一度は感じたことのある感覚であり、だからこそ、「孤独」は個人の問題にとどまらず、現代社会に生きる人々が抱える感覚なのではないだろうか。
森さんの作る映像は、ただ個人的なことにフォーカスして主張しているのではなく、個人的な意見の中に社会の構造を示して観ている者に考える余白を与える。きっと彼は、個人的なことを社会の問題にまで引き上げるのが上手な人なんだろうと感じた。押し付けがましくない彼の作品が、多くの人に届いて欲しいと純粋に思う。
今、この文章を書きながら、自分が何についてまとめたかったのかよくわからなくなっている。ただ、作品を観ただけでさまざまなところにまで思考が及んだことは事実であり、そうさせてしまう森さんの映像作品は強力なエネルギーを持っていることも事実だ。
彼の自分探しの方法が映像であるならば、私の自分探しの方法は何なのだろうか。そんなことを考えながら、映像を通して時代を超えた繋がりを感じる事ができた気がして少し安心した。
人間は孤独かもしれない。でも孤独だからこそ他人とつながる事ができる。孤独が自分と他人を分けるものであるならば、自分と他人を結びつけるものもまた孤独であるのかもしれない。答えのない問いは、人と人を繋げる材料にもなると感じた。
私の思考は深く潜り、一人で暗い場所へ沈んでいく。けれど、その途中に誰かが沈んでいていつか出会えるかもしれないと思うと、今ある孤独も愛したいと思える。
至らない文章ではありましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

森あらた『100万匹の猿の夢(仮題)』上映会+アーティストトーク
https://kiac.jp/event/3663/
日時:2026年1月29日(木) 19:00
会場:coffee stand コザキ
私たちの〈超〉個人的な悩みは、時代を超えて人間の普遍的な悩みへとつながる。
KIACの実習中、滞在制作をしていた映像作家である森あらたさんのプロジェクト『100万匹の猿の夢(仮題)』の上映会に関わる機会があった。このプロジェクトは、「もし、引きこもりだった時に日本を飛び出していなかったら、私はどのように生きていただろうか」という森さん自身が自分と向き合い、もう一人の自分を探すことをテーマとしたものである。現在、ドイツと日本を拠点とする森さんだからこそ、日本社会から出ずに日本で生きる選択をした人格、いわゆるIfルート(もしもの世界)を作品とする独創性溢れるプロジェクトである。

◯上映会にて
上映会の時間が近づき、予想より多くの方が来場した。と言ってもcoffee stand コザキというとてもプライベート寄りの空間で行われたため、何かを「共有する」空間としては最適な場所であった。
映像は空のシーンから始まった。日常のさまざまな景色が切り取られ、最初の印象としてはドキュメンタリー映像を見ている感覚がなかった。まるで映画を観ているような、そんな感覚だった。突然一人の男性が映像に現れる。インタビュー映像だった。どこか挙動不審で、どこからがリアルなのか、少し演出が入ったりもしているのか気になった。その後も、さまざまな人にインタビューをしていく様子が撮られていた。彼らは全員ロスジェネと呼ばれる世代の人達で、彼らの考えには一貫して「孤独」という印象があった。
上映が終了した後、私の中にずっと残っている言葉があった。それが「人間はみんな孤独ですよ。それに気づいている人と気づいていない人がいると思います。」だ。この言葉がなぜ自分の中に残っているのか、個人的な話も交えながら考えていきたい。

◯映像を観て思い出した、最近あった個人的な話
ある夜、友人から突然電話がかかってきた。喧嘩をしたらしい。自分が言ったことを相手が理解してくれなくて、それが辛くなったそうだ。話を聞いていくと、理解してくれなかったというより、相手に「理解しようとする姿勢がみられなかった」事が辛かったのだという結論に至った。どこまでいっても人と人は完全に理解することができないのだから、せめて理解しようという姿勢がないと人間関係は成り立たないのではないか、というのが友人の主張だった。私は友人の話を聞きながら、この人はどこまでも他人を信頼しようとしていて羨ましいと思った。同時にそんな友人に少し嫉妬してしまったからなのか、「結局人間なんて孤独なんだから、他人と深く関わってもしんどいだけでしょ」と皮肉めいたことを言ってしまった。すると友人は少し悲しそうに笑っていた。
私はこの瞬間、友人に対して「私はあなたとそこまで理解しあう気はないですよ」と言っているようなものだということに気づけなかった。
今回、森さんの映像を観てそれに気づいた。他人を通して違う自分を見つける事ができるのに、そのことすら放棄しようとしている私は一生自分のことを理解することなんてできないのではないだろうかという恐怖さえ覚えた。
これが映像を観て思い出した、とても個人的な話だ。この出来事がタイムリーすぎてそれにも恐怖を覚えた。

◯孤独が生む繋がり
なぜ孤独を感じるのか。映像の中で「わからないから孤独なのかもしれない」という発言がまさに今の自分に言われているように感じた。現在、何者でもない私は「私」を確立させる社会的な枠組みがないまま生きている。自分が何にも該当しないこの浮遊感は、希望や不安と同時に孤独を感じさせる。それは決して特別な誰かの話ではなく、友人関係や仕事、将来に対する不安の中で、多くの人が一度は感じたことのある感覚であり、だからこそ、「孤独」は個人の問題にとどまらず、現代社会に生きる人々が抱える感覚なのではないだろうか。
森さんの作る映像は、ただ個人的なことにフォーカスして主張しているのではなく、個人的な意見の中に社会の構造を示して観ている者に考える余白を与える。きっと彼は、個人的なことを社会の問題にまで引き上げるのが上手な人なんだろうと感じた。押し付けがましくない彼の作品が、多くの人に届いて欲しいと純粋に思う。
今、この文章を書きながら、自分が何についてまとめたかったのかよくわからなくなっている。ただ、作品を観ただけでさまざまなところにまで思考が及んだことは事実であり、そうさせてしまう森さんの映像作品は強力なエネルギーを持っていることも事実だ。
彼の自分探しの方法が映像であるならば、私の自分探しの方法は何なのだろうか。そんなことを考えながら、映像を通して時代を超えた繋がりを感じる事ができた気がして少し安心した。
人間は孤独かもしれない。でも孤独だからこそ他人とつながる事ができる。孤独が自分と他人を分けるものであるならば、自分と他人を結びつけるものもまた孤独であるのかもしれない。答えのない問いは、人と人を繋げる材料にもなると感じた。
私の思考は深く潜り、一人で暗い場所へ沈んでいく。けれど、その途中に誰かが沈んでいていつか出会えるかもしれないと思うと、今ある孤独も愛したいと思える。
至らない文章ではありましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

森あらた『100万匹の猿の夢(仮題)』上映会+アーティストトーク
https://kiac.jp/event/3663/
日時:2026年1月29日(木) 19:00
会場:coffee stand コザキ
宮内 美彩希
芸術文化観光専門職大学3期生
普段は主に俳優として舞台芸術に関わっている。主な出演作品にCATパフォーミングアーツプロジェクトVol.6『もう風も吹かない』平田オリザ作・演出などがある。


















