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『ENCORE』公開リハーサル@城崎国際アートセンター2022.5(photo: igaki photo studio)

来るべき言語を求めて −ユニ・ホン・シャープ『ENCORE』公開リハーサル鑑賞ノート
越智雄磨

2022.7.15

フランスと日本を拠点に活動するアーティストのユニ・ホン・シャープによる、日本統治時代の朝鮮半島出身の舞踊家・崔承喜(1911-1969)に関する言葉とダンスのリサーチに基づいたプロジェクト『ENCORE』。
2022年5月8日に城崎国際アートセンターで実施した本作公開リハーサルのレビューを越智雄磨さんに執筆いただきました。

はじめに


 ユニ・ホン・シャープ(以下、ユニ・H-Cと略記)による『ENCORE』は、日韓のモダンダンスの先駆者として、また朝鮮民族舞踊の指導者として知られる崔承喜(さいしょうき/チェ・スンヒ、1911-1969)をめぐるレクチャー・パフォーマンスである。
 パリ=セルジーの国立美術高等学院に学び、ヴィジュアルアートとパフォーマンスの交差する領域で活動しているユニ・H-Cは、今年の2月から映画監督や詩人、舞踊家など様々な専門家と共に崔承喜についての領域横断的なリサーチを行ってきた。『ENCORE』は、その成果を踏まえて行われた城崎国際アートセンターでの滞在制作の産物である。
 レクチャー・パフォーマンスと銘打たれたこの作品は、その名の通り、リサーチを踏まえた「レクチャー」と「パフォーマンス」から構成されている。近年、国内外において「レクチャー・パフォーマンス」と題した作品が徐々にみられるようになり、パフォーミング・アーツの新たな領域を形成しつつあるように見える。それは、従前のダンスや演劇では扱い難い主題に向き合おうとするとき、あるいは上演者の主体やアイデンティティの変化を問題にしようとする時、アーティストが必然的にたどり着いた方法なのだろう。
 今なお多くの「レクチャー・パフォーマンス」が生み出されている中、確たる定義を与えるのは難しいが、その特徴はリサーチに基づいた事実確認的(constative)な言語と、行為遂行的(performative)な言語の往還を通じて、様々な歴史的事実や概念を引用、反復すると同時に、それがもたらす固定概念や規範をずらし、転覆することで、新たな認識を再発明する力にあると思われる(*1)。
とりわけ、朝鮮と日本という二つのナショナル・アイデンティティの間にあった舞踊家・崔承喜の足跡を辿り、反復する『ENCORE』は、ユニ・H-C本人の生と身体を素材として舞台に上げ、自らのアイデンティティを再発明する試みに私には見えた。そして、それは様々な文化や歴史、言説、政治的諸力が交錯する空間に身を浸しながら自己を形成している私たちの生やアイデンティティを考える上でも無縁のものではないだろう。
 なお、タイトルに採用されたフランス語の〈encore〉は「もう一度」という反復の意味を持つ言葉である。

 

「半島の舞姫」−宙吊りの存在


 『ENCORE』の主題である崔承喜は、日本のモダンダンスの礎を築いた石井漠(1886-1962)の弟子としてよく知られている。ユニ・H-Cのレクチャー・パフォーマンスにおいても言及されているように、崔は1926年に京城(現ソウル)で観た石井漠の公演に感銘を受け、当時武蔵境にあった石井漠現代舞踊研究所に入所し、瞬く間にモダンダンサーとして頭角を現した(*2)。崔の通り名の由来であり、千田是也との共演でも知られる映画『半島の舞姫』(1936)は現在消失しているが、4年間継続的に上映されたこの映画は崔の稀代のメディア・スターとしての地位を確固たるものにした。石井から独立した後は、モダンダンスと朝鮮舞踊を織り交ぜたプログラムで欧米をツアーも行い、1939年にベルギーで開催された国際舞踊コンクールでは、セルジュ・リファールらと共にアジア人として唯一審査員を務めるなど、欧州の舞踊界においても存在感を示した。
 第二次世界大戦後には北朝鮮人民共和国に入り、近代朝鮮民族舞踊の基礎を確立し、教育指導者として活動したようである。現在も日本の多くの朝鮮学校では、民族的アイデンティティを意識し、維持する役割を担うものとして、崔の舞踊は継承され続けている(*3)。
ユニ・H-Cは、崔承喜の日本における足跡を辿るリサーチの過程で撮影した写真をスクリーンに映しながら、リサーチの経緯や成果について語り、記録写真に見られる崔のポーズや身振りを模倣していく。その合間には「武蔵境の石井漠の舞踊研究所跡を探したがみつけられなかった。代わりに美味しいお蕎麦屋さんをみつけた」というようなリサーチ中の日常的な一コマも挟まれ、レクチャー(講義)という言葉が持つ固さが緩やかに解かれていく。観客はユニ・H-Cのユーモラスな感覚に誘われながら、崔承喜という歴史上の舞踊家の姿に接近していく。

ユニ・ホン・シャープ『ENCORE』公開リハーサル写真 ユニ・ホン・シャープ『ENCORE』公開リハーサル@城崎国際アートセンター(2022.5)photo: igaki photo studio

 

ユニ・ホン・シャープ『ENCORE』公開リハーサル@城崎国際アートセンター(2022.5)photo: igaki photo studio

 だが、このレクチャー・パフォーマンスが進むにつれて、その核心は、激動の歴史を生きた「半島の舞姫」の複雑なアイデンティティにあることがわかってくる。かつて川端康成をはじめとする多くの日本の文化人にも絶賛された崔承喜であるが、レクチャーで引用される舞踊評からはこの時代に特有の不穏な空気も感じずにはいられない。

 「崔承喜の舞踊を初めてみて、これは日本人舞踊家の中で一番感心した。崔承喜を日本人の中にいれていいだろう」 板垣直子

 「崔承喜という舞踊家はいはば和製品であつて全部が国産である」 石井漠

 「優れた人が朝鮮から出ることを日頃どんなにか望んでいるだらう。それは日本の為にも非常にいい」 柳宗悦

 崔承喜が生まれたのは1911年、日本による韓国併合の1年後のことである。上に引いた評も日本が朝鮮半島を植民地化していた時代に書かれたものであり、崔を日本のナショナリズムに組み入れようとする意図がはっきりと見て取れる。当時の日本の植民地政策及び世論は、歴史学者アーネスト・ゲルナーの言葉を借りれば、もともと存在していないところに日本国民を「発明」しようとしたと言えるし、また、ベネディクト・アンダーソンの言葉を借りれば、日本語・日本文化圏から成る「想像の共同体」に朝鮮半島を取り込もうとしていたとも言える。崔承喜は、石井漠由来のモダンな身体イメージを完全に体現する「日本人」ダンサーとして日本の植民地的言説の中に回収されていたのである。
 他方で、彼女が人気を博した演目は朝鮮の民族舞踊をもとに創作されたダンスであったことにも注意を向ける必要がある。川端康成からは「彼女一人に民族のいちじるしい匂ひ」と評された一方、ある批評家からは「彼女の朝鮮の踊りは真実性が欠如しており、ただそれらしい模倣性があるだけだ」と民族舞踊の踊り手としては厳しく批判されたこともレクチャーの中で紹介される。
 これらのことから浮かび上がってくるのは、崔承喜のアイデンティティは、近代と伝統との間で、「内地」としての本土と、「外地」としての半島という二つの場所の間で、日本帝国主義と朝鮮民族主義という二つの力学の間で漂っていたということである。
 そのように考え始めた時、ふと、このレクチャー・パフォーマンスは崔承喜を主題としていながら、実はユニ・H-C自身のアイデンティティに焦点が当てられているのではないか、と気づかされた。この作家は、崔承喜を調査し、その身振りを自らの身体で反復しながら、在日コリアンとして日本に生まれ、現在はフランス国籍を持つ自分自身のアイデンティティを検証する作業を行なっているのではないか。
 ユニ・H-Cは冒頭、コロナ禍においてフランスから来日した際に、ホテルの一室に隔離された経験についても語っていた。それもまた国と国との間の境界に「宙吊り」になった自身の存在を問いかけるエピソードだったのだと後から気付く。そして、この作家のアイデンティティについて考えを巡らせ始めた時、避け難く立ち現れてくるのが言語という問題である。

 

言語とアイデンティティ


 よく言われるように、近代国家が「国語」を統制したのは、言語が人のアイデンティティを、またナショナリティを形成する基盤だと考えられたからである。そのため私たちは、フランス人ならフランス語を、日本人なら日本語を話す、というように国民と国語は一対一の対応関係を持っていると無意識のうちに考える傾向にある。しかし、このレクチャー・パフォーマンスにおいて、それは思い込みだと知らされる。ユニ・H-Cは最終的にフランス語、日本語、朝鮮語の三つの言語を使用し、言語と国民的/民族的アイデンティティの固定的な関係を揺さぶるからである。
 上演の始まりにおいて、また上演の大部分においてユニ・H-Cが使用するのはフランス語である。フランス語を解するわけではない観客の多くは、通訳者・平野暁人の逐次通訳を聞いて内容を理解することになる。
 冒頭でユニ・H-Cは「フランス語は世界で一番美しい言語」というフランスの常套句を紹介する。確かにフランス語の響きは美しく、パフォーマンスの後に設けられたディスカッションにおいてもそのことに触れた観客もいた。しかし、3000から8000もあるといわれる言語のうち「一番美しい」と決定しうる根拠や基準は何なのだろうか?とも思う。一つには、その言語の世界への普及度、ひいてはその言語を国語とする国家の影響力にも大きく依拠するのだろう。考えてみれば、フランス語が世界に及ぼしている影響力は大きい。たとえば、テレビ中継されるオリンピックのセレモニーでは、英語より先にフランス語でのスピーチが流れるし、ほとんどのバレエ用語はフランス語である。レクチャーでも言及されているように、韓国併合は日露戦争後に締結されたポーツマス条約によって決定された事項であるが、その交渉の場にはフランス語の通訳が同席し、条文はフランス語で書かれた。明治時代以降の日本の外国語教育においても(近年では英米語の覇権に押されつつも)、フランス語は大きな地位を占めてきた。脱亜入欧を目指した近代の日本にとって、自分たちよりも進んだ欧州の技術、制度、文化へのキャッチアップの手段としてフランス語は必須の言語だと考えられたからである。
 従って、言語と言語の関係というものもニュートラルなものではない。そこには、その時々の国家と国家の力関係が必然的に重なっていく。フランス語、日本語、韓国語の関係にも時代によって権力の非対称性を読み取ることができるのかもしれない。
 はっとさせられたのはユニ・H-Cが語った「母語はいちばん話すのが楽な言語だ、などというのは嘘だ。私にとっての母語とは他者である。」という言葉である。この言葉を聞いた時、ユニ・H-Cとはじめて会った時に私は何語で話しかけるのが正しいのだろうか? と戸惑ったことを思い出した。 ユニが最も話しやすいのはフランス語? それとも日本語? 朝鮮語? 何語なのだろう、と。そう迷いつつも、結果、日本語で話したのだが、それはフランス語も日本語も達者で「朝鮮語は少しできる」というこの作家に甘えることであり、私自身のこの選択は、在日コリアンを生み出した日韓の歴史に否応なく依拠したものだったのだ。
 ユニ・H-Cの言語に対する距離感は独特である。この作家にとって、母語とは何語なのか? 使用する全ての言語が他者の言語なのではないか? ユニ・H-Cと言語の関係は、「フランスの」思想家ジャック・デリダのことを思い起こさせる。フランス植民地下のアルジェリアで育ったユダヤ系フランス人のデリダは、自らの出自に関する「フランス−マグレヴ−ユダヤ」という三つの属性の全てに対して分離の感覚を抱き続けていたからだ。デリダは自身が母国語とするフランス語について「私は一つの言語しか持っていない、ところがそれは私の言語ではない」とも述べていた 。ユニ・H-Cの言語観は、自身の言語とアイデンティティが分離されているという感覚や「本質的な」アイデンティティに対する懐疑を含意するデリダのこの言葉に通底しているように思われる。
 ただ、ユニ・H-Cの言語に対する態度は、必ずしも悲観的な印象をもたらすわけではない。レクチャーの中では、詩人カニエ・ナハから聞いたという詩人・茨木のり子が五十を過ぎて韓国語を学んでいたエピソードが紹介され、ユニ・H-Cと平野により、茨木が親交を持っていた韓国の詩人の詩が日本語と韓国語の両方で朗読される。この場面では、国と国の間を、言語と言語の間を越境し、感覚をつなぎ合わせ、情動を分かち合おうとした者の営為も確かにあったことに安堵させられる。
 また、他者と他者が「分かち合えないこと」に関してもユニ・H-Cは必ずしも否定的ではない。むしろ「言語の問題がなかったとしても、他人同士が理解し合うことは稀である」とも冷静に述べるこの作家は、言語と言語の間に、あるいは他者と他者との間に生じる間の「わからなさ」という領域に敢えて留まることで、自らのアイデンティティをめぐる感覚を、まさにパフォーマティヴに作り直そうとしているようにも見える。このレクチャー・パフォーマンスで顕著に立ち上がってくるものは、ある言語にとっての「外」、あるいは言語と言語の間にある空隙ではないだろうか。

 

言語の外で−来るべき言語を待ちながら


 ユニ・H-Cの回想で印象的だったのは、映画監督・草野なつかと朝鮮舞踊の踊り手・尹美由と伊豆半島の海辺で各自のリサーチ成果の発表をしていた時、風に声がかき消されて、自身の言葉が誰にもわからなくなった時に安堵を感じたと述べていたことである。ユニ・H-Cはそれを言語の「安全地帯」と呼んでいた。誰にも了解されない言語の安全地帯で、この作家は、日本語にも、朝鮮語にも囚われることなく、崔の存在と自身の存在を「再発明」しようとしていたのではないだろうか。
 そのように考えると、このレクチャー・パフォーマンスにおける平野の通訳という行為もまた意味深いものであることに気づく。平野が行う翻訳は観客に言語を理解させるという意味では、ユニ・H-Cを「安全地帯」の外へ連れ出す行為でもある。しかし、ユニと平野の掛け合いのなかでなされる言語と言語を越境する行為は、この作家が言語を解体し、新たに言葉を紡ぎ直すためのパフォーマンスの原動力にもなっているようにみえる。ユニと平野の言語を横断するやりとりもまた、<Encore(もう一度)>というこの作品のモチーフの反復的な遂行を成しているのだ。
 作家の傍にいる平野の存在が単なる通訳者を超えて、パフォーマーとして見えるのは、平野もまた言語と言語の間に自らの存在を賭けるというこのパフォーマンスの核心に触れる役割を担っているからだ。この作品のユニークな点の一つとして、平野によるフランス語の発音レクチャーの場面が設けられていたことにも触れておきたい。この場面の直前に、平野は舞台中央に設えられた足湯に浸かり、その後リラックスした状態でこのレクチャーを開始する。それは観客の気をほぐす場面でもあり、平野のパーソナリティと温泉地である城崎のローカリティがあってこそ生まれたものだろう。また、それまで通訳に徹していた平野が語り出すこの場面はそれだけでも意外性があるが、観客に言語の翻訳、通訳という作業について再考させるという点でも効果的である。平野のレクチャーは、音節や音素という観点からみても、フランス語と日本語の完全な移し替えが困難であることを教えてくれるが、そこにはある言語を別の言語に反復して置き換えるときに必然的に生じるずれ、翻訳に伴う困難や不可能性も仄めかされているように思われた。
 かつて、ヴァルター・ベンヤミンは翻訳不可能なものの存在を認識することにこそ翻訳の倫理が宿ると論じたことがあった。ベンヤミンはまた、翻訳の不可能性を前提としながらも、他者の言語が志向するものに限りなく接近することに翻訳という行為の核心をみていた。城崎で長期に渡ってユニ・H-Cと対話を続けながら翻訳と通訳に取り組んだ平野は、作家の言葉が志向するもの、さらには作家の身体が発する空気のようなものまでも掴み取ろうとしているようにもみえた。翻訳者の使命に応えるその作業は、言語的であるだけでなく、身体的でさえある。
 ユニ・H-Cも平野もこのレクチャー・パフォーマンスにおいて、言葉を尽くす。このパフォーマンスは、作家自身も述べていたように「言語が可能ならしめるもの」なのだろう。しかし、二人が言葉を積み上げていく作業の結果、最終的に志向されているものは「言語が可能ならしめるもの」を突き詰めた結果として生じる言語の外部なのだという気がする。それは、言語と言語の間に、翻訳可能なものと翻訳不可能なものの間に、新たに「来るべき言語」を発明することだと言い換えられる。
 このレクチャー・パフォーマンスにおいて、私が形容し難い説得力を感じたのは、崔のある行為を模倣したユニ・H-Cの身体が無言のまま示された場面である。崔が来日した1926年、大正天皇が崩御し、石井漠をはじめとする参列者たちがその葬列に向けて頭を垂れる中、当時16歳だった崔は葬列に背を向けてお辞儀をしたというエピソードが紹介された。その直後、伊豆半島の海辺で崔を模倣するように無言でお辞儀をするユニ・H-Cの姿がスクリーンに映し出される。そのお辞儀はどの方向に向けられたものなのだろうか? あまりに動揺したからか、私はユニ・H-Cのお辞儀する身体の姿ははっきりと覚えているのに、それが海側に向かっているのか、陸側に向かっているのか全く覚えていない。いや、それがどちら向きであろうと大きな意味を持たないのだろう。崔のエピソードの後に、時代を超えてその行為が一つの身体によって再び具現化されていることそれ自体に大きな衝撃を受けた。その身体は、歴史が刻印されたメディウムとして、無言のうちに多くのことを語りかけてきたのだと思う。
 言語を拒絶するかのように無言で屹立するユニ・H-Cの身体に感じられた強度は何に裏打ちされていたのだろう。日本のコロニアリズムに対する崔の抵抗が、現在のユニ・H-Cの姿に重なる。そこには、在日コリアンの流れを汲み3つの国と言語の間に立つこの作家の、単一的なアイデンティティという神話に対する諦念、懐疑や抵抗が幾重にも重ね合わされているような気がした。そして、それは、フランス語でも日本語でも朝鮮語でもない作家自身の固有の言語、何語でもない来たるべき言語の到来を待ちわびている姿にも見えた。
 最後の場面に至って、ユニ・H-Cは初めて日本語で語る。平野がそれをフランス語に訳すが、これまでの場面と違うのは、二人が同時に発話し声と声が重なりあうことである。ユニと平野の声はぶつかり合い、聞こえてくるのは、断片的な日本語と断片的なフランス語である。そこで語られた言葉の意味を了解することは難しく、二人の声はまるで、海辺に吹く風のように、互いに意味を発すると同時に、互いに意味を打ち消しあっていく。それはなぜか美しい瞬間に感じられた。言葉を重ねた末に現れた、意味からも、言語の権力関係からも解放された詩的な言語が生まれた瞬間だったのかもしれない。

ユニ・ホン・シャープ『ENCORE』公開リハーサル@城崎国際アートセンター(2022.5)photo: igaki photo studio

 

 二人が語り終えた後、海辺で踊る一人の女性の姿がスクリーンに映し出される。崔承喜の踊りを伝承した在日朝鮮舞踊家の尹美由の姿である。言語のざわめきも消えた静寂の中で、おそらくは崔の伝承された踊りを反復しているその身体は無言のうちに、過去に向けて、あるいは未来に向けて、多くのものを語りかけているような気がした。国家にも、民族にも、血にも、伝統にも、文化にも還元し尽くせない固有の言語で。

ユニ・ホン・シャープ『ENCORE』公開リハーサル@城崎国際アートセンター(2022.5)photo: igaki photo studio

 

付記
このレクチャー・パフォーマンスの公開リハーサルの後、鑑賞者が自己紹介をしあい、ディスカッションをする機会が設けられた。そこでは、「写された写真はどこまで本当でどこまでフィクションだったのか」、「日本本土と朝鮮半島の関係から日本本土と沖縄の関係を連想した」、「ユニのお辞儀の向きはどちらだったのか」、「朝鮮半島と日本の交流が難しい時代にもつながれてきた崔承喜の舞踊の生命力について」、など多くの意見や感想が聞かれた。このレクチャー・パフォーマンスが多くの観客の想像力を刺激し、多くの問いを喚起した様子を目の当たりにした。

 


*1
パフォーマンスという語自体は、1960年代に頻繁に使用され一つの芸術潮流を成したが、演劇学者エリカ=フィッシャー・リヒテによれば、そこには同時代に発表された言語学者J・L・オースティンの言語行為論も影響しているとされる。オースティンは、言語の機能を「事実確認的(constative)」な言語と「行為遂行的(performative)」な言語に区分けしたことで知られる。performativeな言語とは、誓いや約束など、その言葉を発話することそれ自体が行為となり、発話した瞬間、人々の意識や世界の認識に影響や変化を生じさせる。ジュディス・バトラーは、オースティンのこの概念を援用しながら、固定的なアイデンティティをずらし、作り替える可能性をもつ「パフォーマティヴィティ(行為遂行性)」という概念を創りだした。この概念は、私たちの主体やアイデンティティが規範を引用し、反復する行為によって固く形成されること、一方で、その際にはアイデンティティの規範からの逸脱や転覆も起こりうることを教えてくれる。


*2
私たちは、その頃の崔の踊る姿を『グロテスク』(1926)と題された石井の舞踊作品の記録映像の中に見ることができる。石井漠「マスク」「グロテスク」、島田市
https://www.youtube.com/watch?v=C62Q3n7fV6E(最終アクセス日:2022年6月4日)。この映像は静岡県島田市の公式YouTubeチャンネルで公開されている。以下、動画に付された説明文を抜粋する。「この動画は、島田市名誉市民第一号である故清水眞一氏により、1926年(大正15年)10月3日に東京の三越百貨店屋上で撮影されたものである。「マスク」では、日本の現代舞踏の先覚者である「石井漠」によるソロ舞踏を見ることができ、「グロテスク」では、石井漠に師事して熱狂的な人気を博し、戦後北朝鮮へ渡って消息を絶った伝説の舞姫「崔承喜」の10代の頃の姿を見ることができる。」

*3
徐希寧「在日コリアンにおける『民族舞踊』の継承とその意義−朝鮮学校の民族舞踊部指導者へのインタビューから−」『コリアン・スタディーズ』2022 第10号、国際高麗学会日本支部、2022年。

*4
ジャック・デリダ、守中高明訳『たった一つの、私のものではない言葉―他者の単一言語使用』、岩波書店、2001年。

 

越智雄磨
愛媛大学法文学部講師(芸術学)。日本学術振興会特別研究員、パリ第8大学招聘研究員等を経て現職。博士(文学)。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館においてコンテンポラリー・ダンスに関する展覧会「Who Dance? 振付のアクチュアリティ」(2015-2016)のキュレーションを担当したほか、ジェローム・ベルによるレクチャー・パフォーマンス『ある観客』やロジェ・ベルナットによる『春の祭典』の招聘公演等を企画。編著に展覧会図録『Who Dance?振付のアクチュアリティ』、単著に『コンテンポラリー・ダンスの現在―ノン・ダンス以後の地平』(2020)がある。