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Q『弱法師』 ©igaki photo studio 豊岡演劇祭実行委員会提供

Q『弱法師』――いかにして人間/人形の「宿命」を演じるか
(1/2)
熊倉敬聡

2024.7.1

「玩具は、子供にとって芸術への最初の入門であり、更に言えば、寧ろ芸術の最初の実現でもある。」(シャルル・ボードレール「玩具のモラル」)*¹


 淡路島、特に南に位置する三條村は、16世紀以来、人形劇の一大拠点であった。江戸時代には、村の144軒中92軒が人形遣いの家であったという。そこから、全国に(記録にある限り盛岡まで!)、人形遣いたち(「道薫坊廻し」と呼ばれた)は散らばり、行脚し、興行を行なっていた。そして、彼らは皆、『道薫坊伝記』という巻物を、劇人形用の儀礼用具箱に入れて所持し、それを、淡路の人形戯の伝統を統べる神聖な書として崇めていた。
 その、漢文にして1079語に及ぶ文書は、大きく前半と後半に分かれる。前半は、記紀の「国生み神話」をなぞる記述となっている。

 イニシヘ天土未アメツチイマワカレズ、陰陽メオ分レザリシトキ、渾沌マロカレタルコト鶏子トリノコノ如クシテ、溟滓ホノカニシテキザシヲ含メリ、清陽スミアキラカナルモノハ、薄靡タナビキテアメリ、重濁オモクニゴエルモノハ、淹滞ツツイテツチルニ及ビテ、ハジメニ、洲壌クニツチウカタダヨヘルコト、遊魚アソブイヲ水上ミズノウヘニ浮ケルガゴトシ、天地ノ中ニ一物生ヒトツモノナレリ、状葦牙カタチアシカビの如シ、便スナワチ神ト化ル、……
 一書アルフミ二曰ク日月既ニ生レ、次二蛭兒ヒルコヲ生ム、年三歳ニルマデニ脚尚立タズ、初メ伊邪那岐イザナギ伊邪那美尊イザナミノミコト柱ヲ巡リタマイシノ時、陰神メガミ先ズ喜ブノコトバゲ、既ニ陰陽ノコトワリタガエリ、所以コノユエニ今蛭兒ヲ生ム、次ニ素戔嗚尊ウサノオノミコトヲ生ム、……次二鳥磐橡櫲樟船トリノイハクスフネヲ生ム、スナワチ此船ヲ以テ蛭兒ヲ載セテ、ミヅマニマニ二放チツ、 ……*²


〈第一幕〉

 上手に、フランス人形然としたコスチュームに身を包んだ女大夫、下手に薩摩琵琶を抱え、電気・電子的ガジェットに取り囲まれた奏者。間には、えんじの幕が闇に沈む。後者が琵琶を掻き鳴らし、幽玄なる響きを奏ではじめる。しばし後、琵琶の響きが高揚するにつれ、幕が開き、月明かりに照らされた文字通り「幽玄」なる光景が闇夜に浮かび上がる。「ここは日本の田舎 どこにでもあるアパートの一室 一組の夫婦がくらしていた」と女大夫が宣う。
 そこへ、下手から「交通誘導員」と名乗り、その制服に身を固めた「男/人形」が、赤く点滅する誘導灯を左右に振りながら、立ち現れる。交通誘導員――我々は、特に車を運転している最中など、「交通誘導員」がはたして「人間」なのか「人形」なのか、しばしば見紛うていないだろうか。認知における「人間」と「人形」との微細な視差、しかし、その微細さが時に認知機能をパニックに陥れるほどの目眩を起こさせる。
 すでにしてかくの如き「人間/人形」が、しかも肌色の襦袢を着た一人の人形遣いに操られ、しかも、交通誘導員なる「男」は、「私は人形だから」と、女大夫の声によって三たび「独語」する。この幾重にも累乗された「人間/人形」の間の裂け目が、開幕すでにして、我々観客の認知を、眩暈の万華鏡へと落とし入れる。
 アパートの一室では、「妻/ラブドール」が夜勤帰りの「夫」を待ち侘びている。そして、二人は夜空が白むなか、慌ただしく性交し、欲望を満たす。
 が、その「欲望」は、いったい誰の欲望なのか? 人間の欲望なのか、人形の欲望なのか。どちらでもあり、どちらでもないのか。翻って、「人間」である我々観客の「欲望」とは、そもそも何なのか。私もパートナーを「欲し」、性交する。その時、私は何を欲しているのか。「人間」を欲しているのか。あるいはもしかすると、「人間」然とした人形を欲しているにすぎないのか。私はもしかすると「人間」の中に「ラブドール」を欲しているに過ぎないのではないか。

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 ジークムント・フロイト「快感原則の彼岸」――フロイトは、ある日、自分の一歳半の男の孫が、その母親の留守中、奇妙な叫び声を上げているのに気づき、観察する。

とりわけ、母親が何時間も傍にいないことがあっても、けっして泣いたりはしなかった。といっても、この子は母親がじぶんの乳でそだてたうえに、他人の手をいっさい借りずに世話してきたので、心から母親になついていた。この感心な子が、ときおり困った癖を現わしはじめた。つまり、何でも手に入るこまごましたものを、部屋のすみや寝台の下などに、遠くほうり投げるので、そのおもちゃを捜し集めるのがひと苦労になるしまつだったのである。そのさい、子供は興味と満足の表情を表わして、高い、長く引っぱった、オーオーオーオ、という叫び声を立てた。母親と私の一致した判断によると、 それは間投詞ではなくて、「いない」 fort の意味であった。私はついに、それは一種の遊戯であって、自分のおもちゃを、みな、ただ「いない、いない」遊びにだけ利用していることに気づいた。*³


 そして、フロイトは、またある日、その孫に一個のひもを巻きつけた木製の糸巻きを与えて、さらに観察する。

ある日、私はこの見解をたしかめる観察をした。子供は、ひもを巻きつけた木製の糸巻きをもっていた。子供には、糸巻きを床にころがして引っぱって歩くこと、つまり、車ごっこをすることなどは思いつかず、ひもの端をもちながら蔽いをかけた自分の小さな寝台のへりごしに、その糸巻きをたくみに投げこんだ。こうして糸巻きが姿を消すと、子供は例の意味ありげな、オーオーオーオをいい、それからひもを引っぱって糸巻きをふたたび寝台から出し、それが出てくると、こんどは嬉しげな「いた」Da という言葉でむかえた。これは消滅と再現とを現わす完全な遊戯だったわけである。そのうち、たいていは前者の行為しか見ることができなかった。第二の行為にいっそう大きな快感がともなったのは、疑いないのだが、第一の行為がそれだけでも倦むことなく繰りかえされたのである。*⁴


 一歳半の孫は、何に「大きな快感」を覚えているのか。彼はそもそも何を欲しているのか。母親なのか、糸巻きなのか。いずれでもあるのか、いずれでもないのか。
 フロイトは、先に引用した一節の直後に、さりげなく以下の註を挿入する。

この解釈は、その後さらにひろい範囲の観察で完全にたしかめられた。ある日、母親が何時間も留守にしてからもどってくると、次のようなあいさつをうけた。「坊や、 オーオーオーオ!」それは、最初のうちは分からなかった。しかし、まもなく次のことが分かった。子供は、この長いひとりぼっちのあいだに、自分で影を消してしまう手段を発見していたのである。子供はじぶんの映像を、ほとんど床まで達している姿見の中に発見し、それから低くかがみこんで映像を「いない」にしてしまったのである。*⁵


 糸巻き(母親)の「いない、いない」に、自分(の映像)の「いない、いない」が重ね合わされる。我々はここで、精神分析学的に決定的なシーンに遭遇してはいないだろうか。母−子の未文化な欲動の海から、原−客体(object)が、それと呼応して原−主体(subject)が、まさに立ち現れようとしてはいないだろうか。しかも「欲望」が、原−客体を欲する原−主体の欲望がまさに生まれんとしている光景に立ち会っていないだろうか。我々の「欲望」とは、欲動の海の不在の只中で、「自分」という映像=イマージュが、糸巻きというもう一つのイマージュ=人形を欲し、満たされ、歓喜の雄叫びを上げる。「鏡像段階」(ジャック・ラカン)における原−客体と原−主体の無限の合わせ鏡のなかに/として、こうして「想像界」(l’imaginaire)が、玩具と人形の世界が生成し、「欲望」が目覚める。交通誘導員の夫と、ラブドールの妻の「欲望」は、我々の前で、それを反復する、いや、その「人間」の欲望の秘められたからくりを、あからさまに、はしたなくも、白日の下で演じてみせる。だから、我々「人間」は、その「人形」どうしのまぐわいに、えもいわれぬ不快感を抱くのではないか。
 性交ののち、夫がすやすやと眠るベッドの端に腰掛けたまま、妻は、夫が几帳面に洗ったまんこ=脱着式オナホールを手に、さめざめと涙を流す。琵琶が顫動する。妻は、まんこ=オナホールに、ただならぬ気配を感じる。慌てて夫を起こし、二人はまんこ=オナホールに聞き耳をたてる。なんと、そこから、コトバが聞こえてくるではないか。「魂」が宿ったのだ。二人は、さらに慌ててその「魂」を入れるべく、「入れ物」を探し、キューピー人形を見つけ、「魂」を入れる。二人は「父」と「母」になった。が、なぜか「子」=キューピー人形は、無惨にも放り投げられる。
 だが、その後、近所でも評判の美少年に育った「坊や」。ある日、父が、お土産にと、100円ショップ「ダイソー」で、やはり100円の「エリーちゃん」人形を買ってきて、坊やに与える。坊や/人形が、エリー/人形を愛でながら、しかし突然、エリーの手足をもぎ取り、(映像として映し出される)ネズミとゴジラの餌食にする。またもや、この人形と映像の、畳み掛けるかのような累乗。

Q『弱法師』 ©igaki photo studio 豊岡演劇祭実行委員会提供

 思想家郡司ぺギオ幸夫と日本画家中村恭子は、その「書き割り少女――脱創造への装置――」という論文で、「書き割り」を〈外部〉を召喚する装置とみなす。二人によれば、西欧の透視図法は、二次元空間の地平線上に消失点を設定することで、見えない向こう側、すなわち外部を、消失点として空間上に設定した途端、その外部が「こちら側のもの=収束点」として実体化され,消失点の向こう側、すなわち外部は以降問題とされないと言う。それと比較して、日本画の特徴をこう述べる。「他方、抽象的でありながら現実の風景を成す一枚の板のような日本画の山の連なりは,裏側が無く有限で断ち切る積極性によって、こちら側と向こう側との排他性を無効化し,絵画空間に見渡せない外部、知覚できないにも関わらず存在する向こう側それ自体の実在を潜在させる。むしろ見渡さない、外部を描かず、決して外部に手をつけない、という能動的受動性は、脱創造としての創造行為が発揮する潜勢力なのである。こちらと向こう側を絶壁で割り、向こうに潜在するものの来訪をひたすら「待つ」、そのような潜勢力を、作家自身だけでなく、絵画の観賞者にも発揮させる。書き割りは、そのような外部を呼び込む装置なのである。」*⁶(傍点筆者)
 文楽もまた、いたって「書き割り」的舞台ではないだろうか。「一の手摺り」、「二の手摺り」、「三の手摺り」、「屋台」という、いたって平面的な装置の重ね合いに、さらには板や布に彩色された背景画、文字通り書き割りが、「書き割り」性にダメ押しをする。『弱法師』の舞台は、その文楽が本来持つ「書き割り」性をさらに増幅する。夫と妻(そして今や坊や)が暮らす安アパートの背景画(台所、玄関口、窓などが描かれている)が、玄関口から人(形)が出入りするたび、へらへらとはためくのだ! 通常なら、書き割りが自らの「書き割り」性を仮初に隠蔽し、「現実」を仮構しようとするわけだが、その代わりに『弱法師』の書き割りは、その薄っぺらい平面をへらへらとはためかせながら、自らの「書き割り」性を隠蔽するどころか、それをモノの見事に暴露し、さんざめく。しかも、その「書き割り」性は、エリーやネズミやゴジラの、これまた薄っぺらい映像、そして100円ショップの大量生産される安物――日常生活を彩る書き割り――の「書き割り」性と響き合い、書き割りの交響曲とでもいいたくなるようなものを奏で始め、我々の「表象(representation)」に慣れ親しんだ認知機能を攪拌し、パニックに陥れる。そのズタズタにされた認知の無数の裂け目に、郡司の言う〈外部〉が「やってくる」*⁷。

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 その後しばらくの間、母は坊やと幸せな日々を送る。「蜜」のように「べとべと」と母性愛を坊やに塗りたくりながら。が、なぜかやがて、「老衰」が始まり、「肉体」が滅んでいき、「死」に至る。その「屍体」を、父は、これまたチープなダンボール製の「棺桶」に入れ、葬り去る。
 こうして、妻を喪った夫=父は、しばらくして若い女と付き合い始め、ある晩、坊やも暮らす自分のアパートに招じ入れる。ベッドの下に坊やを隠した、その上で、二人は性交する。その後、女は、アパートに入り浸るようになり、ある日、坊やと二人きりになると、坊やの「僕は愛されるために産まれてきたの」という誘いに乗り、かわいい「かたつむり」を口に含み、快楽をもたらさんとしているその刹那、父が帰宅し、その光景を目撃。
 二人は、坊やを挟んで、罵り合い、取っ組みあった末、ついに女は、包丁を手に取り、坊やを滅多刺しにする。女は叫ぶ「お前に言われたくねえんだよおおおおおおおおお 私は頭のなかに脳みそがたっぷりつまってんだよ こいつは内臓もないんだから表情なんかあるわけないだろ 内臓あってこその表情なんだよ こいつには表面しかないんだよ 人間はなんでもペロペロ舐めてばい菌も栄養も取り入れて内臓を立派に強くして それで感情も一緒に豊かにしてきたんだよ こいつには内臓がないから感情もねえわ そしたら表情だってあるわけねえだろがあああああああああああああ」。
 「内臓」があり、「感情」があり、「表情」があると言う女/人形が、「内臓」も「感情」も「表情」もないと言う坊や/人形を、この「表面」しかないものを、滅多刺しにする。この時、いったい誰が誰を刺しているのか。「人間」が「人形」をなのか、「人形」が「人形」をなのか、はたまた「人間」が「人間」をなのか? 父がこの光景を見て、「この中の誰に内臓があって 感情があって 表情があるのか」と自問し、「眩暈」を覚えるのも当然だ。だが、そう自問し、眩暈を覚えているのは、はたして「人形」なのか「人間」なのか、いずれでもあるのか、いずれでもないのか。
 先にも参照した郡司は、その『創造性はどこからやってくるか』で、創造の源には「トラウマ構造」があると言う。彼の言う「トラウマ」とは、まず、東日本大震災の津波の被害者たちの「サバイバーズ・ギルト」から導き出される。「津波の被害者にみられるトラウマは、それよりも複雑なものではないだろうか。彼らは端的な被害者であるにもかかわらず、自分だけ生き残ってしまったことに罪悪感を覚える。それはおおよそ、被害者の一割程度との報告がある。それはサバイバーズ・ギルト(生存者の罪)と呼ばれている。つまり津波の被害者は、同時に加害者の感覚も持ち合わせている。それは、自分があのとき、ああしなかったから家族を救えなかった、という具体的経験に裏打ちされるだけではなく、そのようなことがなくても、より一般的な現象として出現してしまうと考えられる。」*⁸。その「トラウマ」をさらに敷衍すべく、ラーメンか蕎麦かの例を持ち出す。「大学で、お昼をラーメンにするか蕎麦にするか、散々迷った挙句、帰って寝ることに決めた。自分には、得てしてこういうことが、よく起こる。」*⁹。
 そして、この状況・心境にまさに「トラウマ構造」が宿っていると言う。郡司は「ラーメンか蕎麦か」という二律背反がもつれにもつれ、「ラーメンも蕎麦も」という「肯定的矛盾」に陥り、結局はその矛盾のもつれが維持されたまま、その二者の強度が限りなく「脱色」される(「否定的矛盾」)という、肯定的矛盾と否定的矛盾が共立してしまう心的構造を、「トラウマ構造」と呼ぶ。その構造に陥った時、心は日頃の閉域を突破し、〈外部〉に触れることができ、その〈外部〉の訪れ、召喚こそが、創造行為、「天然表現」なのだと言う*¹⁰。
 「人間」か「人形」かという二律背反が、「人間」も「人形」もという肯定的矛盾へともつれにもつれ、そのもつれの強度を維持したまま、〈外部〉へと「脱色」し、落ちこんでいく…。
 先程の場面で、父は「眩暈」を覚えた後、「ああ そういえば 男が女の長い脚をМ字に開くとそこにはなにもなかった 穴が開いていなかった だから何もない股間にちんこをこすりつけた あれはあれでなかなか良かった」と頭の中に浮かんだ刹那、父は、その「何もない股間」、まさに〈外部〉へと「窓から人形のように落ちていった」。
 そして、幕が引かれる。

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『道薫坊伝記』後半。

 一二曰ク、蛭兒滄溟オオウナバラニ漂ヒトドマルコト衆多アマタノ歳己住スギユク、今倭田碕ニ於テ化シテ光神ト爲リ車輪ノ如シ、時二漁人アリ、 其ノ号ハ邑君ムラギミナリ、爾来ジライ漁人ノ長ハ邑君ト号ス、此ヲ象ル也、姓氏藤原ト爲ス、百太夫正清也、或時漁船ニ乗リ波浪ニウカブ、叢雲ムラクモ冥日、其ノ中二電光アリ、親シクコレヲ見ルニ、光二映リテ十有二三歳バカリノ兒在リ、カタチ神ノ如シ、スナワチ邑君ニ託チテ曰ク朕ハ上古ノ蛭兒ナリ、未ダ宮殿無シ、汝海浜ニ假殿カデンヲタツベシ云々ト、後二西宮大明神ト号ス、夷三郎殿也、ココに人有り道薫坊ト号ス、給仕シテ甚ダ神慮二合フ、然ルニ死後神慮慰 ムル無シ、然モ剰ニ風起り雨降り、海浪安カラズ、陸路穏カナラズ、時二百太夫帝都藤原ノ長者近衛殿也二告グ、勅ヲ承テ曰ク道薫坊ノ形貌作リ爲シ、之ヲ操リ神慮ヲ慰メヨ云々ト、
 勅ニシタガツテ之ヲ操ルニ神慮穏カナリ、其後此形代ハ神慮ヲ慰メルニ依テ奇巧キコウト為シ相続ク、道薫坊百太夫共ニ諸国ヲ巡リシバラク淡路国二止マリ、此術ヲ伝エシモノナリ、此洲、二神大日本豊秋津島ヲ生ム時、胞ト成ル此島ノ故ナリ、爾来百太夫之ヲ伝エ得テ後弟此操ヲ爲スモノナリ、
 百太夫淡路洲三條二住居シ、此ノ術ヲ伝エシ後、死シテ西宮ノ傍にアガム、
 一二日ク、古ハ八百万ヤオヨロズ神在リテアガムル時、勅ヲ承ケテ帝都二詣デ、神慮ヲ慰メ之ヲ鎮メル者ハ百太夫ノ後弟ナリ、之ニ依テ諸能技芸ノ冠トナス、
 大日本ハ神国ナリ、故二神慮ヲ慰メルヲ以テ、 諸芸衆能ノ首トナスナリ、後人之ヲ軽ンズナカレ、若シ之ヲ軽ンズレバ、重ク神慮二背クナリ、後人之ヲ恐ル可シ云々、
 右旧録之有リトイエドモ焼失二及ブ、已後イゴ、吉田家秘書ヲ以テ、未ダ古書ヲ監セズ、口伝ヲ信ジテ之ヲ誌スノミ、坂上入道 判 寛永十五稔季夏中旬日 *¹¹


 引かれた幕に、坊やの顔が大映しになる。その傍ら、スポットライトの中に登場した女大夫は、ドイツ語で「呪われた人形」の歌を唄う。「呪われた人形 呪われた人形 呪われた人形は人間の規範からはみ出る 攻撃性 性的衝動 を見せる人形 だって うちら 人間のかたちをしながら 人間のルールのなかで生きてないの だから人形はときどき人間に見せてはいけないものを見せちゃう めった刺しにされても痛みも感じず死ぬこともできない 呪われた人形 呪われた人形 呪われた人形はどこか遠く 遠くに捨てられる運命」。
 そう、坊やは「呪われた人形」なのだ。「人間の規範からはみ出る 攻撃性 性的衝動 を見せる人形」なのだ。
 実は、人形には、原−客体としての人形には、二種類ある。母−子未分化の欲動の海から母/子を分離し、子が(自らを父に同一化することにより)原−主体から一人前の主体へと「移行」し「成長」する「移行対象」(ドナルド・ウイニコット)としての人形。そしてもう一つ、逆に、父/母/子というエディプス的に分化し安定化した構造から、三者もろともに欲動の海へと投げ返す、(objectでもsubjectでもない)“abject”〔フランス語で通常は「おぞましい」を意味する〕としての人形。abject、abjectionの理論家、ジュリア・クリステヴァは、こう描く。「私にアブジェクシオンが侵入してくるとき、私の命名になるこの撚り合わさった感情と思考には、実を言えば限定し得る対象がない。アブジェクト 〔abject ab (分離すべく)+ject (投げ出されたもの)〕は私と向き合った一つの対象〔ob-jet ob (前に)+jet (投げ出されたもの)〕、私が名付ける、あるいは想像する対象なのではない。[中略]またアブジェクトは、誰か別の人なり何か別の物なりについての拠り所を提供してくれて、私を多少とも離脱させ、自律できるようにする私の相関体ではない。アブジェクトは対象から一つの性質――(je)に対立するという性質しか受けつがない。しかし、対象が対立を通して、意味に対する欲望の壊れやすい枠組のなかで私を安定させ、そして事実、そのために私は限りもなく意味のなかで身を休らうとすれば、逆に、対象からずりおちたアブジェクトは徹底的に排除されたものであり、意味が崩壊する場所へ私を引き寄せる。自分の主人である超自我と融合したある種の〈自我〉がアブジェクトを断固一掃したのである。アブジェクトは外部にある。自分がどうやら承認していないゲームのルールをもった集合全体の外にあるのだ。だが、この追放の地からアブジェクトは自分の主人に挑みかかるのを止めはしない。(主人に)合図もせずに、アブジェクトは排出、痙攣、叫び声を惹き起こす。」*¹²
 主体subjectと客体objectの安定的世界を、かぎりなく不安定で、無数の欲動が流動してやまないカオスへと叩き込み、「人間」の秩序を全面的に崩壊させるabject=「呪われた人形」。
 『道薫坊伝記』が物語るように、(淡路)人形劇の起源とされるエビスもまた、この人形の両義性(移行対象としての人形/abjectとしての人形)を象徴していた。「エビスは丁寧に祀られると福を授けるが、粗末に扱われると、台風、伝染病、旱魃、その他の災害となって復讐する。」*¹³

Q『弱法師』 ©igaki photo studio 豊岡演劇祭実行委員会提供

 記紀において、イザナギノミコトとイザナミノミコトが「国生み」の際、誤った形でまぐわり産み落とした不具の子、国生みの失敗作である「蛭児ヒルコ/エビス」。神々は、この子を葦船に乗せ、海に流してしまう。が、何年かの後、海に漁に出た漁師が何やら光るものを波間にみつけ、それを拾い上げると、自らを長じた蛭児だと言う。その蛭児の荒ぶる神霊を慰める人物/人形こそ「道薫坊」であったと、『道薫坊伝記』は語る。研究者の解説を聞こう。「淡路の伝説によれば、西宮出身の道薫坊が亡くなった時、危機が訪れる。両親に捨てられ波間を漂い来た異形の創造失敗作である蛭児は、突然みずからを祀る司式者を失う。道薫坊が死んだ今、誰がその荒ぶる潜在力を慰めるのだろう。道薫坊の地位を継ぐ者はなく、あらゆる災厄が降りかかる。これが、より明確にできなかった点である。淡路人形戯を始めたのはまさに、この新たな伝説を道薫坊という儀礼的権威に対する正当な後継者としながら、本来の司式者の地位に足を踏み入れ、その場を占めた人物である。この文章はそれ故、この物語の分岐点を人形神事の新たな始まり(すなわち、「歴史」を再び語り直す)を旗上げするために使う。」*¹⁴
 エビスは「丁寧に祀られる」と福をもたらすが、「粗末に扱われる」と「蛭児」としてあらゆる種類の災厄をもたらす。エビスの両義性。「坊や=呪われた人形」は、まさに、あらゆる禍、abjectionを人間にもたらす「蛭児」の化身ではないか。それは「混沌カオス、無秩序、そして境界不安性リミナリティ」を人類の只中に解き放ち、人類の「国」を滅ぼす「究極の『非−神(nondeity)』」*¹⁵なのではないか。だからこそ、坊や=蛭児は、「遠くに捨てられる運命」にあるのではないだろうか。
 市原佐都子は、『バッコスの信女 — ホルスタインの雌』でギリシャ悲劇、『Madama Butterfly』でプッチーニのオペラ、そして今回は、文楽を選んだ。なぜ、文楽なのか。我々は、まさに如上の理由から、市原が文楽を選ばざるをえなかった所以を理解する。

 そして、恐るべき場面――琵琶奏者が、女大夫の歌を引き継ぐかのように、今度は(ドイツ語でなく)日本語で「呪われた人形はどこか遠く 遠くに捨てられる運命」と歌い出す。それはまるで、「非−神」を招来する祝詞、いや逆祝詞のように、「遠くに」、〈外部〉に響き渡る。そして突如、闇がピンクに染まり、「呪われた人形」たちの阿鼻叫喚が、コトバの、映像の、電子音のabjectな断片たちの、限りなく暴力的な乱舞が、炸裂する。その、「人間」の認知をはるかに超える強度に、女大夫もまた、生贄であるかのようにのたうち回る。abjectionの狂気が、凱歌が、〈外部〉へと、爆裂する。

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熊倉敬聡
芸術文化観光専門職大学教授。同学術情報センター長。慶應義塾大学教授、京都(造形)芸術大学教授を経て現職。パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。フランス文学 ・思想、特に「ステファヌ・マラルメの“経済学”」を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『GEIDO論』、『藝術2.0』(以上、春秋社)、『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)などがある。