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ユニ・ホン・シャープ『ENCORE-Mer.』鑑賞ノート
井原麗奈

2024.3.1

2023年9月22日~24日の3日間、KIACレジデンス・セレクション2022→23「SPA of Narratives/声と語りの浴場」と題し、これまでに滞在制作を行ったアーティストの作品発表の機会を創出し広くその成果を共有することを目的に、かつては公共の温泉宿・城崎大会議館として利用されたKIACの施設全館を活用して、荒木優光、佐藤朋子、ユニ・ホン・シャープという、3組のアーティストの作品の連続上演を実施した。
上演作品の一つであるユニ・ホン・シャープ『ENCORE-Mer』について、芸術文化観光専門職大学・助教の井原麗奈さんによる鑑賞ノートです。
(本稿は2023年9月22~24日、KIACレジデンス・セレクション2022→23「SPA of Narratives/声と語りの浴場」企画にて上演された『ENCORE-Mer』の上演台本(*1)からの引用箇所は青色で、その他の引用は緑色で表記する)
〽︎冷麺、冷麺、平壌冷麺〜
 天下第一 珍味として
 老いも若きも 最初に探し求める冷麺なり

朝鮮民主主義人民共和国(以下共和国)の歌謡曲「平壌冷麺は一番さ」の冒頭の歌詞である。
さらに以下に続く。
〽︎ワッハッハッハ「玉流館」は我が国の自慢なり

この「玉流館」は平壌の大同江の河畔に位置する最高級朝鮮料理のレストランで、特に平壌冷麺で有名である。1960年に開業し、その前には「崔承喜舞踊研究所」があった場所だとされるが、管見の限り真偽を確認できる公式の記述を私は見つけられていない。

本当なのか、虚偽なのか。

『SPA of Narratives 声と語りの浴場』と題したKIACの主催事業では、3日間に渡って3組のアーティストの作品が、館内で同時に上演された。ユニ・ホン・シャープの『ENCORE-Mer』はそのうちの1作品で「崔承喜にまつわるレクチャー・パフォーマンス」と銘打ちながら、崔承喜の半生について、作家らがリサーチした内容が説明される。主旋律はこれである。しかし一方で通奏低音のように、上記の問いが響き続ける。崔承喜は京城(現ソウル)で教育を受け、日本人舞踊家の石井漠に師事して日本へ行き、帰国後は大スターとなって世界中で公演して回り、解放後は共和国へ行って国家の芸術家として最高の地位を得るも、60年代後半に粛清された。冒頭の「玉流館」が1960年の開業で正しいのなら、1960年頃にはすでに舞踊研究所はなくなり、彼女の地位も危うくなっていたのだろう。巷には様々に憶測される言説が飛び交っているが、真偽はわからない。

作品自体は何気ない風景などの写真がスクリーンに映し出されながら、ユニ・ホン・シャープによるフランス語のレクチャーと翻訳家・平野暁人の日本語への逐次通訳によりスムーズに進行していく。しかし時々「あれ?」と引っかかる瞬間がある。例えばこんなシーンがある。
"今から約100年前、石井の稽古場は東京は武蔵境の、竹林の中にあった。
2022年2月末、隔離期間が明けると、友人と武蔵境を散歩した。
当時、石井漠が住んでいた家をみつけるのが目的だった。
石井の家はみつからなかった。
ただその代わり、とてもおいしい蕎麦屋をみつけた。" (*1)



画面にはそれらしき家と竹林が写っている。よく見ると雨戸がなんだか新しい。違和感を感じるにも関わらず、またレクチャーで「探したけれど見つからなかった」と言っているにも関わらず、写真によってイメージが提示されると、「きっとここが稽古場なのだろう」と勝手に思い込んでしまう。しかもそれが何度も続くと、次第に提示されているものが全て本当だと思いはじめてしまう。それくらい人間の情報の処理は適当で、記憶は曖昧である。高い意識を持って批判的な目で見続けなければ、情報は勝手に都合よく脳内で変換されてしまうのである。作家は意図的に嘘を伝えて、それに気付かない観客を嘲笑していたのではなく、少しずつ置き換え、ずらし、その無邪気な少しの「ズレ」の積み重ねによって生じてしまう「現実」に対する「無意識」への罪を体験させようとしていたのではないだろうか。それはまた生成AIによる偽動画・偽画像に対するリテラシーの必要性を促すことにも繋がる。画と言葉のマッチングの妙によって生み出される錯覚が、他にも作品の中にいくつも散りばめられていた(*2)。

作品の中では、あらゆる写真や資料が提示されるものの、崔承喜の写真は一枚も出てこない。彼女の写真はインターネット上にも溢れており、写真集もあるので入手が困難なわけではない。作家は意図的に出さないのである。代わりに提示されるのは「崔承喜的」なモノクロの別の人物の写真であるが、崔の舞踊に対する批評文が同時に読み上げられることで、鑑賞者はなんとなく「崔承喜なんだろうな」と解釈してしまう。そういえば戦前期、日本人たちは崔承喜を「承子さん」と日本名に置き換え(*3)、彼女を日本人だと思い込もうとした。また山口淑子を「李香蘭」という名前に置き換え、日本人にも中国人にも彼女は中国人だと信じ込ませた。人はいつも相手に自分の都合の良いように提示し、受け手も自分が信じたいようにしか解釈しない。



それは上演中に読み上げられた崔に対する当時の批評文にも表れていると言えるだろう。現在の地点から見れば、帝国主義的でかつ一方的な偏見のある評価だが、当時の日本を代表する芸術家や評論家たちは次のように語っている(*4)。
"・石井漠「サイ・ショーキ(*5)という舞踊家は(中略)いはば和製品であつて全部が国産である」
・板垣直子「この間、サイ・ショーキの舞踊を始めてみて、これは日本人の舞踊家の中で一番感心した。(中略)サイ・ショーキを日本人の中にいれていいだろう。」
・柳宗悦「優れた人が朝鮮から出ることを日頃どんなにか望んでいるだらう。それは日本の為にも非常にいい」
・川端康成「他の誰を日本一と言うよりも、サイ・ショーキを日本一と云いやすい第一に立派な体軀である。彼女の踊の大きさである。力である。それに踊りざかりの年齢である。また彼女一人にいちじるしい民族の匂いである」"

また一方で朝鮮人からは以下のような批評を受ける。
"・韓雪野(ハン・ソリャ)「彼女の朝鮮の踊りは真実性が欠如しており、ただそれらしい模倣性があるだけだ」"

しかし「模倣」もまた現実である。真実味があるかどうかは、本質を捉えているかどうかによると私は考えるが、本質そのものも時代や状況によって変質するのだから、韓の批評に対する評価の視線も必要である。そもそも身体表現の伝授は「模倣」から始まる。作中で戦後の朝鮮舞踊の伝授は、半島への帰還を希望する「在日コリアン」達のための船の中で行われたエピソードが紹介されるが、これは私も朝鮮史の研究者仲間から聞いたことのある話だ。共和国の舞踊家たちは日本への上陸許可がおりないため、その帰還船から下船せずに港に停泊中の船中で待機し、そこへ「在日コリアン」の舞踊家たちが赴いて教えを乞うたという。しかしそこで伝授された舞踊と現在「在日コリアン」の舞踊家たちが踊り継いでいる舞踊も、既にその当時のものとは少し異なるのではないだろうか。



そう思うのは国立民族学博物館が2019年に撮影・製作したDVD『第32集 アリラン峠を越えていく–在日コリアンの音楽–』(*6)の中で金剛山歌劇団の伽耶琴奏者、金栄実が次のように語っていたことを思い出したからだ。彼女はかつて共和国の伽耶琴のコンクールに出場したが予選で敗退した。その時に共和国の先生から「基礎が足りない」「基礎が違う」と言われた。
"日本で生まれた自分達の意味がわからなくなりましたね。やっている意味が。やっていて「違う」って言われたら「じゃあどうするの?」って。「じゃあ、もうここで私がやる意味は別にないな」って。「じゃあもう韓国でやってください、共和国でやってください、日本はもう日本で良いです」と。「もう、それも強要もしないし」って一回自分もスレた時期があって。10歳から28歳まで約20年やってきたことを共和国に「違う」って言われた時に、複雑な想いにはなりましたけれどね。"

また彼女は多くの人が自分の存在に意味付けしようとする中で、日本で伽耶琴を演奏する意味を考えながら生きていくことにしんどさを感じることもあると言う。「こうしなきゃいけない」という考え方に押し潰されそうになりながらも、また「意味付け」を忘れはしないものの、いまは「自分がやりたいことだからやっている」「自然に良いものは良い」と受け入れながらやらなければ、いずれ行き詰まるのがわかると語る。
"「基礎がないよ」って言った共和国の先生に「海を越えちゃったからしょうがないですよ」って言い返す自分もできましたし。「海越えちゃったら変わるんですよ、音楽も変わるように」って。"

金栄実の語る「現代の日本で伽耶琴を演奏する意味」と崔承喜が現した「植民地支配をしていた時代に朝鮮舞踊を半島や日本、世界で踊る意味」は全く異なるが「やりたいことをやる」「良いものは良い」という信念は、時代や海を越えても変質しない本質だ。その意味では海は人を隔てるものではないのかもしれない。

続くパフォーマンスでは韓国語を学び、数多くの韓国語の詩を日本語に訳して出版した茨城のり子の「あの人の棲む国」という詩の朗読も含まれる。その詩は日本語だがソ・チェゴンによる韓国語の翻訳もあり、平野によって韓国語でも朗読される。しかしそれは、よく聞いていると同じタイトルではあるが、内容は全く異なる。レクチャーの中では確かに「翻訳」だと言ったが「直訳」ではなく「意訳」である。引用は2019年の韓日詩人交流会の『現代詩とヒーリング・癒し』からである。交流会で配布された資料のようで、出版物ではないため確認はできないが、ソ・チェゴンが同じテーマで書いた別の詩なのかもしれない。「意訳」も「翻訳」なので、嘘は言っていないが、ここでも少しの「ズレ」が意図的に組み込まれている。私はフランス語を解さないため、次第にそこまで語られたフランス語と訳された日本語が本当に対になっているのだろうかという「不安」と、視覚に続いて聴覚もズラされてしまったことで、立脚点のわからない「浮遊感」を覚えた。

しかしふと、この居心地の悪い「浮遊感」は自らのルーツと離れた場所で暮らすディアスポラのそれと似ているのではないかと思い至る。かつて大学の授業で「ユダヤ人」とは、集団にならないと立ち現れず、個々には「ユダヤ系の血筋の人」としか存在しないと聞いたことがある。それと同じように「在日コリアン」もまた「朝鮮人」「韓国人」という言葉では括れず、踊りや言葉などの文化的な紐帯によって、民族的アイデンティティを保持しながら日本社会に存在し続ける集団だといえる。しかし一方で、ユニ・ホン・シャープがこのようなステレオタイプの「在日コリアン」のイメージから抜け出そうとした時に、開いた扉はフランス語の世界だった。その状況をこのように説明する。
"・母語はいちばん話すのが楽な言語だ、などというのは嘘だ。私にとっての母語とは他者である。
・自分の言いたいことが言える言語を身につけることは私にとって喫緊の課題でした。喫緊、とは、めくるめくものです。
・在日コリアンは踊りによって、また言葉によって、現れ生成される。在日に新たな像を付与するために、私は日本とも、朝鮮とも無縁の言語体を必要とした。誰にも自分の言葉がわからない。そのことに安堵していた。言葉に依拠する安全地帯。" (*1)



相手が自分の言葉を理解していないことへの安堵感や、逃げ込める聖域を持つことの必要性と重要性が、この「安全地帯」という言葉に非常によく表れている。作品の中で崔承喜の東京の帝国劇場での公演における、観客たちのエピソードが以下のように語られる。
"正装した朝鮮人も多く、崔承喜が舞台にあらわれると、かけ声、はやし言葉で激励し、言葉がわからないだけ一層、そのどよめきに背すじに冷たいものを感じた日本人も多かったらしい。" (*7)

客席に座る朝鮮人観客にとって、朝鮮語の「かけ声、はやし言葉」は「安全地帯」であり、日本人観客たちが「背すじに感じた冷たいもの」とは、「日本語しか喋らない」もしくは「自分たちの言葉を持たない」と信じていた朝鮮人たちが、実は自分たちの言葉を持っていたことに対する「驚き」ではなかったか。それと同時に感じた、相手の言葉がわからないことへの「不安」でもある。

ユニ・ホン・シャープはリサーチ中に得た気づきをこう語った。
"半島の突端にいると、海しか逃げ場がないことに気がついた。" (*1)

朝鮮半島に限らず、日本列島も海しか逃げ場はない。逃げ場が無いなら「不安」を受け入れ、それを解消するために努力するのみなのだろう。
"翻訳によって安全地帯の外へと連れ出されてゆく。" (*1)

「翻訳」はそのための手段なのだろうか。相手に自分の言葉がわかってしまうということ、保留にしていた問題と向き合うべく強い気持ちを持たなければならないということなのだろうか。

作品の終盤で、これまで舞台の上手奥と下手手前に向き合って座していた二人が立ち上がって移動し、入れ替わる。位置をくるりと置き換え、それまでフランス語でレクチャーをしていたユニが流暢な日本語で話しはじめ、平野がそれを仏語に訳す。ではなぜ私たち観客はその時点まで、異なる複数の言語で解説を聞かなければならなかったのだろうか。その問いには、実は作品の冒頭で答えていた。
"言語の問題がなかったとしても、誰かと理解しあい、100%同じ意見を分かち合えることは稀です。
その意味では、我々は日頃から、既に大量の時間を無駄にしているわけです。
それに、理解の深さや解像度は時間を追って変化してゆくものです。

それは、今からお話しすることが、異なる複数の言葉が重なりかけては離れてゆく、そんな地点から語られるべきものだからです。" (*1)

そのような大きな気持ちで受け止めれば、先ほど逃げ場ではないと感じた「海」も、国々や人々を隔てるだけのものではなく、それらを繋ぐ「かすがい」にもなり得るのではないかと捉え直せる。陸伝いにアプローチするのが困難な険しい場所でも、海から船でなら容易にアプローチできるように。「海」という漢字は、構成の一部に「母」という字を抱くのだから、甘えて逃げ込める場所でもあるのではなかろうか。本作品のサブタイトル「Mer」はもしかしたら「海=母」、新たな何かを生み出すものと理解しても良いのかもしれないと思った。






*1:『ENCORE』上演台本からの引用
テキスト/ユニ・ホン・シャープ、翻訳/平野暁人

*2:韓国ドラマ『愛の不時着』をご覧になった方は第3話の平壌の場面で、登場人物の一人であるク・スンジュンの車が降雨にも関わらずワイパーが盗まれたがために、視界不良で運転不可能になる場面をご存じだろう。その直前、大同江にかかる玉流橋を走り抜ける車からの眺望に、ライトアップされた大きな伝統的な建物が写り込んでいるが、それが「玉流館」である。もちろん韓国で制作されたドラマは平壌で現地ロケができないので別撮りの映像だ。大同江の北にある空港から平壌市街地への移動に、大同江を越える必要はないはずだが、映像では大同江を南から北へ渡っている点も違和感がある。

*3:中根宏「崔承喜の瞳」(『SAI SHOKI PAMPHLET』(発行所:崔承喜後援会/編集:銀鈴会音楽編集部、1935年))より。高嶋雄三郎・鄭昞浩編著『世紀の美人舞踊家崔承喜』(エムティ出版、1994年)で確認。『SAI SHOKI PAMPHLET』は1935〜1936年に発行された全3巻のグラフ雑誌で、中根宏の文章は第1輯に掲載された。

*4:上演では石井、板垣、柳の評論は李賢晙(イ・ヒョンジュン)『「東洋」を踊る崔承喜』(勉誠出版、2019年刊行)P138~139、川端、韓の評論は金賛汀(キム・チャンジョン)『炎は闇の彼方に伝説の舞姫・崔承喜』(日本/放送出版協会、2002年)P97、129より引用と紹介されるが、原文は以下からの抜粋。石井の「舞踊は心の窓」、板垣の「崔承喜の舞踊芸術」(初出『音楽新聞』)、柳の「一つの感想」は『SAI SHOKI PAMPHLET』第2輯(1936年)。川端は「朝鮮舞姫崔承喜」(『文藝』1934年11月号/前掲書には1939年とあるが誤記)、韓は『四海公論』(1938年7月号)。石井は崔の師事した舞踊家、板垣は文芸評論家、柳は文芸評論家・民藝運動の主唱者でとりわけ朝鮮美術に注目し、「朝鮮民族美術館」を創立。また韓雪野は朝鮮のプロレタリア作家で、崔と同じく解放後に共和国へ渡った。

*5:「崔承喜」の日本語の音読み。引用先の資料では「崔承喜」と文字表記してあるが、上演では「サイ・ショーキ」と日本語の音読みで読み上げられた。

*6:監修:髙正子・寺田吉孝。

*7:「こちら側とむこう側–舞」(茨木のり子『ハングルへの旅』朝日新聞出版、1989年。新装版(2023年)ではP225~229)。このエピソードは高嶋雄三郎の『崔承喜』(学風書院、1959)を参照したと思われる。高嶋は帝国劇場の客席にいた本人であり同書の「はしがき」には「やがて開幕、崔夫人が打楽器の伴奏で凛然たる威風のうちに二本の大剣をふるいつつ登場するや、それまで気がつかなかった後方観客席に陣取っていた朝鮮服で正装をこしらえた人々が、忽ち朝鮮語で口々に声援し、場内はその声に一時圧倒されてしまうのであった。圧政にひしがれている民族の怒りは舞台と客席で相呼応し、憂えるものは喜びを得、悲しめるものは望みを得、彼らの日本での凡ゆる不満は、崔夫人の舞踊の天井無限の光栄によって霧消するものの如くであった。この時味った(ママ)一種の恐怖感を私は今だに忘れることは出来ない」、「日本に於ける最後の舞台」には「しかも客席には正装をこしらえた朝鮮人が大勢集っていて朝鮮語のはやし言葉で承喜を激励する声が場内を圧する。私たちは背すじに冷たいものを感じ更にある恐怖感すら感じたことは、はしがきに書いた通りである。」。いずれの文章にも「恐怖感」というより強い言葉が使われており、植民地支配の後ろめたさの裏返しともとれる。

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記事内に使用の記録写真全て:photo by bozzo

 

井原麗奈
芸術文化観光専門職大学 助教。近代日本と植民地朝鮮の公会堂の設置経緯、運営方法等の比較から文化施設の歴史的意義や公共性について研究している。京都芸術センターのアートコーディネーター、神戸大学大学院国際文化学研究科地域連携研究員、ピアノ四重奏団アンサンブル・ラロと神戸市室内合奏団(現神戸市室内管弦楽団)のマネージャーとして様々な分野の催事のマネジメントに携わった。神戸女学院大学大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)。静岡大学地域創造学環アート&マネジメントコースの専任教員を経て2021年4月より現職。