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余越保子『shuffleyamamba』豊岡公演 評
岩城京子(演劇パフォーマンス学研究)
2020.2.11
余越保子『shuffleyamamba』
構成・演出・映像・監修:余越保子
共同演出・音楽・出演:ゲルシー・ベル
ドラマトゥルク:筒井潤(dracom)
振付・ゲスト出演:砂山典子(dumb type)
共同振付・出演:上野愛実、大崎晃伸、渋谷陽菜、西岡樹里、福岡さわ実
滞在制作期間:2019年3月3日(日)~3月17日(日)/9月14日(土)~ 10月7日(月)
公演日程:2019年10月5日(土)~ 6日(日)
会場:出石永楽館
構成・演出・映像・監修:余越保子
共同演出・音楽・出演:ゲルシー・ベル
ドラマトゥルク:筒井潤(dracom)
振付・ゲスト出演:砂山典子(dumb type)
共同振付・出演:上野愛実、大崎晃伸、渋谷陽菜、西岡樹里、福岡さわ実
滞在制作期間:2019年3月3日(日)~3月17日(日)/9月14日(土)~ 10月7日(月)
公演日程:2019年10月5日(土)~ 6日(日)
会場:出石永楽館
「山姥」という日本民間伝承に伝わるキーワードを中心に、振付家・余越保子によるパフォーマンス作品『shuffleyamamba』は四方八方に展開されていく。一般的に山姥といえば、山奥に排斥された「除け者」の代名詞として理解される。あるいは演劇的には、世阿弥の能に描写されるように森羅万象をあらわす「女性神」の象徴となる。さらにまた文化社会的には、高度資本主義社会においてさえ克服できない「老い」や「死」といった実存的恐怖のシンボルとして読みとれる。いわゆる西洋社会における「魔女」が、白人男性社会が設けた社会規律からはみだす罪業を一身に引き受けるかたちで誕生したものだとしたら、ひるがえって山姥は、善悪の二項対立をそもそも超越した存在である。ときに神聖なものとして崇められ、ときに穢れとして厭われる、いわば文化尺度を超越した絶対的な「部外者」。そして余越がこうしたフィクションとしてのアウトカースト(不可触民)に想像的に否応なく惹きつけられてしまう理由が、本作では、非線形な場面群のモンタージュとして自由闊達な筆致で表現されていく。言い換えるなら本作は、過去四半世紀にわたり米国で活躍してきた日本人女性作家がくぐり抜けてきたアイデンティティの困惑、混乱、混線といった悲喜劇に共鳴するかたちで批評的に編みあげられた「山姥賛歌」としてのパフォーマンスなのだ。
作品評に至る前に、少し余越のキャリアをさらっておく必要がある。さかのぼること四半世紀、余越は一九八一年にバイリンガル秘書になるべく渡米。だがなにか超越的な意志に導かれるように、彼女の未来航路は予想できない方向に舵を切っていく。いわゆる六〇年代ジャドソン・グループの一員である米国人振付家デヴィッド・ゴードンの作品『Framework』(1984)に衝撃を受け、突如、振付家を志すのだ。そして以後、西洋バレエ文脈で受け継がれてきた階級主義やエリート主義、またマーサ・グラハムなどの始祖を神格化しがちな米国モダンダンスの権威主義とは異なり、形式・思想・身体的に圧倒的に自由ないわゆるポスト・モダンダンスを創作しはじめる。しかし多くの西洋諸国に渡る有色人種作家がそうであるように、余越もまた異国の地において「日本人」としてのアイデンティティを強制的に自覚化させられていく。アメリカにいる日本人としてのアイデンティティを、米国人が納得するように語る武器を身につけるようにと迫られていく。そして半ば当然の帰結として、バレエやモダンダンスとは異なる日本的身体表現を獲得すべく、二〇〇〇年代頃から六世藤間勘十郎の芸を受け継ぐ師匠に私淑し、歌舞伎の素踊を身につけていく。そして腰を折ることやすり足で歩くことなど、基礎中の基礎から始まった素踊の成果は、『what we when we』(2006)『Tyler Tyler』(2010)『BELL』(2013)など、オリエントとオクシデントの舞踊史とその技術を横断的に援用する、一連の振付作品として創作的な実を結んでいく。本作『shuffleyamamba』は、この余越による和洋折衷なダンス作品群のある種の集大成と言える作品だ。
無論、表現者としてのアイデンティティを模索すべく、日本人作家が日本古典芸能に走るのは安易だという見方もあるだろう。実際、主な活動拠点を海外に移しながらも、ひたすら自分の内面だけを透徹に見つめて独自の言語を構築していく「純粋主義」なアーティストはいる。ただこれら良くも悪くも潔癖な振付家の多くと余越との見過ごせない違いは、後者が数少ない日本人女性作家であるという点だ。異論はあろうが、未だに日本人女性の人格の少なくない部分は、自覚的であれ無自覚であれ、他者のまなざしに応答するかたちで形成されていくように思う。つまり他者や世間という歪んだ反射板を介して自己形成がなされていくのだ。そしてこの受動的作業は、自己表現ではなく自己滅私を基礎におく日本古典芸能の稽古事となかなか親和性が高い。たとえば本作中盤では、おそらく実際に余越に素踊を指導した師匠による、究極の滅私を促す言葉が、マイクを通したパフォーマーの声を媒介にして届けられる。「自分のための時間は、一個もないと思うてください。お風呂とお手洗いの時間、それ以外はすっかりこちらで頂戴します」。この命がけの受動性、またの名を絶対的従属性の先にこそ、磨きぬかれた芸があるという思考は、何にもなびかず社会的呪縛から己を解放していく行為に芸術表現の真骨頂がある、とエゴイスティックに捉える西洋近代男性的な創作論とは限りなく相容れないものだ。
「女性的」と形容されがちな日本古典舞踊の受動性と、「男性的」と思われることの多い西洋近現代舞踊の自律性。この本質的な相容れなさを理解しているからこそ、余越は、本作であえて、おそらく伝統的な舞踊訓練を積んでこなかった「奔放すぎる身体」を持つ男性パフォーマー(黒沢美香の弟子である大崎晃伸)を異分子として舞台上におく。彼はそのメタボな身体をマース・カニングハムの作品『サマースペース』の衣裳を模したユニタードでつつみ、サラリーマンの余技とジャパニーズ・コンテンポラリー・ダンスの狭間にあるようなメチャクチャに愉快なステップを繰り返していく。これは群舞の役割を担う三人の女性ダンサーたち(上野愛実、渋谷陽菜、西岡樹里)が、ほとんどの場面で表情を押し殺し、バレエ、モダンダンス、日本舞踊などの厳格な身体的規律を体現していくのとはまさに対照的である。かてて加えて彼はある場面で、コンテンポラリー・ダンスの「自由さ」を謳歌するようなセリフさえ口にする。「自分のすべてを晒して、それがエンターテイメントになるって素晴らしいと思っている」。言うまでもなく余越は、自分のすべてをあけすけに晒すことが、自動的に評価に値するエンターテイメントになるなど到底思っていないだろう。むしろそうした「ナイーヴな自己表現」に辛辣な批評眼を向けてきた表現者だからこそ、挑発の意味も込めてパフォーマーを介してこうした言葉を観客に投げかけているのだ。余越はこう言っているようにさえ思える。なぜ男性はわりと無条件に自己解放的な表現を志向することができて、女性は異性と折り合いをつけるための最低限の社会規律を学んだあとの「解放」を演じなければならないのか、と。
余越は「自分を晒す」と言ったときの主語が、多くの場合は女性であることにも、もちろん気付いている。だからこそ女性が自分を晒すことではじめて(男性のための)エンターテイメントになるという「負のアイデンティティの再生産」にも批評的な目を向けていく。このジェンダー・パフォーマンスへの批評的視座は、映画『スイート・チャリティ』の『Rich Man’s Frug』の音楽を採用した場面でもっとも端的に表現される。衆人環視の沈黙のなか、上半身に羽織、下半身に網タイツという、大胆な装いの女性ダンサー(上野愛実)が登場する。そして歪曲された艶めかしさで花道を練り歩くことで、いかに女性の「大胆さ」が男性的視座に則した、他者の視線で演出されてきたかを可視化してみせる。なお米国娯楽産業に関与する人間であれば、この音楽を聴けば半ば自動的にボブ・フォッシーのセクシーなショー・ダンスを思い浮かべる。リトル・ブラック・ドレスに身を包んだ美女たちと、ブラックスーツを完璧に着こなす美男子たちの一糸乱れぬあでやかな群舞。だがこの「セクシーさ」の概念を生みだしたのは、他でもないフォッシーという破格の女性遍歴を持つマッチョな男性振付家である。こうしたジェンダーの生成過程に対して自覚的だからこそ、余越の振付ける女性たちからは、単なるセクシーさというよりも、「セクシーに振る舞おうと無理をする女性の喜劇性」が前景化してくる。
これは後半で砂山典子が踊るバーレスク・ダンスの場面にも同じことが言える。巨大な羽根でトップレスの身体を隠して焦らしながら観客を魅了するというダンスを、砂山はここで踊ってみせるが、その踊りからは一切の淫靡さが排除されている。つまり第一に出石永楽館がバーレスクの劇場ではないこと、またこれと関連して、第二に、観客が女体を鑑賞するために集まっていないことにより、演出効果としては固唾を呑むような没入感というより、醒めた目でカラダを批評する異化効果が生まれてくるのだ。そして言うまでもなく異化効果は、悲劇よりも喜劇との相性がよい。このドラマトゥルギーを熟知しているからこそ余越は、バレエの『ジゼル』から長唄の『道成寺』まで、いわゆる東西舞踊史における悲劇と呼ばれる演目さえも軽やかに客体化し、女性性のジェンダーと結びつけられることの多い「堪え忍ぶ悲劇の呪縛」から女性を解放していく。
この女性の解放性をもっともクリアに表現してみせるのは、米国人ヴォーカリストのゲルシー・ベルである。ブロードウエイ作品から実験音楽、さらには杵屋三七郎のもとで研鑽を積んだ長唄さえもレパートリーの射程に入れる彼女は、本作終盤で堂々たる独唱を披露する。それは長唄とオペラのちょうど中間地点にあるような歌唱であり、ときにその声は出囃子として演者を下支えする日本伝統芸能の自己滅私的な旋律となり、ときに個人の感情を爆発させて歌いあげる西洋的伝統の自己解放的なアリアとなる。そして表現が後者に大きく傾いたとき、出石永楽館という明治から大正時代にかけて歌舞伎興行で賑わってきた劇場が、突如、オペラ劇場のごとき文化資本的を持つ雰囲気を纏いはじめる。より具体的に言うならば、大向こうから観客が声をかけることで場が成立する歌舞伎の民主的構造から、舞台に立つ選ばれし個人とその他大勢の観客が真っ二つに分断されたオペラの権力構造へと、劇場に漂う「雰囲気の美学」が変わっていくのだ。そしてまたこの雰囲気の変化を敏感に察知した観客は、舞台上にいる超絶的な個人を崇めるというドラマトゥルギーが、いかに西洋近代ゆかりのものであるかを改めて認識していく。さらに簡潔にまとめるなら、ベルが舞台上にいるときだけ劇場に中心点が生まれるのだ。
神から解放された出雲阿国、男性から解放された西洋白人女性――それら事例と比較するなら、間違いなくコンテンポラリー・ダンスに従事する日本人女性は未だ社会的規律に捕らわれている。その不都合な真実を、余越は出石永楽館という、歌舞伎興行の際には男性しか立つことが許されてこなかったニッポンの芝居小屋に日本人女性を置くことではっきりと浮き彫りにしてみせる。なぜヒールを履いた日本人女性ダンサーが花道に向けてジュテをすると、観客はヒヤリとするのか。なぜ自由の免罪符を得ているはずのコンテンポラリー・ダンス作品においてさえ、日本人女性が芝居小屋でジャンプをすると冒瀆的という感情が生まれてくるのか。これに対して、西洋白人女性が裸足で芝居小屋に立ち独唱をなすことに対しては、我々がわりと寛容でいられるのはなぜなのか。個々の場面を貫くナレーションがないため、主流文化の眼でしか世界を眺めたことがない人間に本作がどれほど丁寧に届けられたかはわからない。だがアウトサイダーとしての疎外感を少しでも感じたことのある人間なら、バーレスク・ダンサーからセックス・ワーカーから西洋に渡った日本人振付家まで、周縁に立つ女性たちが、どれほど理不尽に他者のまなざしのなかで歪んだアイデンティティをまとわされてきたかを明示化するのが本作の主眼であることがわかるだろう。山姥は、みずから山姥と名のるのではない。他者にそう「呼びかけ」られて(ルイ・アルチュセールが言うように)、はじめて山姥としての自分を自覚する。その文化重層的な差別のなかで生きのびねばならない「山姥たち」のアイデンティティの悲喜劇を、余越は告発的にも啓蒙的にもならないかたちで、愛おしく軽やかに描きだしてみせた。
作品評に至る前に、少し余越のキャリアをさらっておく必要がある。さかのぼること四半世紀、余越は一九八一年にバイリンガル秘書になるべく渡米。だがなにか超越的な意志に導かれるように、彼女の未来航路は予想できない方向に舵を切っていく。いわゆる六〇年代ジャドソン・グループの一員である米国人振付家デヴィッド・ゴードンの作品『Framework』(1984)に衝撃を受け、突如、振付家を志すのだ。そして以後、西洋バレエ文脈で受け継がれてきた階級主義やエリート主義、またマーサ・グラハムなどの始祖を神格化しがちな米国モダンダンスの権威主義とは異なり、形式・思想・身体的に圧倒的に自由ないわゆるポスト・モダンダンスを創作しはじめる。しかし多くの西洋諸国に渡る有色人種作家がそうであるように、余越もまた異国の地において「日本人」としてのアイデンティティを強制的に自覚化させられていく。アメリカにいる日本人としてのアイデンティティを、米国人が納得するように語る武器を身につけるようにと迫られていく。そして半ば当然の帰結として、バレエやモダンダンスとは異なる日本的身体表現を獲得すべく、二〇〇〇年代頃から六世藤間勘十郎の芸を受け継ぐ師匠に私淑し、歌舞伎の素踊を身につけていく。そして腰を折ることやすり足で歩くことなど、基礎中の基礎から始まった素踊の成果は、『what we when we』(2006)『Tyler Tyler』(2010)『BELL』(2013)など、オリエントとオクシデントの舞踊史とその技術を横断的に援用する、一連の振付作品として創作的な実を結んでいく。本作『shuffleyamamba』は、この余越による和洋折衷なダンス作品群のある種の集大成と言える作品だ。
無論、表現者としてのアイデンティティを模索すべく、日本人作家が日本古典芸能に走るのは安易だという見方もあるだろう。実際、主な活動拠点を海外に移しながらも、ひたすら自分の内面だけを透徹に見つめて独自の言語を構築していく「純粋主義」なアーティストはいる。ただこれら良くも悪くも潔癖な振付家の多くと余越との見過ごせない違いは、後者が数少ない日本人女性作家であるという点だ。異論はあろうが、未だに日本人女性の人格の少なくない部分は、自覚的であれ無自覚であれ、他者のまなざしに応答するかたちで形成されていくように思う。つまり他者や世間という歪んだ反射板を介して自己形成がなされていくのだ。そしてこの受動的作業は、自己表現ではなく自己滅私を基礎におく日本古典芸能の稽古事となかなか親和性が高い。たとえば本作中盤では、おそらく実際に余越に素踊を指導した師匠による、究極の滅私を促す言葉が、マイクを通したパフォーマーの声を媒介にして届けられる。「自分のための時間は、一個もないと思うてください。お風呂とお手洗いの時間、それ以外はすっかりこちらで頂戴します」。この命がけの受動性、またの名を絶対的従属性の先にこそ、磨きぬかれた芸があるという思考は、何にもなびかず社会的呪縛から己を解放していく行為に芸術表現の真骨頂がある、とエゴイスティックに捉える西洋近代男性的な創作論とは限りなく相容れないものだ。
「女性的」と形容されがちな日本古典舞踊の受動性と、「男性的」と思われることの多い西洋近現代舞踊の自律性。この本質的な相容れなさを理解しているからこそ、余越は、本作であえて、おそらく伝統的な舞踊訓練を積んでこなかった「奔放すぎる身体」を持つ男性パフォーマー(黒沢美香の弟子である大崎晃伸)を異分子として舞台上におく。彼はそのメタボな身体をマース・カニングハムの作品『サマースペース』の衣裳を模したユニタードでつつみ、サラリーマンの余技とジャパニーズ・コンテンポラリー・ダンスの狭間にあるようなメチャクチャに愉快なステップを繰り返していく。これは群舞の役割を担う三人の女性ダンサーたち(上野愛実、渋谷陽菜、西岡樹里)が、ほとんどの場面で表情を押し殺し、バレエ、モダンダンス、日本舞踊などの厳格な身体的規律を体現していくのとはまさに対照的である。かてて加えて彼はある場面で、コンテンポラリー・ダンスの「自由さ」を謳歌するようなセリフさえ口にする。「自分のすべてを晒して、それがエンターテイメントになるって素晴らしいと思っている」。言うまでもなく余越は、自分のすべてをあけすけに晒すことが、自動的に評価に値するエンターテイメントになるなど到底思っていないだろう。むしろそうした「ナイーヴな自己表現」に辛辣な批評眼を向けてきた表現者だからこそ、挑発の意味も込めてパフォーマーを介してこうした言葉を観客に投げかけているのだ。余越はこう言っているようにさえ思える。なぜ男性はわりと無条件に自己解放的な表現を志向することができて、女性は異性と折り合いをつけるための最低限の社会規律を学んだあとの「解放」を演じなければならないのか、と。
余越は「自分を晒す」と言ったときの主語が、多くの場合は女性であることにも、もちろん気付いている。だからこそ女性が自分を晒すことではじめて(男性のための)エンターテイメントになるという「負のアイデンティティの再生産」にも批評的な目を向けていく。このジェンダー・パフォーマンスへの批評的視座は、映画『スイート・チャリティ』の『Rich Man’s Frug』の音楽を採用した場面でもっとも端的に表現される。衆人環視の沈黙のなか、上半身に羽織、下半身に網タイツという、大胆な装いの女性ダンサー(上野愛実)が登場する。そして歪曲された艶めかしさで花道を練り歩くことで、いかに女性の「大胆さ」が男性的視座に則した、他者の視線で演出されてきたかを可視化してみせる。なお米国娯楽産業に関与する人間であれば、この音楽を聴けば半ば自動的にボブ・フォッシーのセクシーなショー・ダンスを思い浮かべる。リトル・ブラック・ドレスに身を包んだ美女たちと、ブラックスーツを完璧に着こなす美男子たちの一糸乱れぬあでやかな群舞。だがこの「セクシーさ」の概念を生みだしたのは、他でもないフォッシーという破格の女性遍歴を持つマッチョな男性振付家である。こうしたジェンダーの生成過程に対して自覚的だからこそ、余越の振付ける女性たちからは、単なるセクシーさというよりも、「セクシーに振る舞おうと無理をする女性の喜劇性」が前景化してくる。
これは後半で砂山典子が踊るバーレスク・ダンスの場面にも同じことが言える。巨大な羽根でトップレスの身体を隠して焦らしながら観客を魅了するというダンスを、砂山はここで踊ってみせるが、その踊りからは一切の淫靡さが排除されている。つまり第一に出石永楽館がバーレスクの劇場ではないこと、またこれと関連して、第二に、観客が女体を鑑賞するために集まっていないことにより、演出効果としては固唾を呑むような没入感というより、醒めた目でカラダを批評する異化効果が生まれてくるのだ。そして言うまでもなく異化効果は、悲劇よりも喜劇との相性がよい。このドラマトゥルギーを熟知しているからこそ余越は、バレエの『ジゼル』から長唄の『道成寺』まで、いわゆる東西舞踊史における悲劇と呼ばれる演目さえも軽やかに客体化し、女性性のジェンダーと結びつけられることの多い「堪え忍ぶ悲劇の呪縛」から女性を解放していく。
この女性の解放性をもっともクリアに表現してみせるのは、米国人ヴォーカリストのゲルシー・ベルである。ブロードウエイ作品から実験音楽、さらには杵屋三七郎のもとで研鑽を積んだ長唄さえもレパートリーの射程に入れる彼女は、本作終盤で堂々たる独唱を披露する。それは長唄とオペラのちょうど中間地点にあるような歌唱であり、ときにその声は出囃子として演者を下支えする日本伝統芸能の自己滅私的な旋律となり、ときに個人の感情を爆発させて歌いあげる西洋的伝統の自己解放的なアリアとなる。そして表現が後者に大きく傾いたとき、出石永楽館という明治から大正時代にかけて歌舞伎興行で賑わってきた劇場が、突如、オペラ劇場のごとき文化資本的を持つ雰囲気を纏いはじめる。より具体的に言うならば、大向こうから観客が声をかけることで場が成立する歌舞伎の民主的構造から、舞台に立つ選ばれし個人とその他大勢の観客が真っ二つに分断されたオペラの権力構造へと、劇場に漂う「雰囲気の美学」が変わっていくのだ。そしてまたこの雰囲気の変化を敏感に察知した観客は、舞台上にいる超絶的な個人を崇めるというドラマトゥルギーが、いかに西洋近代ゆかりのものであるかを改めて認識していく。さらに簡潔にまとめるなら、ベルが舞台上にいるときだけ劇場に中心点が生まれるのだ。
神から解放された出雲阿国、男性から解放された西洋白人女性――それら事例と比較するなら、間違いなくコンテンポラリー・ダンスに従事する日本人女性は未だ社会的規律に捕らわれている。その不都合な真実を、余越は出石永楽館という、歌舞伎興行の際には男性しか立つことが許されてこなかったニッポンの芝居小屋に日本人女性を置くことではっきりと浮き彫りにしてみせる。なぜヒールを履いた日本人女性ダンサーが花道に向けてジュテをすると、観客はヒヤリとするのか。なぜ自由の免罪符を得ているはずのコンテンポラリー・ダンス作品においてさえ、日本人女性が芝居小屋でジャンプをすると冒瀆的という感情が生まれてくるのか。これに対して、西洋白人女性が裸足で芝居小屋に立ち独唱をなすことに対しては、我々がわりと寛容でいられるのはなぜなのか。個々の場面を貫くナレーションがないため、主流文化の眼でしか世界を眺めたことがない人間に本作がどれほど丁寧に届けられたかはわからない。だがアウトサイダーとしての疎外感を少しでも感じたことのある人間なら、バーレスク・ダンサーからセックス・ワーカーから西洋に渡った日本人振付家まで、周縁に立つ女性たちが、どれほど理不尽に他者のまなざしのなかで歪んだアイデンティティをまとわされてきたかを明示化するのが本作の主眼であることがわかるだろう。山姥は、みずから山姥と名のるのではない。他者にそう「呼びかけ」られて(ルイ・アルチュセールが言うように)、はじめて山姥としての自分を自覚する。その文化重層的な差別のなかで生きのびねばならない「山姥たち」のアイデンティティの悲喜劇を、余越は告発的にも啓蒙的にもならないかたちで、愛おしく軽やかに描きだしてみせた。
岩城京子
演劇パフォーマンス学研究者。2001年から日欧現代演劇を専門とするジャーナリストとして世界29カ国で取材活動を行い、朝日新聞などに寄稿。2011年よりアカデミズムに転向。ロンドン大学ゴールドスミスで博士号(演劇学)を修め、同校にて教鞭を執る。専門は日欧近現代演劇史。及び、哲学、社会学、パフォーマンス学、ポストコロニアル理論、などに広がる演劇応用理論。単著に『日本演劇現在形』(フィルムアート社)等。共著に『Fukushima and Arts – Negotiating Nuclear Disaster』(Routledge)、『A History of Japanese Theatre』(ケンブリッジ大学出版)など。2017年に博士号取得後、アジアン·カルチュラル·カウンシルの助成を得て、ニューヨーク市立大学大学院シーガルセンター客員研究員。2018年四月より早稲田大学文学学術院所属 日本学術振興会特別研究員(PD)。