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©igaki photo studio
城の崎にて2019
市原佐都子
2020.2.13
あいちトリエンナーレ2019(以降あいトリ)パフォーミングアーツプログラム で上演した、『バッコスの信女 ― ホルスタインの雌』の創作のために1ヵ月ほど城崎国際アートセンターに滞在した。
今作はエウリピデス作の悲劇『バッコスの信女』の物語を下敷きに、古代ギリシャ劇の形式を借りた音楽劇。主要な役を演じる俳優の他「コロス」という合唱舞踊隊を用いた。ただし、出演者は全員女性。当時、公共事業である演劇への参加は「市民」の義務であり権利だったが、「市民」とは青年男子のことを指し、つまり出演者は全員男性。女性の身分はまだ低く「市民」とは認められていなかった。様々な出来事で存在感は薄まったが、あいトリはジェンダー平等を掲げており、古代ギリシャに限らず現代でも性差によって不平等な状況が多々あることは事実。もちろん、性はグラデーションで存在している。しかし、社会の状況は極端だし、物事を進めていくには区切りをつけることや、はっきりと言い切ることもときに必要だ。そんな経緯で、単純だがギリシャ悲劇の構図をひっくり返し女性限定とした。城崎国際アートセンター滞在中は、執筆や俳優との稽古の他、実際に劇中で歌う合唱曲を地元の方に歌ってもらうWS(ワークショップ)を開催した。古代ギリシャ劇にならい12名のコロスを登場させる予定だったが、私はここ数年、出演者2~3人の作品が続いており出演者10名以上の作品を創作した経験もなく、シミュレーションをしたかった。城崎での募集も女性限定とした。シミュレーションのための他、まだ私のことをよく知らない地元の方々が、私のテキストにどんな状況で出会うことがプラスなのか考えた結果だ。私の戯曲は、動物としての人間の性や異種間の交配についてなど、根源的な生や性について描いてる。そのため作者の私が女性の精神や身体を持っていることがテキストに強く影響する。過激だとも言われる。できるだけリラックスして素直に受け取ってもらいたい。性差によって生まれるプレッシャーはどうしても存在するからだ。
まず一人で執筆のために他のメンバーよりも早く城崎入りした。まず着いて真っ先に「御所の湯」へ。私は執筆に集中するとお風呂に入らなくなる傾向があるため先に入っておこうと。湯上がりさっぱりしたところで、「これから書くぞ!」と決意。古代アテネにも温泉があったと言われている。ギリシャ悲劇の作家たちも温泉に入ってさっぱりした後、思う存分あの血みどろで反社会的な劇を書いていたのかもしれない。案の定、集中しだすと全てがどうでもよくなり、一人で滞在している間、温泉に行かず、あまり食べず、冬だったので乾燥で肌はカサカサ、唇からは血が出て、髪の毛は静電気で逆立っていた。その後、他のメンバーが城崎入りし、最低限アートセンター内のシャワーを浴びるようになり、栄養のある手料理をつくってもらい、潤いを取り戻した。しかしなにより作品についての話し合いを深夜になっても気の済むまでできたことがありがたかった。そうしてなんとか戯曲がだいたい完成し、久しぶりに温泉に入ったら、寝不足のせいもあり湯あたりを起こし更衣室で倒れて顔をロッカーにぶつけて右瞼を切った。朦朧とする意識のなか、慌ててパンツ一丁の姿で走り回る制作の山里さんが視界の端に見える。私は血を流しながら笑っていた。迷惑をかけているのに笑ってしまうのは不思議だ。と、従業員の女性が冷たいタオルを首元にあててくれた。裸で彼女の介抱に身をゆだねるしかなかった。「あなたは服を着なさい」と山里さんはその女性に言われた。また笑ってしまう。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ちなみに、地元の方々は城崎国際アートセンターに滞在する我々のことを「アートさん」と呼んでいるそうな。「アートさんが倒れたのよ〜」「あらあら、アートさんったら〜」と従業員室で噂されるのを想像してしまう。この町では「アート」を背負うことになる。気を付けねば。あだ名には愛と偏見があって面白い。私は温泉に行くとき、受付で「どうも、アートです」と名乗るようにしていた。「私はアートです」なんて言う機会は城崎でしかない。そして、「どうぞ」と普通に返答される。愉快。
戯曲執筆から作曲の段階へ。作曲は額田大志さん(東京塩麴/ヌトミック主宰)。最近の劇中曲は彼にお願いしている。彼はとても頼もしい。今回は女性の三部合唱。WSでも3パート(ソプラノ・メゾソプラノ・アルト)に分かれて歌ってもらった。歌う前に、少し作品や歌詞について説明する時間をつくった。原作のあらすじやギリシャ劇の形式について、今回私がそれをどう書き換えたのかなどを話した。今作は家畜人工授精師として働いていた「主婦」の暮らすリビングルームへ、彼女によってつくられた人間とホルスタインの間に産まれた「半人半獣」(生物学的に正しくないが主婦の子供)が訪ねてくることで物語が展開していく。コロスは「ホルスタインの雌の霊魂」という役柄で歌ったり踊ったり気の利いたことを言ったりする。私は口下手なので毎回説明の時間は緊張した。
ヒトの乳は母乳
ウシの乳は牛乳
だけど牛乳だって母の乳首から出てる
牛乳だって母乳
さて、これは WSで歌ってもらった合唱曲の歌詞の一部だが、これを読んだだけで泣く人はいないだろう。しかし、メロディーがつき、女性たちの声が重なり、美しいハーモニーが生まれると、理屈抜きに人の心を揺さぶるのだ。WS参加者の一人がこの部分を歌い終わった後「良い歌」と泣いた。私は正直、「まじか!」と思った。しかしあいトリの観客席でも泣いている人がちらほら。そして、私も密かに本番中泣いた。歌の効果はすごい。西尾佳織さん(鳥公園主宰)も同時期に滞在していてWSを受けてくれたのだが、「こういうアウトプットだと良いなと思える」というようなことを言ってくれた。確かに。すごく良いテキストとの出会い方だ。また、WSは明確な答えのないことが多い。それ故に豊かな時間なのだが、難しく思われることもある。しかし今回は大変明確だ。作曲された歌というある種の答えがあり、歌う。歌うという行為には喜びがある。多くの人がカラオケにお金を払って歌いに行くのだ。また、人の声に宿る豊潤なものにも触れることができた。年配の方が何人か参加してくれた。彼女たちの歌声のなんとも言えない響きはなんだろう。高音部分でもまるく柔らかいのだ。真似しようと思ってもできない。
WSは定期的に何回か開催し、歌った後はお茶を飲みお菓子を食べながら少しお喋りした。「家事をしながら歌いました」「車のなかで歌いながら来ました」と彼女たちの生活へ作品が浸透していることを感じ嬉しかった。
最終的には成果発表会を開催し、城崎国際アートセンターのホールで俳優の演技とWS参加者の合唱を合わせて通してみた。発表を終えた後、ある60代の女性は「田舎のおばさんだから市原さんの作品はわからないと思ってたけど、実際に歌ってみるとわかったような感じがした」と言ってくれ、それが心に残った。
「田舎のおばさん」という意識に結びつく「わからない」という言葉。私はこれまで演劇に日頃から触れている人ばかり相手にしてきており、自分が思っている以上に私の作品は誰かには「わからない」と思わせるものなのだろう。だけどその彼女にも最終的に「わかったような感じがした」と言ってもらえた。それは彼女と私が一緒に過ごした時間の成果だ。作家として社会に問題提起する作品を創作することはもちろんだが、その自分の作品に興味を持ってもらい、身近に感じてもらう努力をもっとしていきたいと実感した。
あいトリの上演後のロビーで、WS参加者の大学生が、上演を観に来てくれ「心のなかで一緒に歌いました」と言ってくれた。WSを受けてくれた彼女たちに 完成した作品を観てもらいたいと思っていたので、一人でもそれが叶って本当に嬉しかった。心のなかと言わず声に出して歌ってくれればよかったのに。
今作はエウリピデス作の悲劇『バッコスの信女』の物語を下敷きに、古代ギリシャ劇の形式を借りた音楽劇。主要な役を演じる俳優の他「コロス」という合唱舞踊隊を用いた。ただし、出演者は全員女性。当時、公共事業である演劇への参加は「市民」の義務であり権利だったが、「市民」とは青年男子のことを指し、つまり出演者は全員男性。女性の身分はまだ低く「市民」とは認められていなかった。様々な出来事で存在感は薄まったが、あいトリはジェンダー平等を掲げており、古代ギリシャに限らず現代でも性差によって不平等な状況が多々あることは事実。もちろん、性はグラデーションで存在している。しかし、社会の状況は極端だし、物事を進めていくには区切りをつけることや、はっきりと言い切ることもときに必要だ。そんな経緯で、単純だがギリシャ悲劇の構図をひっくり返し女性限定とした。城崎国際アートセンター滞在中は、執筆や俳優との稽古の他、実際に劇中で歌う合唱曲を地元の方に歌ってもらうWS(ワークショップ)を開催した。古代ギリシャ劇にならい12名のコロスを登場させる予定だったが、私はここ数年、出演者2~3人の作品が続いており出演者10名以上の作品を創作した経験もなく、シミュレーションをしたかった。城崎での募集も女性限定とした。シミュレーションのための他、まだ私のことをよく知らない地元の方々が、私のテキストにどんな状況で出会うことがプラスなのか考えた結果だ。私の戯曲は、動物としての人間の性や異種間の交配についてなど、根源的な生や性について描いてる。そのため作者の私が女性の精神や身体を持っていることがテキストに強く影響する。過激だとも言われる。できるだけリラックスして素直に受け取ってもらいたい。性差によって生まれるプレッシャーはどうしても存在するからだ。
まず一人で執筆のために他のメンバーよりも早く城崎入りした。まず着いて真っ先に「御所の湯」へ。私は執筆に集中するとお風呂に入らなくなる傾向があるため先に入っておこうと。湯上がりさっぱりしたところで、「これから書くぞ!」と決意。古代アテネにも温泉があったと言われている。ギリシャ悲劇の作家たちも温泉に入ってさっぱりした後、思う存分あの血みどろで反社会的な劇を書いていたのかもしれない。案の定、集中しだすと全てがどうでもよくなり、一人で滞在している間、温泉に行かず、あまり食べず、冬だったので乾燥で肌はカサカサ、唇からは血が出て、髪の毛は静電気で逆立っていた。その後、他のメンバーが城崎入りし、最低限アートセンター内のシャワーを浴びるようになり、栄養のある手料理をつくってもらい、潤いを取り戻した。しかしなにより作品についての話し合いを深夜になっても気の済むまでできたことがありがたかった。そうしてなんとか戯曲がだいたい完成し、久しぶりに温泉に入ったら、寝不足のせいもあり湯あたりを起こし更衣室で倒れて顔をロッカーにぶつけて右瞼を切った。朦朧とする意識のなか、慌ててパンツ一丁の姿で走り回る制作の山里さんが視界の端に見える。私は血を流しながら笑っていた。迷惑をかけているのに笑ってしまうのは不思議だ。と、従業員の女性が冷たいタオルを首元にあててくれた。裸で彼女の介抱に身をゆだねるしかなかった。「あなたは服を着なさい」と山里さんはその女性に言われた。また笑ってしまう。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ちなみに、地元の方々は城崎国際アートセンターに滞在する我々のことを「アートさん」と呼んでいるそうな。「アートさんが倒れたのよ〜」「あらあら、アートさんったら〜」と従業員室で噂されるのを想像してしまう。この町では「アート」を背負うことになる。気を付けねば。あだ名には愛と偏見があって面白い。私は温泉に行くとき、受付で「どうも、アートです」と名乗るようにしていた。「私はアートです」なんて言う機会は城崎でしかない。そして、「どうぞ」と普通に返答される。愉快。
戯曲執筆から作曲の段階へ。作曲は額田大志さん(東京塩麴/ヌトミック主宰)。最近の劇中曲は彼にお願いしている。彼はとても頼もしい。今回は女性の三部合唱。WSでも3パート(ソプラノ・メゾソプラノ・アルト)に分かれて歌ってもらった。歌う前に、少し作品や歌詞について説明する時間をつくった。原作のあらすじやギリシャ劇の形式について、今回私がそれをどう書き換えたのかなどを話した。今作は家畜人工授精師として働いていた「主婦」の暮らすリビングルームへ、彼女によってつくられた人間とホルスタインの間に産まれた「半人半獣」(生物学的に正しくないが主婦の子供)が訪ねてくることで物語が展開していく。コロスは「ホルスタインの雌の霊魂」という役柄で歌ったり踊ったり気の利いたことを言ったりする。私は口下手なので毎回説明の時間は緊張した。
ヒトの乳は母乳
ウシの乳は牛乳
だけど牛乳だって母の乳首から出てる
牛乳だって母乳
さて、これは WSで歌ってもらった合唱曲の歌詞の一部だが、これを読んだだけで泣く人はいないだろう。しかし、メロディーがつき、女性たちの声が重なり、美しいハーモニーが生まれると、理屈抜きに人の心を揺さぶるのだ。WS参加者の一人がこの部分を歌い終わった後「良い歌」と泣いた。私は正直、「まじか!」と思った。しかしあいトリの観客席でも泣いている人がちらほら。そして、私も密かに本番中泣いた。歌の効果はすごい。西尾佳織さん(鳥公園主宰)も同時期に滞在していてWSを受けてくれたのだが、「こういうアウトプットだと良いなと思える」というようなことを言ってくれた。確かに。すごく良いテキストとの出会い方だ。また、WSは明確な答えのないことが多い。それ故に豊かな時間なのだが、難しく思われることもある。しかし今回は大変明確だ。作曲された歌というある種の答えがあり、歌う。歌うという行為には喜びがある。多くの人がカラオケにお金を払って歌いに行くのだ。また、人の声に宿る豊潤なものにも触れることができた。年配の方が何人か参加してくれた。彼女たちの歌声のなんとも言えない響きはなんだろう。高音部分でもまるく柔らかいのだ。真似しようと思ってもできない。
WSは定期的に何回か開催し、歌った後はお茶を飲みお菓子を食べながら少しお喋りした。「家事をしながら歌いました」「車のなかで歌いながら来ました」と彼女たちの生活へ作品が浸透していることを感じ嬉しかった。
最終的には成果発表会を開催し、城崎国際アートセンターのホールで俳優の演技とWS参加者の合唱を合わせて通してみた。発表を終えた後、ある60代の女性は「田舎のおばさんだから市原さんの作品はわからないと思ってたけど、実際に歌ってみるとわかったような感じがした」と言ってくれ、それが心に残った。
「田舎のおばさん」という意識に結びつく「わからない」という言葉。私はこれまで演劇に日頃から触れている人ばかり相手にしてきており、自分が思っている以上に私の作品は誰かには「わからない」と思わせるものなのだろう。だけどその彼女にも最終的に「わかったような感じがした」と言ってもらえた。それは彼女と私が一緒に過ごした時間の成果だ。作家として社会に問題提起する作品を創作することはもちろんだが、その自分の作品に興味を持ってもらい、身近に感じてもらう努力をもっとしていきたいと実感した。
あいトリの上演後のロビーで、WS参加者の大学生が、上演を観に来てくれ「心のなかで一緒に歌いました」と言ってくれた。WSを受けてくれた彼女たちに 完成した作品を観てもらいたいと思っていたので、一人でもそれが叶って本当に嬉しかった。心のなかと言わず声に出して歌ってくれればよかったのに。
市原佐都子
劇作家・演出家・小説家
人間の行動や身体にまつわる生理、その違和感を独自の言語センスと身体感覚 で捉えた劇作、演出を行う。2011年、『虫』第11回AAF戯曲賞受賞。2017年、『毛美子不毛話』第61回岸田國士戯曲賞最終候補。2019年、あいちトリエンナーレ2019にて最 新作『バッコスの信女 − ホルスタインの雌』上演。同作は2020年テアター・デア・ヴェルト(ドイツ)でも上演予定。公益財団法人セゾン文化財団ジュニアフェローアーティスト。