ARTICLES記事
お寿司『結婚式』 ご出席・ご欠席・ワークインプログレス 試演会 ©manami tanaka
お寿司『結婚式』 ご出席・ご欠席・ワークインプログレス 試演会 レビュー
井原麗奈
2023.10.19
2023年6月14日(水)~7月10日(月)の約4週間、KIACで滞在制作を行った、南野詩恵/お寿司『結婚式』 ご出席 ・ ご欠席 ・ ワークインプログレス
滞在期間中には、12回の参列型稽古と3回の試演会を実施するなど、その創作プロセスを公開し、交流を行いました。
芸術文化観光専門職大学の助教・井原麗奈さんによる試演会のレビューを掲載します。
滞在期間中には、12回の参列型稽古と3回の試演会を実施するなど、その創作プロセスを公開し、交流を行いました。
芸術文化観光専門職大学の助教・井原麗奈さんによる試演会のレビューを掲載します。
「1年で約3,000組の結婚式、披露宴の対応をしていたんですよ」
試演会を鑑賞しながら、数日前に軽井沢の某有名ホテルに勤務していたという知人から聞いた話を思い出した。つい職業的な悪い癖で「365日、1日8組程度、例えば2会場で1日を3時間で4区分(午前・午後の前半・午後の後半・夜間)に分けて運営していけば、対応できなくもないな」と想像しながら聞いていたが、話はそう単純ではないらしい。六曜の都合もあって、予約は大安・友引に集中したり、仏滅は少なかったりする。
「一方通行、押し出し式です」と彼は言う。
受付→待合→結婚式場→披露宴会場とお客様を次第によって移動させて押し流していけば、1日8組以上の対応も不可能ではないらしい。そのためには時間管理とフォーマット=「型」の存在が重要である。そのフォーマット=「型」を揶揄するかのように演劇作品にしてしまったのが、このお寿司の『結婚式』ご出席・ご欠席のワークインプログレス(参加型稽古)を通じた試演会だった。
作品は結婚披露宴に列席したことがあれば誰もが知っている「型」通りに、司会者によって進行していく。披露宴なら自分も参列した経験があるのだから、適当にその場に応じた振る舞いをしておけば「安心感」が得られるはずなのに、どうも落ち着かない。受付でウェルカムドリンクを手渡されながら「本日はおめでとうございます。積極的に参加された方がより楽しめますが、いかがですか?」と尋ねられ、思わず「はい」と答えて胸に花を付けられてしまったからだ。披露宴会場に入ると「積極的な参列者席」に案内された。おとなしい客振りで座っていると、司会者から式の進行に応じてあれこれと指示が飛んでくる。親族紹介で名前を呼ばれたら「はい」と答えてください、仮面を付けて踊ってください、コーラス(早口言葉/ラップ)をお願いします、ケーキ入刀の際のお手伝いを・・・等々。言われるままに応じているうちに、あっという間にお開きになってしまった。ベルトコンベアに乗せられているかのような感覚と、状況に合わせて能動性を促されつつも全体を第三者に統括されている感覚が「ブライダル産業の定石」の再現によって想起されて滑稽だった。「ここで笑え」「ここで泣け」とその会場にいる人の中で、最も新郎新婦と縁が薄いと思われる「雇われ司会者」の勝手な仕切りによって、私たちは感情までもコントロールされているのだなと感じざるを得なかった。
お寿司『結婚式』 ご出席・ご欠席・ワークインプログレス 試演会 ©manami tanaka
しかし、ただ滑稽なだけで終わらないのが、この作品の魅力と意義である。基底には『ロミオとジュリエット』を翻案した脚本があり、400年以上前の戯曲を通じて、現代の婚姻制度に対する鋭い問いかけがなされていた。披露宴会場の高砂に座る新郎はパリス、新婦はジュリエットで、親族席の代表はジュリエットの父・キャピュレット公である。彼は本作品の主役と言っても過言ではない。いずれの役も全12回の参列型稽古を通じて選ばれた市民が演じた。ジュリエットの母と乳母役は当日参列者の中から選ばれ、ロレンス神父はデジタル画像でモニターに映し出された。そして肝心のロミオはアニメ的なキャラクターの姿として描写され、紙に印刷されて板に貼られ、二次元のイデアとして登場した。生身の存在ではなく、台詞は抑揚の無い自動音声で再生される。
この「半裸の男の四角いパネル」がロミオの表象であることをきっかけに、私は現代日本が抱える「皇統の維持」という深刻な問題の一つの解決方法を思い浮かべた。皇室の存続が危機的であるにもかかわらず、政治家も国民もこの問題への関心が高いとは言えない。女性宮家を創設し、子どもに皇位継承権を与え、女性・女系天皇を認めるくらい抜本的な改革をしなければ、現状ではこの問題を乗り越えることはできないはずだが、具体的な動きは見られない。多くの国民にとって「他人事」であり自分自身の問題にはなり得ないことが大きな原因だろう。しかしこれは次世代を担う皇族に対してあまりにも非人間的な対応である。
日本人は天皇家に倣うのが好きである。ランドセル、お雛様の並べ方、ウェディングドレス、神前結婚式等、日常の文化を思い起こせば枚挙にいとまがない。しかし「倣う」だけでなく、理想を皇族に押しつけてもいる。結婚に対する理想も、小室眞子さんへのバッシングに色濃く反映されていたように思う。この時ばかりは大勢の国民が納税者としての権利意識からか、理想とする基準を保つことを第一義として主張し、当人たちが幸せかどうかは二の次だった。キャピュレット公が自分の血を残すことに躍起になり、ジュリエットの気持ちには無関心な姿と重なる。
さてこの問題の「半裸の男の四角いパネル」だが、これは私に生身の人間で皇統を維持することを諦めるという選択肢を想起させた。未婚の皇族の皆さんには、異世界のバーチャル・アイドルなどと結婚したことにしていただき、その空想を公式的に採用する。公務もそのバーチャルな存在にこなしていただいて、生身の人間の方はプライベートを大切にしながらひっそりと自由に生きていただく。そうすることで束縛から解放できないだろうかと思い至った。誠に失礼な発想ではあるのだが、国民の「非人間的な対応」に「非人間的なイデア」で応じることによって、皇族の皆さんへの「人間的な対応」に還元できないだろうか。いつかデジタル・ネイティブが国民の大多数を占め、国民の総意がその方向に向かえば、可能なのではなかろうかと淡い期待を抱く。もともと記紀神話から始まったとされている一族なのだから、いつかまた誰もが納得する形でバーチャルな物語の世界に還すことは不自然ではないだろう。「新たな天皇家の物語」を派生的に創作するのである。神武天皇のような架空のキャラクターが生み出される可能性もあるだろう。『源氏物語』のような作品が生み出される可能性も否定できない。日本人は藤壺と光源氏の不倫によって生まれた子どもが天皇になる物語を、インテリジェンスな王朝文学として愛し続けてきた。日本文化はこの不敬なフィクションを千年以上も受容し、守り続けた文化であり、また二次創作に寛容な文化でもある(この試演会すら翻案という二次創作である)。「新たな天皇家の物語」を創作することが一般化すれば、国民は皇統の維持を女性皇族へのバッシングではない方法で、自分自身の問題として引きつけるようになるのではなかろうか。これは天皇制の廃止ではなく埋葬であり、皇族の人権復活であり、そして今回のこの作品は、その合意形成の始まりのようにも思えた。
お寿司『結婚式』 ご出席・ご欠席・ワークインプログレス 試演会 ©manami tanaka
一方、この作品ではもう一人、生身の存在として登場する人物がいる。ジュリエットの従兄弟のティボルトだ。原作ではロミオによって殺されるが、ここではケーキ入刀およびファーストバイトとティボルトの殺害が重ね合わせて表現されていた。一族の血が流されたというのに、披露宴は相変わらず司会者のリズミカルな進行と快活なBGMにより、華やいだムードを保ち続ける。しかしここから物語は言わずと知れた悲劇に向かわねばならない。作品の山場は新婦のお色直しであるが、再入場したジュリエットはアメリカンフットボールの防具を思わせる白いウェディングドレスを身に付け、仮死状態のまま台車で高砂に運ばれる。純白のウェディングドレスには「清楚さ」「清純さ」「無垢さ」という意味が込められていると言われるが、「戦い」や「闘争」をイメージさせるそのデザインには「我慢」「忍耐」が象徴されているようにも見える。ジュリエットは何に耐えているのだろうか。祈りのポーズで目を瞑るジュリエットをよそに、ゲストとキャピュレット公による余興が繰り広げられる。往年の定番曲、吉田拓郎の『結婚しようよ』とチェリッシュの『てんとう虫のサンバ』が次々と披露され、会場は盛り上がり、宴は次第通りにクライマックスに向かって突き進んでいく。
「形式はそんなにも大切なのであろうか」手を合わせるジュリエットの姿からはそんな問いかけが聞こえてくるかのようであった。一般的に日本では、結婚式、披露宴を行うことが目的化され、その後に続く生活の方がより重要であるとは強調されない。一方、ヨーロッパ人の友人たちの中には、結婚式、披露宴どころか、入籍もしない人々も多いが、幸せな家族としてのかたちは本人たちの努力によって維持されている。8歳と6歳の子どもを持つ知人夫婦は昨夏「私たち、先月結婚したの」と報告してくれた。共に過ごす中であらゆるポイントを確かめ合って、納得したから「入籍」を選択したのであって、彼らにとってはそれがベストなタイミングだったのだろう。それで良いのである。逆に入籍しない人たちの言い分は「子どもたちが育って、家を離れた後に、二人で一緒に暮らし続けるかはわからないから」ということで、誠に合理的である。「熟年離婚」という概念すらそこには存在しない。彼らのような、いわゆる「事実婚(内縁関係、生活共同体)」であっても、親権は両親が行使できる点も硬直した日本の制度とは異なる(離婚後の共同親権については2023年8月29日に法務局が導入案を示したが)。少子化対策として本当に着手しなければならないのは、婚活支援やバラマキ型の子育て支援ではなく、婚姻制度の息苦しさからの解放であろう。日本社会は結婚と出産をセットにして考えすぎている。昨年出産し、入籍した元ゼミ生が「ちょっと順番が逆になってしまって、世間や親に申し訳ないです」と報告してきたので「少子化に抗ったのだから堂々としていなさい!非難される筋合いは全くないのだから」と説教したが、若い人でも出産したら入籍しなければならないと考えている(=世間からの押し付けを受け入れている、若しくは、他にも選択肢があることに気づいていない)ことに少し唖然とした。婚姻は夫婦の関係性の問題であって、そこに出産や子どもを介入させない現代のヨーロッパ人たちの偉容を見習いたい。
お寿司『結婚式』 ご出席・ご欠席・ワークインプログレス 試演会 ©manami tanaka
一方で結婚式、披露宴を終えた日本人の友人たちが口を揃えて言うのは「準備が大変だった」である。「なぜそんなに大変な想いをしてまで挙式するのか」と尋ねると「親や親戚、友人を喜ばせたいから」だと答える。しかし周囲のかけるプレッシャーに素直に応えようとすればするほど、新郎新婦の首は締まっていく。「こうあるべき」という思い込みとエゴが形式主義を助長しているのかもしれない。当人たちの「喜ばせたい」「楽しませたい」という純粋で素直な「もてなしの心」こそが、結婚式、披露宴の本質かもしれないが、それは周囲の口出しによってストレスに変換されていく。しかし後悔が頭をよぎったその時には、あらゆることが既に決まっていて後戻りできない。周囲にとっては「後戻りさせない」こと、盲目的に「法律婚」に突き進ませることこそが、結婚の真の目的なのだ。自分たちが経験した「我慢」を次世代や友人たちにも味わわせたいのである。そして、それに耐えることこそが真の大人への通過儀礼であり、幸せはその先にしかないかのように語る。
しかし改めて考えてみると、日本の婚姻制度は改善の余地が多く、捉え方についても多様性が必要である。「法律婚」以外に「事実婚(内縁関係、生活共同体)」という選択肢もあって、自分たちのライフスタイルに合わせて選べるということが、もっと一般化することを願う。さらにフランスのように「民事連帯契約(P.A.C.S.)」も制度として可能になれば異性だけでなく同性のカップルも「幸せ」になる選択肢が増える。忍耐の押しつけによるルサンチマンの再生産ばかりをするのではなく、皆で立ち止まって考えてみることも必要だろう(立ち止まるのは多くの場合「離婚」が頭をよぎった時だけれど)。
ところで、この試演会では披露宴会場に入ると一番先に「草 ビュッフェ」を勧められる。参列者は入口のブースにてんこ盛りにされた「新婦の母が朝一番に手ずから摘んだ「その辺 の草 」」を好きなだけ取って、自分のテーブルに持って行き、装花とする。見た目に美しい色味のある花はひとつも入っていない。ただ新しい畳の、イグサのような良い香りが漂っていた。そこでふとあのジュリエットの台詞を思い出す。
「薔薇は薔薇とよばれなくともその香りは同じ」
ロミオがモンタギューという名ではなくとも同じ立派な男のはずだと嘆くその台詞には、名前に付随した家柄というレッテルを剥がしてもその本質は変わらないというシェークスピアのメッセージが込められている。時代や国を越えて大切なことが何かを教えてくれる台詞である。
作品の最後は「半裸の男の四角いパネル」と自死を選んだジュリエットの像が高砂に並べられ、「二人の新たな旅立ち」を祝う記念撮影で締め括られた。ここまできてようやく、結婚式は葬式だったのだ、披露宴は告別式だったのだ、ウェディングドレスは死装束だったのだと気づいた。キャピュレット公だけは、ひとり謡曲「高砂」を謡いながら会場を去っていった。夫婦の和合と長寿を願うこの曲によって、作品の全てが昇華されていた。
お寿司『結婚式』 ご出席・ご欠席・ワークインプログレス 試演会 ©manami tanaka
試演会を鑑賞しながら、数日前に軽井沢の某有名ホテルに勤務していたという知人から聞いた話を思い出した。つい職業的な悪い癖で「365日、1日8組程度、例えば2会場で1日を3時間で4区分(午前・午後の前半・午後の後半・夜間)に分けて運営していけば、対応できなくもないな」と想像しながら聞いていたが、話はそう単純ではないらしい。六曜の都合もあって、予約は大安・友引に集中したり、仏滅は少なかったりする。
「一方通行、押し出し式です」と彼は言う。
受付→待合→結婚式場→披露宴会場とお客様を次第によって移動させて押し流していけば、1日8組以上の対応も不可能ではないらしい。そのためには時間管理とフォーマット=「型」の存在が重要である。そのフォーマット=「型」を揶揄するかのように演劇作品にしてしまったのが、このお寿司の『結婚式』ご出席・ご欠席のワークインプログレス(参加型稽古)を通じた試演会だった。
作品は結婚披露宴に列席したことがあれば誰もが知っている「型」通りに、司会者によって進行していく。披露宴なら自分も参列した経験があるのだから、適当にその場に応じた振る舞いをしておけば「安心感」が得られるはずなのに、どうも落ち着かない。受付でウェルカムドリンクを手渡されながら「本日はおめでとうございます。積極的に参加された方がより楽しめますが、いかがですか?」と尋ねられ、思わず「はい」と答えて胸に花を付けられてしまったからだ。披露宴会場に入ると「積極的な参列者席」に案内された。おとなしい客振りで座っていると、司会者から式の進行に応じてあれこれと指示が飛んでくる。親族紹介で名前を呼ばれたら「はい」と答えてください、仮面を付けて踊ってください、コーラス(早口言葉/ラップ)をお願いします、ケーキ入刀の際のお手伝いを・・・等々。言われるままに応じているうちに、あっという間にお開きになってしまった。ベルトコンベアに乗せられているかのような感覚と、状況に合わせて能動性を促されつつも全体を第三者に統括されている感覚が「ブライダル産業の定石」の再現によって想起されて滑稽だった。「ここで笑え」「ここで泣け」とその会場にいる人の中で、最も新郎新婦と縁が薄いと思われる「雇われ司会者」の勝手な仕切りによって、私たちは感情までもコントロールされているのだなと感じざるを得なかった。
しかし、ただ滑稽なだけで終わらないのが、この作品の魅力と意義である。基底には『ロミオとジュリエット』を翻案した脚本があり、400年以上前の戯曲を通じて、現代の婚姻制度に対する鋭い問いかけがなされていた。披露宴会場の高砂に座る新郎はパリス、新婦はジュリエットで、親族席の代表はジュリエットの父・キャピュレット公である。彼は本作品の主役と言っても過言ではない。いずれの役も全12回の参列型稽古を通じて選ばれた市民が演じた。ジュリエットの母と乳母役は当日参列者の中から選ばれ、ロレンス神父はデジタル画像でモニターに映し出された。そして肝心のロミオはアニメ的なキャラクターの姿として描写され、紙に印刷されて板に貼られ、二次元のイデアとして登場した。生身の存在ではなく、台詞は抑揚の無い自動音声で再生される。
この「半裸の男の四角いパネル」がロミオの表象であることをきっかけに、私は現代日本が抱える「皇統の維持」という深刻な問題の一つの解決方法を思い浮かべた。皇室の存続が危機的であるにもかかわらず、政治家も国民もこの問題への関心が高いとは言えない。女性宮家を創設し、子どもに皇位継承権を与え、女性・女系天皇を認めるくらい抜本的な改革をしなければ、現状ではこの問題を乗り越えることはできないはずだが、具体的な動きは見られない。多くの国民にとって「他人事」であり自分自身の問題にはなり得ないことが大きな原因だろう。しかしこれは次世代を担う皇族に対してあまりにも非人間的な対応である。
日本人は天皇家に倣うのが好きである。ランドセル、お雛様の並べ方、ウェディングドレス、神前結婚式等、日常の文化を思い起こせば枚挙にいとまがない。しかし「倣う」だけでなく、理想を皇族に押しつけてもいる。結婚に対する理想も、小室眞子さんへのバッシングに色濃く反映されていたように思う。この時ばかりは大勢の国民が納税者としての権利意識からか、理想とする基準を保つことを第一義として主張し、当人たちが幸せかどうかは二の次だった。キャピュレット公が自分の血を残すことに躍起になり、ジュリエットの気持ちには無関心な姿と重なる。
さてこの問題の「半裸の男の四角いパネル」だが、これは私に生身の人間で皇統を維持することを諦めるという選択肢を想起させた。未婚の皇族の皆さんには、異世界のバーチャル・アイドルなどと結婚したことにしていただき、その空想を公式的に採用する。公務もそのバーチャルな存在にこなしていただいて、生身の人間の方はプライベートを大切にしながらひっそりと自由に生きていただく。そうすることで束縛から解放できないだろうかと思い至った。誠に失礼な発想ではあるのだが、国民の「非人間的な対応」に「非人間的なイデア」で応じることによって、皇族の皆さんへの「人間的な対応」に還元できないだろうか。いつかデジタル・ネイティブが国民の大多数を占め、国民の総意がその方向に向かえば、可能なのではなかろうかと淡い期待を抱く。もともと記紀神話から始まったとされている一族なのだから、いつかまた誰もが納得する形でバーチャルな物語の世界に還すことは不自然ではないだろう。「新たな天皇家の物語」を派生的に創作するのである。神武天皇のような架空のキャラクターが生み出される可能性もあるだろう。『源氏物語』のような作品が生み出される可能性も否定できない。日本人は藤壺と光源氏の不倫によって生まれた子どもが天皇になる物語を、インテリジェンスな王朝文学として愛し続けてきた。日本文化はこの不敬なフィクションを千年以上も受容し、守り続けた文化であり、また二次創作に寛容な文化でもある(この試演会すら翻案という二次創作である)。「新たな天皇家の物語」を創作することが一般化すれば、国民は皇統の維持を女性皇族へのバッシングではない方法で、自分自身の問題として引きつけるようになるのではなかろうか。これは天皇制の廃止ではなく埋葬であり、皇族の人権復活であり、そして今回のこの作品は、その合意形成の始まりのようにも思えた。
一方、この作品ではもう一人、生身の存在として登場する人物がいる。ジュリエットの従兄弟のティボルトだ。原作ではロミオによって殺されるが、ここではケーキ入刀およびファーストバイトとティボルトの殺害が重ね合わせて表現されていた。一族の血が流されたというのに、披露宴は相変わらず司会者のリズミカルな進行と快活なBGMにより、華やいだムードを保ち続ける。しかしここから物語は言わずと知れた悲劇に向かわねばならない。作品の山場は新婦のお色直しであるが、再入場したジュリエットはアメリカンフットボールの防具を思わせる白いウェディングドレスを身に付け、仮死状態のまま台車で高砂に運ばれる。純白のウェディングドレスには「清楚さ」「清純さ」「無垢さ」という意味が込められていると言われるが、「戦い」や「闘争」をイメージさせるそのデザインには「我慢」「忍耐」が象徴されているようにも見える。ジュリエットは何に耐えているのだろうか。祈りのポーズで目を瞑るジュリエットをよそに、ゲストとキャピュレット公による余興が繰り広げられる。往年の定番曲、吉田拓郎の『結婚しようよ』とチェリッシュの『てんとう虫のサンバ』が次々と披露され、会場は盛り上がり、宴は次第通りにクライマックスに向かって突き進んでいく。
「形式はそんなにも大切なのであろうか」手を合わせるジュリエットの姿からはそんな問いかけが聞こえてくるかのようであった。一般的に日本では、結婚式、披露宴を行うことが目的化され、その後に続く生活の方がより重要であるとは強調されない。一方、ヨーロッパ人の友人たちの中には、結婚式、披露宴どころか、入籍もしない人々も多いが、幸せな家族としてのかたちは本人たちの努力によって維持されている。8歳と6歳の子どもを持つ知人夫婦は昨夏「私たち、先月結婚したの」と報告してくれた。共に過ごす中であらゆるポイントを確かめ合って、納得したから「入籍」を選択したのであって、彼らにとってはそれがベストなタイミングだったのだろう。それで良いのである。逆に入籍しない人たちの言い分は「子どもたちが育って、家を離れた後に、二人で一緒に暮らし続けるかはわからないから」ということで、誠に合理的である。「熟年離婚」という概念すらそこには存在しない。彼らのような、いわゆる「事実婚(内縁関係、生活共同体)」であっても、親権は両親が行使できる点も硬直した日本の制度とは異なる(離婚後の共同親権については2023年8月29日に法務局が導入案を示したが)。少子化対策として本当に着手しなければならないのは、婚活支援やバラマキ型の子育て支援ではなく、婚姻制度の息苦しさからの解放であろう。日本社会は結婚と出産をセットにして考えすぎている。昨年出産し、入籍した元ゼミ生が「ちょっと順番が逆になってしまって、世間や親に申し訳ないです」と報告してきたので「少子化に抗ったのだから堂々としていなさい!非難される筋合いは全くないのだから」と説教したが、若い人でも出産したら入籍しなければならないと考えている(=世間からの押し付けを受け入れている、若しくは、他にも選択肢があることに気づいていない)ことに少し唖然とした。婚姻は夫婦の関係性の問題であって、そこに出産や子どもを介入させない現代のヨーロッパ人たちの偉容を見習いたい。
一方で結婚式、披露宴を終えた日本人の友人たちが口を揃えて言うのは「準備が大変だった」である。「なぜそんなに大変な想いをしてまで挙式するのか」と尋ねると「親や親戚、友人を喜ばせたいから」だと答える。しかし周囲のかけるプレッシャーに素直に応えようとすればするほど、新郎新婦の首は締まっていく。「こうあるべき」という思い込みとエゴが形式主義を助長しているのかもしれない。当人たちの「喜ばせたい」「楽しませたい」という純粋で素直な「もてなしの心」こそが、結婚式、披露宴の本質かもしれないが、それは周囲の口出しによってストレスに変換されていく。しかし後悔が頭をよぎったその時には、あらゆることが既に決まっていて後戻りできない。周囲にとっては「後戻りさせない」こと、盲目的に「法律婚」に突き進ませることこそが、結婚の真の目的なのだ。自分たちが経験した「我慢」を次世代や友人たちにも味わわせたいのである。そして、それに耐えることこそが真の大人への通過儀礼であり、幸せはその先にしかないかのように語る。
しかし改めて考えてみると、日本の婚姻制度は改善の余地が多く、捉え方についても多様性が必要である。「法律婚」以外に「事実婚(内縁関係、生活共同体)」という選択肢もあって、自分たちのライフスタイルに合わせて選べるということが、もっと一般化することを願う。さらにフランスのように「民事連帯契約(P.A.C.S.)」も制度として可能になれば異性だけでなく同性のカップルも「幸せ」になる選択肢が増える。忍耐の押しつけによるルサンチマンの再生産ばかりをするのではなく、皆で立ち止まって考えてみることも必要だろう(立ち止まるのは多くの場合「離婚」が頭をよぎった時だけれど)。
ところで、この試演会では披露宴会場に入ると一番先に「
「薔薇は薔薇とよばれなくともその香りは同じ」
ロミオがモンタギューという名ではなくとも同じ立派な男のはずだと嘆くその台詞には、名前に付随した家柄というレッテルを剥がしてもその本質は変わらないというシェークスピアのメッセージが込められている。時代や国を越えて大切なことが何かを教えてくれる台詞である。
作品の最後は「半裸の男の四角いパネル」と自死を選んだジュリエットの像が高砂に並べられ、「二人の新たな旅立ち」を祝う記念撮影で締め括られた。ここまできてようやく、結婚式は葬式だったのだ、披露宴は告別式だったのだ、ウェディングドレスは死装束だったのだと気づいた。キャピュレット公だけは、ひとり謡曲「高砂」を謡いながら会場を去っていった。夫婦の和合と長寿を願うこの曲によって、作品の全てが昇華されていた。
井原麗奈
芸術文化観光専門職大学 助教。近代日本と植民地朝鮮の公会堂の設置経緯、運営方法等の比較から文化施設の歴史的意義や公共性について研究している。京都芸術センターのアートコーディネーター、神戸大学大学院国際文化学研究科地域連携研究員、ピアノ四重奏団アンサンブル・ラロと神戸市室内合奏団(現神戸市室内管弦楽団)のマネージャーとして様々な分野の催事のマネジメントに携わった。神戸女学院大学大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)。静岡大学地域創造学環アート&マネジメントコースの専任教員を経て2021年4月より現職。