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小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』ワークインプログレス photo by bozzo

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』ワークインプログレス レビュー
「アメーバ化する舞台と身体」
山田淳也

2023.10.5

2023年7月19日(水)~8月7日(月)の約3週間、KIACで滞在制作を行った、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』
滞在期間中には、2度のオープンリハーサルと、ワークインプログレスを実施し、その創作プロセスを共有しました。
芸術文化観光専門職大学の山田淳也さん(2年生/2023年度現在)によるワークインプログレスのレビューを掲載します。
舞台とは、演劇やダンスや音楽など舞台芸術が演じられる場である、と多くの人は考えているだろう。というか、それが舞台の存在する理由だとすら思ってしまう。しかし、舞台もなんてことない一つの空間であり、役割以前に、どうしようもなくそこにあってしまうものだ。あくまで私達が、演じられる場である、あって欲しいと願い、ある空間を捉えることで舞台は「舞台」としてここにある。それは、ある空間に言葉(意味の制度)を紐づけして、侵入するような行為といえるだろう。

スペースノットブランクの『言葉とシェイクスピアの鳥(ワークインプログレス)』は、舞台において前提とされている言葉(意味)に侵入していく上演だった。侵入したからといって、なにか特定の意味に染めてしまったりすることはない。なぜなら、ここにいる人々がそれぞれに侵入し合いまくるからだ。だから、観客は今自分が何をみているのかわからなくなる。観るための制度も、客席に座っているための制度も自明のものではなくされてしまい、観客の体は宙吊りにされる。「観る」以外の行為への可能性も殺せないなかで、多くの観客は「あえて観る」という時間を暗黙のうちに選択する。あえて観ていると、観客は自分の思考をすこしずつ舞台に侵入させていく。これはこういう意味かもしれない、今、意味を共有できたかもしれない、というような仕方での侵入。私は観ていて、日本庭園、または複数の神を祀っている神社の集合をみている感覚になった。また、微生物の世界をみているようでもあった。
観客席にはこのように勝手に観る観客がいる。舞台には出演者がいる。演出家もいる。その関係性や、彼らに流れた(流れている)時間もそこにある。舞台と観客席にある、あらゆる「意味」を侵入可能なものとして扱うことで、ある特定のイデオロギーに染め上げられ、失われてきた意味の可能性が、透明な可能性のままに浮き上がってくる。それは逆張り的な、「このルールに抗いたい!」という前衛の時代が目指した、意味への「抵抗」とは大きく違う。もっと、しれっとした態度である。「お邪魔する」みたいな感じかもしれない。「すみません、おねがいします。」という言葉が劇中度々出てくるが、まさにそんな感じで、舞台という言葉(制度)に、彼らはお邪魔する。

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』ワークインプログレス photo by bozzo

観客が入ってくると、演出家の二人はそれを迎え入れる。みんな座ると出演者の大石英史が「すみません、おねがいします。」といって、一人ずつ観客と同じ出入り口から入ってくる。舞台の手前、観客席と舞台の間のスペースに、長机が置かれていて、そこに小道具や飲み物がある控室のようなエリアがある。最初、演者の多くはそこにすわっている。大石英史が彼らを舞台上に上げる役割のようで、「こっち(舞台に見えるスペース)に上がって、また帰ってください。そしたらこの時間は終わります」、という旨のことを話し、他の演者たちに、こっち(舞台に見えるスペース)に上がるようにお願いをする。
この、なぜ舞台に上がるのか、それをだれが喚起し、どうやって舞台に上がるに至るか、というプロセスは、演劇作品をつくるとき、本当はどんな作品でもあることなのだが、舞台に上がるからには自明のものであるとされてしまって見えなくなってしまうプロセスの一つだ。それをこのような形で現前するということに、初っ端から驚かされる。このシーンによって、この舞台に流れる時間は、いわゆる劇的な意味での「劇」を前提としないものになって、ただ、私達は互いに存在しあっている、という当たり前のことから始まる、なんてことのない時間だということを共有する。その、なんてことのない時間の中で私は、何者にも染められていないからこそ逆説的に「劇」とはなにかを、見出そうと努力する。
私は、舞台、観客席も含めて、複数の人間になんらかの意味が共通して見出されたとき、「劇」を感じた。それは、侵入されあってまとまった意味にならない舞台上に時々訪れる、くすっと笑えるシーンだったり、同時多発的なアクションが起こって、それがリンクしている、もしくは何らかの意味に取れるかもしれないという希望を示されたような時だ。その時、観客席も、舞台と同じまとまりの中に入っていく。そこに、一瞬だけ集団ができたように感じた。
 
ただ、このような感想がかけるのは、私が今回のクリエーションのプロセスを共有していたことも大きいように思う。今回の滞在では二度ほどオープンリハーサルが行われていて、それをみた上で今回のワークインプログレスをみているのだ(正確には、はじめの一回目に来ている)。そこで行われていたのが、「質問」というプロセスであり、これは演出家(今回は出演者たちもアイデアを出していたようだ)の出した質問に対して、出演者が応えるようにしてシーン、もしくは聞き書きのためのことばをマイクの前で話していき、それをリアルタイムで文字起こししていく。本番で使われているテキストは、基本的にこの聞き書きのときに作られたものが使われている。なので、「質問」というプロセスを観てからこの上演をみた私には、そのプロセスの時間、何が起こってきたのかが蓄積され、それらが相互に関係し合った末の結果をみている感覚でワークインプログレスを観ることができた。上演をみている最中に、この動作の、この言葉の生まれる瞬間をともにした経験が蘇る。もちろんそのときと同じことが起こっているわけではない。同じ言葉でも、繰り返すたびに、その時の自分の身体の状況によって意味は変わるからだ。また、舞台の上でその動作、言葉は、他の動作との配置の関係、また、演出家や他の演者からの侵入によって意味の変更をしていかざるを得ないのだ。言葉の一つが、他の人の語りや、観客へ届き侵入して意味を変容させたり、固定させないようにしている。だからなのか、アメーバのようにたがいに浸透可能な微生物の世界をみているような気分になってくるのだ。

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』ワークインプログレス photo by bozzo

ここで、スペースノットブランクの活動のうち、ダンスを創作することと演劇を創作することの共通点と相違点をみてみたい。なぜなら、彼らが今回の作品に於いて、彼らのダンス作品創作の領域で進行しつつあることを、演劇の作品創作の領域でも進行させようとしているからだ。進行しつつあること、というのは「クリエーションの自動化」だ。
彼らのダンスにも演劇にも通底する、特筆すべき共通点はこの「クリエーションの自動化」である。私は芸術文化観光専門職大学という大学の学生なのだが、彼らとは授業を通じてその方法を教えてもらったことがある。その時は主にダンスの方法についてだったのだが、共通しているのは、人間の身体の限界や、コミュニケーションという非常に現実的で無理のない、ほとんど誰でも当たり前にやっている行為を方法化し、それをもとに、ダンスや劇が集まりの中で、ほぼ自動的に生まれる仕組みを創作しているということだ。そのWSも、一日ごとのワークに仕掛けがあり、それらのプロセスが最終的にいつの間にか作品になっているという内容だった。彼らは、「トレース」「おしゃべり(一対複数であり、複数対複数のような平行線をたどるコミュニケーション)」「自己紹介」「入れ替え、組み換え」のようないくつかの、これをやれば面白くなる、というコミュニケーションや身体のあり方をずらすための技を持っており、これらをもとに編集作業をしているようだ。実感として面白いのは、私達がただ遊びのようなワークをしているだけで、いつの間にか作品が出来上がっていたことだった。さあクリエーションするぞ! というスイッチの入らぬままに、いつの間にか作っている。作ると遊ぶとおしゃべりとの境目がみえない。ここに彼らの面白さの核があるのではないかと思う。
だが、ここで、大きくダンスと演劇で異なる点がある。それは、「劇」の定義の難しさだ。ダンスは、人間の身体の動きが伴っていることであれば比較的になんでもダンスとしてカウントできてしまう。しかし、劇は素材が不確かで、なにが劇を劇たらしめるのかは作家の作為に委ねられることも多い。今回の試演会では、そこが見る人によってはあまりに投げ出されたと感じた人もいるのではないだろうか。演劇の難しさの大半は、この定義の曖昧さからくるものなのだ。

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『言葉とシェイクスピアの鳥』ワークインプログレス photo by bozzo

この課題に対する彼らの応答は、おそらくだが、彼らが設定する質問のチョイスにある。彼らが出演者と交わした「質問」というクリエーション方法での質問の選択仕方は、「何が劇か」ということについて、「何が劇か」という中心的な問いから入っていかないやり方で、どうしたら劇が自動で生まれてくるか、という観点から選ばれているのではないだろうか。例えば、「自己申告よりゆるやかな主張」という質問があるが、これを解釈して回答していく出演者たちからは、それぞれ異なった反応が現れつつ、それが何らかの奥行きのようなものでリンクする瞬間がある。奥行きと言ったのは、そのアクションから、その人の生活や人格のようなものが少しすけて見えるような時間のことだ。そこに、時間が絡み合いつつ、ある瞬間に何らかの「意味」で複数の時間がリンクする。そこに、私が感じた「劇」が現れる。それが「集団の言葉」が生まれる瞬間=「劇」なのかもしれない。このような、周辺から中心を観察するためのアタリのような質問が選ばれ、そして「何が劇か」を観察するというプロセスを喚起する。観察は演出家だけがするのではなく、出演者も観客もする。観察で見出した意味を、私達は侵入させ合っていく。
これは私の観察の結果だ。上演の時間も、上演じゃない時間も、そこでなにが起こり、観客はどう意味に侵入して、集団になっては別れていったか。そういったことを演出家も出演者たちも観察しながら、これから作品は出来上がっていくのだろう。そしてこれはさっきから繰り返し書いているように、観客も参加しているプロセスだ。私も、今書いているこの文章で、この劇に、出演者たちの人生に、これを読むあなたの人生に侵入してしまっているのだから、これは逃れられない。ただ鑑賞するだけではなく、いつの間にか干渉してしまっている言葉の侵入に、劇場の外で時たま思いをはせる。あの作品どうなったかな、とか、あの出演者たちどうなったかな、とか考えることも作品への侵入になってしまう。これが、SNSが発達した現代の言葉のあり方で、私達の生のあり方である気がしてくる。そういう意味でも、今回の作品は日常と地続きなコミュニケーションや私達の身体、という素材にこだわる彼らが到達し得た奇妙で把握不能なクリエーション/作品/言葉だと言える。


山田淳也
集団ばく 戯曲 演出。物書き活動も。
既存の演出や戯曲の機能を別の可能性に転用する創作を続けている。演劇や芸術を相対化するためのことばを作るべく、集団がことばをつくりなおすための上演「 」(カギカッコ)という作品群を作ったり、他者として信じ合うことをベースとした集団創作の方法を創作し、実践している。
最近は、多様な人と過程を共有しながら、別の可能性に繋がっていく場としての上演群と、その集合としての作品を作るプロジェクト「トニョーカ演劇祭」を実験中。
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