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©︎igaki photo studio
アートプロジェクトが地域に起こすこと、残すもの
~美術作家・太田奈緖美の竹野での滞在制作から~【後編】
小島寛大(芸術文化観光専門職大学)
2024.11.10
城崎国際アートセンターでは、3組のアーティストとともに豊岡のさまざまな文化や自然をリサーチし、人々との交流を通して作品創作を行う「KIACコミュニティプログラム」を3年継続プログラムとして実施しています。最終年度の今年は、3組それぞれの視点と手法で捉えた地域の姿を、テキスト・音楽・映像・写真などのメディアとして保存し、共有と活用の可能性を探るべくアーカイブサイトを制作しています。
2025年1月のアーカイブ完成と報告会に先駆けて、芸術文化観光専門職大学の小島寛大氏によるレポートを掲載します。
小島さんには、3つのプロジェクトのうちの一つ、『この家で』滞在制作に関わった7名の地域住民の皆さん、KIACスタッフ、そして美術作家・太田奈緒美へのインタビュー実施をもとに、その過程で起こったことを検証し、記事を執筆いただきました。ぜひご一読ください。
2025年1月のアーカイブ完成と報告会に先駆けて、芸術文化観光専門職大学の小島寛大氏によるレポートを掲載します。
小島さんには、3つのプロジェクトのうちの一つ、『この家で』滞在制作に関わった7名の地域住民の皆さん、KIACスタッフ、そして美術作家・太田奈緒美へのインタビュー実施をもとに、その過程で起こったことを検証し、記事を執筆いただきました。ぜひご一読ください。
(4)太田さんと竹野の出会い~田中邸とブラタケノ運営委員会、文集『万年青』~
時間を少し前に戻して、太田さんと竹野の出会いとプロジェクトの経緯について見ていこう。
太田さんが竹野町を知ったのは2020年である。劇団ノットルとオーストラリアの音楽家マデレイン・フリン & ティム・ハンフリーとの国際共同プロジェクトのために、KIACで滞在制作を行なっている時だった。
このプロジェクトは地方都市における人口減少によって空き家となった「家」に着目したもので、太田さんたちは継続的にこのテーマに取り組んでおり、豊岡でのプロジェクトのために使うことができる空き家を探していた。
K:はじめは空き家のプロジェクトをされようとしていたのですか?
太田:竹野が先にあったわけではなく、「この家で」がはじめにあった。家自体や家族の話に興味があって、そこから始まったんですね。
K:ウェブサイトを見ると、以前に韓国でも空き家に関するプロジェクトをされていますね。
太田:特別な出来事よりも、人々の日常に興味があって。家族の中での出来事とか、生活の中の積み重ねに興味があったので。韓国の時は10年くらい空き家になっている村の中のお家で、どういう人が住んでいたのかお話を聞いて、お供えや儀式などをした上で、その家の各部屋を使った。話を聞いて物語を作っていくということに興味があった。というか、自然とそうなちゃったんです。
2020年7月と10月の2回のリサーチで、KIACと竹野への移住促進に取り組むNPO法人たけのかぞくの紹介により、太田さんは田中邸とブラタケノ運営委員会の方々と出会うことになる。
田中邸外観©︎igaki photo studio
田中邸は、前述した焼杉板の建物群の集落に残る元・船主邸である。明治後期に建てられた木造二階建ての立派な家屋で、囲炉裏を持つ和室や竈門が残る台所や広々とした土間など建てられた当時の状況が残っている。田中邸は、現在、ブラタケノ運営委員会によって、建物の保全とまちづくりの様々な活動の拠点として活用されている。
ブラタケノ運営委員会は、平成23(2011)年に地域の有志メンバーによって作られ、竹野のまちづくりに取り組んでいる団体である。竹野地区の詳細な地図「ブラタケノマップ」作りや、まちあるきイベント、国内外からの観光客を対象とした竹野の観光ガイドなども行っている。田中邸には、代表の青山治重さんらによって収集された竹野の歴史や文化に関する書籍や新聞記事、写真、絵などが、まるで資料館のようにたくさん並べられている。
田中邸とブラタケノ運営委員会の人々との出会いは、大いにインスピレーションを与えたに違いない。2021年2月、太田さん達は田中邸の調査や竹野に住む方々へのインタビューを経て、竹野浜周辺を歩きながら巡るインスタレーション・パフォーマンス、時空間散歩『この家で - 이 집에서<in this house>』(主催:城崎国際アートセンター、共催:ブラタケノ運営委員会)を発表する 。*³
ただし、コロナ禍の渦中にあり、2月の上演では韓国とオーストラリアのアーティストは来日を断念しリモートで創作に参加した。また、9 月に同作品の映像上映とお座敷ミーティングが「豊岡演劇祭 2021」のフリンジプログラムとして予定されていたが、兵庫県に緊急事態宣言が発令されたことで演劇祭そのものが中止となってしまった。
感染症の影響により創作や発表が大きな制約を受けながらも、2022年2月には延期された映像上映会が田中邸で開催された。その場で、太田さんは文集『万年青』と出会う。この文集は昭和52(1977)年から平成16(2004)年まで竹野町公民館より発行されていたもので、竹野に生きた人々が自らの手で綴った様々な言葉が綴られている。竹野の魅力に強く惹かれていた太田さんにとって素材の宝庫に感じられたことだろう。
©︎igaki photo studio
この文集が起点となって、太田さんの竹野での新たなプロジェクトが始まった。この年からKIACが「複数年をかけて、滞在アーティストをはじめとするプロジェクトメンバーが豊岡市を中心とする地域のさまざまな文化や自然をリサーチし、人々との交流をとおして作品創作を行う」というコミュニティプログラムを開始し、太田さんもプロジェクトメンバーの一人として選出された*⁴。2023年2月のKIACのSNSには、次のような投稿がある。
当初、太田さんたちは、私的な創作活動のために空き家を探して竹野を訪れた。そして、竹野の魅力に惹きつけられてその地で作品を発表した。そして、その際の交流がきっかけとなって、文集『万年青』に着目した「竹野のアートプロジェクト」がスタートしたことは、アーティストと地域と公立の文化施設の相互作用が発展的に展開した事例として興味深い。このような展開が可能になるのは、やはりKIACの施設と滞在制作を支援する体制があり、アーティストが滞在して時間をかけて地域と向き合うことができるからだ。アーティストが地域に丁寧に関わることで、眠っていた地域の文化資源の価値を再発見し、創造的に活かし、その土地でしかできないものを創り上げていくことができるという1つの優れた例ではないだろうか。
(5)竹野の「コラボレーター」たち
『この家で』というプロジェクトは、開始当初から地域の方々との関わりの中で進められてきた。その中には、情報や場所の提供などの一般的な協力の範疇を超えて、プロジェクトの一部として深く関わった方々がおられた。ここでは、太田さんが「何をするかまだわからない時からコラボレーターになってくださいってお願いしました」と言うほど当初から重要な存在であった青山治重さんと田村高志さんのお二人について紹介させていただく。
青山治重さん〜『この家で』のために地図を作ったブラタケノ運営委員会代表
青山治重さんは昭和21(1946)年に竹野で生まれ、高校を卒業後は神戸市職員として8年間勤務。その後、竹野に戻り家業であった建設の仕事に60歳まで携わった。その後は5年ほど竹野で遊覧船のガイドを務め、副会長を経て観光協会の会長を7年務めた。
平成23(2011)年にブラタケノ運営委員会を地域の仲間と立ち上げ、現在も田中邸を拠点に様々なまちづくりの活動を行っている。田中邸の入り口の広々とした土間には、青山さんたちが収集した竹野に関する様々な書籍や資料、新聞記事などが整然と誰もが手に取れる状態で並べられており、まるで資料館である。
「以前は、竹野の文化や歴史をあまり知らなかったが、本当はすごいものがある」と、資料の1つ1つを説明してくださる青山さんの口調は、どこまでも優しく穏やかだ。
photo by bozzo
ブラタケノが取り組んできた重要な活動の1つに、竹野の地区ごとの地図「ブラタケノマップ」の製作がある。A4サイズの手書きの温かい風合いの地図に、地域の季節ごとの行事や史跡、小中学校の校歌など様々な地域の情報が掲載されており、地図の作り手たちの町への愛情が感じられる。
竹野の地理、歴史、文化に精通する青山さんは、今でも自らまち歩きやトレッキングの案内役も務めるなど、太田さんにとってプロジェクトの中で欠かすことができない存在だった。
太田:青山さんは本当にすごい方で、何があったとか年号がぽんぽん出てくる。今回のテキストも青山さんに目を通していただき、お電話でお話しした。その中で、キーワードを集めた地図を作られた。今回の語りならべのレスポンスとして、この地図を作成してくださった。一緒に歩んでくださるというか、本当に一緒に作ってくださって、ありがたかったです。
青山さんが作成した地図には、『この家で』の語りの中に登場する様々な場所の位置が、竹野町全図と竹野地区拡大図の中に書き込まれている。この地図があることで、どこかの遠い昔話のようにも聞こえる『この家で』の語りに、竹野で実際にあったことだという重みが加わる。さらに、地図の横には3編(嫁入り、遊び、仕事)の語りの中で登場するキーワード(例えば「おばあのふところ」、「キンカンゴオリ」、「移動スーパー123」など)が、1話につき13個(合計39個)リストアップされている。
青山さんが作成した地図
この地図は、語りの鑑賞を助けるだけでなく、終演後に見返したり、観客同士の会話のきっかけにもなり、とても役立つ。まさにタケノ時空間散歩のためのブラタケノマップが生まれたのだ。
田村高志さん〜竹野の水彩画を描き続ける元・中学校教員
田村高志さんは、昭和28(1953)年に竹野で生まれ、関東で過ごした大学時代に数学の教員資格を取得。数学教員として関西の女子校勤務を経て竹野に戻り、その後30年間、森本中学校と竹野中学校に勤務した。2013年に定年を迎えるまで現場で教鞭を執り続けた田村さんは、数学以外にも美術や体育、特別支援のクラスなど様々な授業と部活動(バレーボール)を担当し、楽しく教員生活をすごしたという。青山さんとは生家が近く、青山さんから誘われてブラタケノ運営委員会に加わり、地図づくりやガイドなどの活動にも参加してきた。現在は、豊岡市竹野地域小中一貫校開設準備委員会の委員や中竹野の地域の活動で多忙な日々を過ごしている。
このように竹野で教育やまちづくりに関わり続けている田村さんには別の2つの顔がある。竹野町在住のサキソフォン奏者としてジャズの演奏活動を行っており、参加しているジャズグループで、自身がリーダーとしてのライブも行うミュージシャンとしての顔。もう1つは、長年、竹野の風景を描き続けてきた画家としての顔である。
©︎igaki photo studio
「タムラ工房*⁵」という田村さんのホームページを訪れると、1996年頃に描かれたものから最近の作品まで様々な絵が短い文章と共に並んでいる。漁港、河口の夕焼け、細い路地裏、職員室から見える風景、限界集落の家屋、教え子が開いた惣菜屋から見る景色・・・。柔らかな線と暖かな色彩の水彩画からは、時代の流れと共に変わりゆく竹野を見つめながら、そこに暮らす時間を慈しむ気持ちが伝わってくる。
ブラタケノのメンバーであり、ミュージシャンや画家として活動してきた田村さんが、『この家で』のプロジェクトに関わることは自然な流れだったのだろう。2021年のインスタレーション・パフォーマンスで路地の水彩画3点をフライヤーのメインビジュアルとして提供し、出演者としてサックスの演奏でパフォーマンスにも参加した。そして、2024年の公演のフライヤーでも、再び田村さんの水彩画「夕暮れ」が大きく使われている。太田さんが『この家で』のプロジェクトで観客に届けようとしたものを田村さんはすでに水彩画に描き出していたのかもしれない。
「夕暮れ」(画:田村高志)/タケノ時空間散歩『この家で』お座敷語りならべチラシ
(6)アーティストの滞在制作が起こしたこと、残したこと
2020年から2024年までの『この家で』の一連のプロジェクトで、太田さんが竹野に通い、滞在して創作を進める中で、竹野ではどのようなことが起こったのか。そして、プロジェクトは地域に何を残したのだろうか。6人の方々にインタビューをさせていただいた中から浮かび上がってきたのは、次の3つである。
1つ目は、前節で見たように、竹野には青山さんや田村さんのように、その土地の素晴らしさを伝える活動や表現を長年にわたって続ける人々がいて、他所から訪れたアーティストである太田さんを迎え入れ、その両者の間に共創的な関係が生まれたことである。
アーティストの側から見れば、二人のような存在は、作品に広がりと深みをもたらしてくれる協力者であり、強力なコラボレーターだ。
一方、青山さんや田村さんの側から見れば、太田さんはふとやってきた人という意味では旅人である。しかし、一般的な観光客とは異なるのは、地域の人々や歴史や文化に深い関心と尊敬の念を持ちながら何度も竹野に通ったことだ。心から竹野のすばらしさを知りたいと願う信頼できるリサーチャーでもあった。また、アーティストとしても、出来上がった作品をただ持ち込んだり、竹野に合わせて自分の作品をアレンジするのでもなく、竹野で出会ったものから何かを作ろうとしていた。だからこそ、地域の人々の関わる余地が大きく残されていた。
青山さんは太田さんのリサーチが「(竹野で)いろんな人から話が出てきた」と丁寧に地域の人々に向き合う姿勢を評価し、アーティストが地域に関わることについて、「自分たちだけではできないことが起こる。地域の人を巻き込んで、溶け込んで、面的に広がっていく。文化や歴史が根付いていくきっかけになるのでは」と言う。また田村さんは「太田さんのような人の目にとまったら、1つの違う文化になっていく」と太田さんへの信頼を口にする。このプロジェクトは、竹野という町の魅力を誰かに手渡したいと願う人たちが出会い、互いに尊敬の念を深めながら、つながり合いながら作り上げていく時間だったのだ。
photo by bozzo
ところで、人のつながりを作るという点で、アートプロジェクトにおいてコーディネーターの役割はとても重要である。地域の人々との出会いをアレンジするだけでなく、見知らぬ土地での日々の生活から移動、取材、創作まであらゆる面でアーティストをサポートする彼らの仕事なくして、滞在制作は成立しない。この原稿ではその仕事について触れることができなかったが、KIACのスタッフ、中でも竹野町出身の與田千菜美さんが重要な役割を果たしたことは、ここに記しておきたい。東京で演劇活動をしていた與田さんにとって、地元に戻りKIACの職員になって初めての仕事が『この家で』だった。太田さんは「與田さんが案内してくれたことで、わけのわからないアーティストという存在が身近になっている気がするんです。コーディネーターというよりチームになってくださいとお願いしたんです」と言う。その仕事ぶりとプロジェクトでの存在の大きさは、ウェブサイトで公開されている太田さんの創作ノート*⁶をお読みいただければお分かりいただけると思う。
photo by bozzo
2つ目に、このプロジェクトは、いま竹野に暮らす人々が忘れられかけていた文集『万年青』と繋がり、町のことを改めて知る貴重な機会でもあった。
竹野で30年間教鞭をとっていた田村さんでさえ「万年青のことは知らなかった。座談会で初めて知ったこともあったし、忘れていたことを思い出した」と言うように、このプロジェクトをきっかけに地域の方々の中にも『万年青』を初めて読んだり、太田さんを通して自分の家族がそこに文章を寄せていたことを知った人もおられたのだ。長年そこに暮らしていても、一世代、二世代前の人々の暮らしや、町の出来事について知らないことが意外と多いものだ。
また、最近になって竹野に移住した人にとっても、『この家で』は地域とのつながりを感じる機会になった。竹野への移住促進に取り組むNPO法人たけのかぞくの理事長(自身も神奈川からの移住者)で小さなお子さんを連れて公演会場に来ていた丹下芙蓉さんは、「これ(『この家で』)には地元の人が来ていて、耳を傾けている。共有している感じがあり、会話が生まれやすい。当時の暮らしを知ることで、年代による考えのちがいは暮らしのちがいから来ていることに納得し、相手の立場の考えるきっかけになった」と言う。
©igaki photo studio
3つ目は、このプロジェクトによって、地域の方々が昔のことを語る時間が増えたということだ。太田さんのリサーチは一方的に情報を収集する機会ではなく、アーティストにとっても話をする地域の方々にとっても、活力を与え合う相互作用的な時間だったと思われる。太田さんは、地域の方々にインタビューした時の体験について、次のように語ってくれた。
太田:映像が浮かぶんですよ、彼女たちと話をしていると。東さんの赤い靴下の話。ダンスパーティで初めて出会った人のお家に後からお邪魔する時に、路地の中で家がわからないので、2階から赤い靴下を吊るしておいてって。あの方々の口から話を聞くと鮮やかに浮かび上がるというか、『万年青』の世界もすごく色づいて鮮やかになった感じがして。実際にそれらの土地を訪れた今、『万年青』を読み返すととても面白いと思う。
同時に、太田さんのインタビューに答える方々の頭の中にも、自分たちの子どもだった時のこと、楽しかった出来事や、苦労しながら乗り越えてきたことなど当時の風景が鮮やかに浮かんでいたことだろう。公演のアフタートークで高齢の観客の方が「昔のことを話して若返った」と話していたように、かつての楽しかったことや苦労話を語ることで、人は元気になったり、癒されたりもする。
一般的に、高齢の方が自分の若かった時の話や数十年も前のこと、いわゆる「昔話」をすることは、どこかネガティブに扱われがちだ。昔のことを話してもと考える人もいれば、迷惑になるだろうと話をしたくても控える人も多いだろう。しかし、今回のプロジェクトではそうではなかった。「昔話」をすることに躊躇う必要はなく、むしろかつての出来事や思い出を鮮やかに語ることがパフォーマンスの創作に貢献し、地域の歴史を甦らせる大切な時間だった。
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田村さんは『この家で』が竹野にもたらしたものについて、「昔のことを思い出す時間を作ってくれた。人間、新しいことばかりじゃなくて、進むだけじゃなくて、時々、誰かと話すことでよみがえらせることって大切。一見役に立たないようなことでも。無駄だと思えることが実は必要で大切なことなんじゃあないかな」と話してくれた。
今回のプロジェクトで多くの地域の方々の話を聞いた太田さんは、「けしてノスタルジアだけではない感じがする。昔は良かったということではなくて。これから先を見るには、このことを知らないとまずいのではないかということはあるんですよね」と言う。昔のことを語ることを後ろ向きなことだと思うのではなく、「これから先」を生きるために必要なことだと捉えてみたら、私たちの暮らしの何かが変わるかもしれない。
多くの町と同じように少子高齢化が進む中、竹野の町では今日も1つ1つの家で暮らしが続いている。そんな「これから先」でこそ、このプロジェクトが竹野に残した大切なものがふと見えてくるのかもしれない。
KIACのコミュニティプログラムとしての『この家で』は、今年度で一度、区切りになるそうだが、よく言われるように、1つの終わりは新しい始まりでもある。太田さんと竹野の人々の関わりはこれからも続いていくだろうし、その中からきっと何か面白いものが生まれてくるだろう。その知らせを楽しみに待ちたい。
前編を読む
*1 昭和52(1977)年〜平成16(2004)年まで発行された竹野町公民館・竹野学園の文集。竹野学園参加者の方々が綴った様々な文章が収録されている。パフォーマンスの会場でも実物が並べられ、観客が手にとって読むことができるようになっていた。
*2 Nimmo, H.A. (1994) The Songs of Salanda and Other Stories of Sulu
*3 太田さん自身による同作品の制作ノートに詳しく書かれている。
*4 プロジェクトメンバーは、太田奈緖美、日本相撲聞芸術作曲家協議会(鶴見幸代、野村誠、樅山智子)、波田野州平、城崎国際アートセンター スタッフ。
*5 タムラ工房
*6 『この家で − 이 집에서<in this house>』制作ノート
実施日:2024年5月23日(木)、6月12日(水)、14日(金)、7月12日(金)
場所:田中邸(豊岡市竹野町竹野)
インタビュー協力:
青山治重、田村高志、丹下芙蓉
青山佳代子、東實千代、井上喜美子、宮嶋久恵
太田奈緖美
與田千菜美(城崎国際アートセンター)
時間を少し前に戻して、太田さんと竹野の出会いとプロジェクトの経緯について見ていこう。
太田さんが竹野町を知ったのは2020年である。劇団ノットルとオーストラリアの音楽家マデレイン・フリン & ティム・ハンフリーとの国際共同プロジェクトのために、KIACで滞在制作を行なっている時だった。
このプロジェクトは地方都市における人口減少によって空き家となった「家」に着目したもので、太田さんたちは継続的にこのテーマに取り組んでおり、豊岡でのプロジェクトのために使うことができる空き家を探していた。
K:はじめは空き家のプロジェクトをされようとしていたのですか?
太田:竹野が先にあったわけではなく、「この家で」がはじめにあった。家自体や家族の話に興味があって、そこから始まったんですね。
K:ウェブサイトを見ると、以前に韓国でも空き家に関するプロジェクトをされていますね。
太田:特別な出来事よりも、人々の日常に興味があって。家族の中での出来事とか、生活の中の積み重ねに興味があったので。韓国の時は10年くらい空き家になっている村の中のお家で、どういう人が住んでいたのかお話を聞いて、お供えや儀式などをした上で、その家の各部屋を使った。話を聞いて物語を作っていくということに興味があった。というか、自然とそうなちゃったんです。
2020年7月と10月の2回のリサーチで、KIACと竹野への移住促進に取り組むNPO法人たけのかぞくの紹介により、太田さんは田中邸とブラタケノ運営委員会の方々と出会うことになる。
田中邸は、前述した焼杉板の建物群の集落に残る元・船主邸である。明治後期に建てられた木造二階建ての立派な家屋で、囲炉裏を持つ和室や竈門が残る台所や広々とした土間など建てられた当時の状況が残っている。田中邸は、現在、ブラタケノ運営委員会によって、建物の保全とまちづくりの様々な活動の拠点として活用されている。
ブラタケノ運営委員会は、平成23(2011)年に地域の有志メンバーによって作られ、竹野のまちづくりに取り組んでいる団体である。竹野地区の詳細な地図「ブラタケノマップ」作りや、まちあるきイベント、国内外からの観光客を対象とした竹野の観光ガイドなども行っている。田中邸には、代表の青山治重さんらによって収集された竹野の歴史や文化に関する書籍や新聞記事、写真、絵などが、まるで資料館のようにたくさん並べられている。
田中邸とブラタケノ運営委員会の人々との出会いは、大いにインスピレーションを与えたに違いない。2021年2月、太田さん達は田中邸の調査や竹野に住む方々へのインタビューを経て、竹野浜周辺を歩きながら巡るインスタレーション・パフォーマンス、時空間散歩『この家で - 이 집에서<in this house>』(主催:城崎国際アートセンター、共催:ブラタケノ運営委員会)を発表する 。*³
ただし、コロナ禍の渦中にあり、2月の上演では韓国とオーストラリアのアーティストは来日を断念しリモートで創作に参加した。また、9 月に同作品の映像上映とお座敷ミーティングが「豊岡演劇祭 2021」のフリンジプログラムとして予定されていたが、兵庫県に緊急事態宣言が発令されたことで演劇祭そのものが中止となってしまった。
感染症の影響により創作や発表が大きな制約を受けながらも、2022年2月には延期された映像上映会が田中邸で開催された。その場で、太田さんは文集『万年青』と出会う。この文集は昭和52(1977)年から平成16(2004)年まで竹野町公民館より発行されていたもので、竹野に生きた人々が自らの手で綴った様々な言葉が綴られている。竹野の魅力に強く惹かれていた太田さんにとって素材の宝庫に感じられたことだろう。
この文集が起点となって、太田さんの竹野での新たなプロジェクトが始まった。この年からKIACが「複数年をかけて、滞在アーティストをはじめとするプロジェクトメンバーが豊岡市を中心とする地域のさまざまな文化や自然をリサーチし、人々との交流をとおして作品創作を行う」というコミュニティプログラムを開始し、太田さんもプロジェクトメンバーの一人として選出された*⁴。2023年2月のKIACのSNSには、次のような投稿がある。
そこ(『万年青』)には、季節の行事や仕事、昔聞いた話や、最近の家族の話、生活の知恵、遊び、戦争、災害の記憶、道ばたで見つけた植物のことにいたるまで...市井の人々による、生活の実感に満ちた記述が全28巻にわたって残されていました。そこで今年度は『万年青』を手がかりに、現代の竹野を訪ね歩き、人々の言葉や記憶、風景、音を拾い集めるリサーチを実施。リサーチの成果発表として、太田さんが編みなおしたいくつかの短い物語を皆さんと一緒に読んでみたいと思います(2023年2月16日KIAC SNSの投稿より)
当初、太田さんたちは、私的な創作活動のために空き家を探して竹野を訪れた。そして、竹野の魅力に惹きつけられてその地で作品を発表した。そして、その際の交流がきっかけとなって、文集『万年青』に着目した「竹野のアートプロジェクト」がスタートしたことは、アーティストと地域と公立の文化施設の相互作用が発展的に展開した事例として興味深い。このような展開が可能になるのは、やはりKIACの施設と滞在制作を支援する体制があり、アーティストが滞在して時間をかけて地域と向き合うことができるからだ。アーティストが地域に丁寧に関わることで、眠っていた地域の文化資源の価値を再発見し、創造的に活かし、その土地でしかできないものを創り上げていくことができるという1つの優れた例ではないだろうか。
(5)竹野の「コラボレーター」たち
『この家で』というプロジェクトは、開始当初から地域の方々との関わりの中で進められてきた。その中には、情報や場所の提供などの一般的な協力の範疇を超えて、プロジェクトの一部として深く関わった方々がおられた。ここでは、太田さんが「何をするかまだわからない時からコラボレーターになってくださいってお願いしました」と言うほど当初から重要な存在であった青山治重さんと田村高志さんのお二人について紹介させていただく。
青山治重さん〜『この家で』のために地図を作ったブラタケノ運営委員会代表
青山治重さんは昭和21(1946)年に竹野で生まれ、高校を卒業後は神戸市職員として8年間勤務。その後、竹野に戻り家業であった建設の仕事に60歳まで携わった。その後は5年ほど竹野で遊覧船のガイドを務め、副会長を経て観光協会の会長を7年務めた。
平成23(2011)年にブラタケノ運営委員会を地域の仲間と立ち上げ、現在も田中邸を拠点に様々なまちづくりの活動を行っている。田中邸の入り口の広々とした土間には、青山さんたちが収集した竹野に関する様々な書籍や資料、新聞記事などが整然と誰もが手に取れる状態で並べられており、まるで資料館である。
「以前は、竹野の文化や歴史をあまり知らなかったが、本当はすごいものがある」と、資料の1つ1つを説明してくださる青山さんの口調は、どこまでも優しく穏やかだ。
ブラタケノが取り組んできた重要な活動の1つに、竹野の地区ごとの地図「ブラタケノマップ」の製作がある。A4サイズの手書きの温かい風合いの地図に、地域の季節ごとの行事や史跡、小中学校の校歌など様々な地域の情報が掲載されており、地図の作り手たちの町への愛情が感じられる。
竹野の地理、歴史、文化に精通する青山さんは、今でも自らまち歩きやトレッキングの案内役も務めるなど、太田さんにとってプロジェクトの中で欠かすことができない存在だった。
太田:青山さんは本当にすごい方で、何があったとか年号がぽんぽん出てくる。今回のテキストも青山さんに目を通していただき、お電話でお話しした。その中で、キーワードを集めた地図を作られた。今回の語りならべのレスポンスとして、この地図を作成してくださった。一緒に歩んでくださるというか、本当に一緒に作ってくださって、ありがたかったです。
青山さんが作成した地図には、『この家で』の語りの中に登場する様々な場所の位置が、竹野町全図と竹野地区拡大図の中に書き込まれている。この地図があることで、どこかの遠い昔話のようにも聞こえる『この家で』の語りに、竹野で実際にあったことだという重みが加わる。さらに、地図の横には3編(嫁入り、遊び、仕事)の語りの中で登場するキーワード(例えば「おばあのふところ」、「キンカンゴオリ」、「移動スーパー123」など)が、1話につき13個(合計39個)リストアップされている。
この地図は、語りの鑑賞を助けるだけでなく、終演後に見返したり、観客同士の会話のきっかけにもなり、とても役立つ。まさにタケノ時空間散歩のためのブラタケノマップが生まれたのだ。
田村高志さん〜竹野の水彩画を描き続ける元・中学校教員
田村高志さんは、昭和28(1953)年に竹野で生まれ、関東で過ごした大学時代に数学の教員資格を取得。数学教員として関西の女子校勤務を経て竹野に戻り、その後30年間、森本中学校と竹野中学校に勤務した。2013年に定年を迎えるまで現場で教鞭を執り続けた田村さんは、数学以外にも美術や体育、特別支援のクラスなど様々な授業と部活動(バレーボール)を担当し、楽しく教員生活をすごしたという。青山さんとは生家が近く、青山さんから誘われてブラタケノ運営委員会に加わり、地図づくりやガイドなどの活動にも参加してきた。現在は、豊岡市竹野地域小中一貫校開設準備委員会の委員や中竹野の地域の活動で多忙な日々を過ごしている。
このように竹野で教育やまちづくりに関わり続けている田村さんには別の2つの顔がある。竹野町在住のサキソフォン奏者としてジャズの演奏活動を行っており、参加しているジャズグループで、自身がリーダーとしてのライブも行うミュージシャンとしての顔。もう1つは、長年、竹野の風景を描き続けてきた画家としての顔である。
「タムラ工房*⁵」という田村さんのホームページを訪れると、1996年頃に描かれたものから最近の作品まで様々な絵が短い文章と共に並んでいる。漁港、河口の夕焼け、細い路地裏、職員室から見える風景、限界集落の家屋、教え子が開いた惣菜屋から見る景色・・・。柔らかな線と暖かな色彩の水彩画からは、時代の流れと共に変わりゆく竹野を見つめながら、そこに暮らす時間を慈しむ気持ちが伝わってくる。
ブラタケノのメンバーであり、ミュージシャンや画家として活動してきた田村さんが、『この家で』のプロジェクトに関わることは自然な流れだったのだろう。2021年のインスタレーション・パフォーマンスで路地の水彩画3点をフライヤーのメインビジュアルとして提供し、出演者としてサックスの演奏でパフォーマンスにも参加した。そして、2024年の公演のフライヤーでも、再び田村さんの水彩画「夕暮れ」が大きく使われている。太田さんが『この家で』のプロジェクトで観客に届けようとしたものを田村さんはすでに水彩画に描き出していたのかもしれない。
(6)アーティストの滞在制作が起こしたこと、残したこと
2020年から2024年までの『この家で』の一連のプロジェクトで、太田さんが竹野に通い、滞在して創作を進める中で、竹野ではどのようなことが起こったのか。そして、プロジェクトは地域に何を残したのだろうか。6人の方々にインタビューをさせていただいた中から浮かび上がってきたのは、次の3つである。
1つ目は、前節で見たように、竹野には青山さんや田村さんのように、その土地の素晴らしさを伝える活動や表現を長年にわたって続ける人々がいて、他所から訪れたアーティストである太田さんを迎え入れ、その両者の間に共創的な関係が生まれたことである。
アーティストの側から見れば、二人のような存在は、作品に広がりと深みをもたらしてくれる協力者であり、強力なコラボレーターだ。
一方、青山さんや田村さんの側から見れば、太田さんはふとやってきた人という意味では旅人である。しかし、一般的な観光客とは異なるのは、地域の人々や歴史や文化に深い関心と尊敬の念を持ちながら何度も竹野に通ったことだ。心から竹野のすばらしさを知りたいと願う信頼できるリサーチャーでもあった。また、アーティストとしても、出来上がった作品をただ持ち込んだり、竹野に合わせて自分の作品をアレンジするのでもなく、竹野で出会ったものから何かを作ろうとしていた。だからこそ、地域の人々の関わる余地が大きく残されていた。
青山さんは太田さんのリサーチが「(竹野で)いろんな人から話が出てきた」と丁寧に地域の人々に向き合う姿勢を評価し、アーティストが地域に関わることについて、「自分たちだけではできないことが起こる。地域の人を巻き込んで、溶け込んで、面的に広がっていく。文化や歴史が根付いていくきっかけになるのでは」と言う。また田村さんは「太田さんのような人の目にとまったら、1つの違う文化になっていく」と太田さんへの信頼を口にする。このプロジェクトは、竹野という町の魅力を誰かに手渡したいと願う人たちが出会い、互いに尊敬の念を深めながら、つながり合いながら作り上げていく時間だったのだ。
ところで、人のつながりを作るという点で、アートプロジェクトにおいてコーディネーターの役割はとても重要である。地域の人々との出会いをアレンジするだけでなく、見知らぬ土地での日々の生活から移動、取材、創作まであらゆる面でアーティストをサポートする彼らの仕事なくして、滞在制作は成立しない。この原稿ではその仕事について触れることができなかったが、KIACのスタッフ、中でも竹野町出身の與田千菜美さんが重要な役割を果たしたことは、ここに記しておきたい。東京で演劇活動をしていた與田さんにとって、地元に戻りKIACの職員になって初めての仕事が『この家で』だった。太田さんは「與田さんが案内してくれたことで、わけのわからないアーティストという存在が身近になっている気がするんです。コーディネーターというよりチームになってくださいとお願いしたんです」と言う。その仕事ぶりとプロジェクトでの存在の大きさは、ウェブサイトで公開されている太田さんの創作ノート*⁶をお読みいただければお分かりいただけると思う。
2つ目に、このプロジェクトは、いま竹野に暮らす人々が忘れられかけていた文集『万年青』と繋がり、町のことを改めて知る貴重な機会でもあった。
竹野で30年間教鞭をとっていた田村さんでさえ「万年青のことは知らなかった。座談会で初めて知ったこともあったし、忘れていたことを思い出した」と言うように、このプロジェクトをきっかけに地域の方々の中にも『万年青』を初めて読んだり、太田さんを通して自分の家族がそこに文章を寄せていたことを知った人もおられたのだ。長年そこに暮らしていても、一世代、二世代前の人々の暮らしや、町の出来事について知らないことが意外と多いものだ。
また、最近になって竹野に移住した人にとっても、『この家で』は地域とのつながりを感じる機会になった。竹野への移住促進に取り組むNPO法人たけのかぞくの理事長(自身も神奈川からの移住者)で小さなお子さんを連れて公演会場に来ていた丹下芙蓉さんは、「これ(『この家で』)には地元の人が来ていて、耳を傾けている。共有している感じがあり、会話が生まれやすい。当時の暮らしを知ることで、年代による考えのちがいは暮らしのちがいから来ていることに納得し、相手の立場の考えるきっかけになった」と言う。
3つ目は、このプロジェクトによって、地域の方々が昔のことを語る時間が増えたということだ。太田さんのリサーチは一方的に情報を収集する機会ではなく、アーティストにとっても話をする地域の方々にとっても、活力を与え合う相互作用的な時間だったと思われる。太田さんは、地域の方々にインタビューした時の体験について、次のように語ってくれた。
太田:映像が浮かぶんですよ、彼女たちと話をしていると。東さんの赤い靴下の話。ダンスパーティで初めて出会った人のお家に後からお邪魔する時に、路地の中で家がわからないので、2階から赤い靴下を吊るしておいてって。あの方々の口から話を聞くと鮮やかに浮かび上がるというか、『万年青』の世界もすごく色づいて鮮やかになった感じがして。実際にそれらの土地を訪れた今、『万年青』を読み返すととても面白いと思う。
同時に、太田さんのインタビューに答える方々の頭の中にも、自分たちの子どもだった時のこと、楽しかった出来事や、苦労しながら乗り越えてきたことなど当時の風景が鮮やかに浮かんでいたことだろう。公演のアフタートークで高齢の観客の方が「昔のことを話して若返った」と話していたように、かつての楽しかったことや苦労話を語ることで、人は元気になったり、癒されたりもする。
一般的に、高齢の方が自分の若かった時の話や数十年も前のこと、いわゆる「昔話」をすることは、どこかネガティブに扱われがちだ。昔のことを話してもと考える人もいれば、迷惑になるだろうと話をしたくても控える人も多いだろう。しかし、今回のプロジェクトではそうではなかった。「昔話」をすることに躊躇う必要はなく、むしろかつての出来事や思い出を鮮やかに語ることがパフォーマンスの創作に貢献し、地域の歴史を甦らせる大切な時間だった。
田村さんは『この家で』が竹野にもたらしたものについて、「昔のことを思い出す時間を作ってくれた。人間、新しいことばかりじゃなくて、進むだけじゃなくて、時々、誰かと話すことでよみがえらせることって大切。一見役に立たないようなことでも。無駄だと思えることが実は必要で大切なことなんじゃあないかな」と話してくれた。
今回のプロジェクトで多くの地域の方々の話を聞いた太田さんは、「けしてノスタルジアだけではない感じがする。昔は良かったということではなくて。これから先を見るには、このことを知らないとまずいのではないかということはあるんですよね」と言う。昔のことを語ることを後ろ向きなことだと思うのではなく、「これから先」を生きるために必要なことだと捉えてみたら、私たちの暮らしの何かが変わるかもしれない。
多くの町と同じように少子高齢化が進む中、竹野の町では今日も1つ1つの家で暮らしが続いている。そんな「これから先」でこそ、このプロジェクトが竹野に残した大切なものがふと見えてくるのかもしれない。
KIACのコミュニティプログラムとしての『この家で』は、今年度で一度、区切りになるそうだが、よく言われるように、1つの終わりは新しい始まりでもある。太田さんと竹野の人々の関わりはこれからも続いていくだろうし、その中からきっと何か面白いものが生まれてくるだろう。その知らせを楽しみに待ちたい。
前編を読む
*1 昭和52(1977)年〜平成16(2004)年まで発行された竹野町公民館・竹野学園の文集。竹野学園参加者の方々が綴った様々な文章が収録されている。パフォーマンスの会場でも実物が並べられ、観客が手にとって読むことができるようになっていた。
*2 Nimmo, H.A. (1994) The Songs of Salanda and Other Stories of Sulu
*3 太田さん自身による同作品の制作ノートに詳しく書かれている。
*4 プロジェクトメンバーは、太田奈緖美、日本相撲聞芸術作曲家協議会(鶴見幸代、野村誠、樅山智子)、波田野州平、城崎国際アートセンター スタッフ。
*5 タムラ工房
*6 『この家で − 이 집에서<in this house>』制作ノート
実施日:2024年5月23日(木)、6月12日(水)、14日(金)、7月12日(金)
場所:田中邸(豊岡市竹野町竹野)
インタビュー協力:
青山治重、田村高志、丹下芙蓉
青山佳代子、東實千代、井上喜美子、宮嶋久恵
太田奈緖美
與田千菜美(城崎国際アートセンター)
小島寛大
アーツマネージャー、エデュケーター。芸術文化観光専門職大学 助教。こどもを対象とする芸術文化プログラムの企画と評価をテーマに実践と研究に取り組む。京都芸術センター、NPO法人アートネットワーク・ジャパン、フリーランスを経て2023年より現職。2021年よりコジカレーベルを主宰し「移動おんがく実験室スタジオ☆ムジカ!」を各地で開催。準認定ファンドレイザー、日本評価学会認定評価士。本とアートに囲まれたこどもの学び基地「knocks! horikawa」共同運営者。