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コロナ禍での滞在制作の際に芸術文化観光専門職大学の学生とカナダからオンラインで交流する演出家マリー・ブラッサールと俳優の竹中香子(『Violence』滞在制作、2021年) ©igaki photo studio

〈移動〉と〈重力〉―城崎国際アートセンターと豊岡演劇祭
内野 儀

2022.12.8

AIR(アーティスト・イン・レジデンス)という集まりかた/つくりかた


 城崎国際アートセンター(以下、KIACと表記)がアーティスト・イン・レジデンス(以下、AIRと表記)施設として稼働を始めたのが2014年である。本コラムの読者に説明を要しないと思われるが、自分自身の勉強のためということもあり、また、現在『悲劇喜劇』に連載中のエッセイとのからみもあって、筆者にとって、いわゆる学問的には専門外であるAIRについて、このところ基本から調べる機会があったので、その内容をここでシェアしておきたい。
 時に滞在制作と日本語訳されることもあるAIRは、菅野幸子による2011年時点の定義によれば、

アーティスト・イン・レジデンス(以下、「AIR」)とは、簡潔に表現するならば、アーティストの滞在型創作活動、またその活動を支援する制度といえます。すなわち、アーティストが国境や文化の違いを越え、非日常の空間に身を置き、異なる文化や歴史の中での暮らしや、現地の人々との交流を通して、刺激やアイディア、インスピレーションを得、新たな創作の糧としていく活動なのです。(菅野幸子「アーティスト・イン・レジデンス入門第一回『アーティスト・イン・レジデンスとは』」


そして菅野は入門編にふさわしく、四回にわたるこの記事において、17世紀フランスにおけるAIRの原点にまでさかのぼりつつ、その歴史を丁寧に記述していく。当初は移動がそれほど困難ではないヨーロッパ内の移動であったものが、次第に地理的移動距離を拡大させていったのである(それでも、ヨーロッパへ迎え入れるという非対称性は現時点でも、継続しているとみなすことはできる。)。
 菅野が書くように、AIRでは「国境」や「文化の違い」を越えることが前提になる。したがって、歴史的にいうなら国家間移動が容易になったとされる「ボーダーレスの時代」、すなわち20世紀の後半、なかでもベルリンの壁崩壊以降、ここで中心的にイメージされている美術の創作環境ならびに展示体制(=国際展の数の増化)の変化に伴い、AIRの制度ないしは体制が「ますます必要とされるようになってきた」ことになる。その結果として菅野は、

現在(引用者註:2011年)では、アーティスト・イン・レジデンスは、ヴィジュアル・アートに限らず、映像、ダンス、演劇、パフォーミング・アーツ、文学などほとんどすべての芸術分野にわたり行われており、アーティストに限らずキュレーターや評論家、あるいは美術史の研究者、アート・マネジャーにいたるまでアートに関わるすべての人々が対象となっています。(同上)


としている。単独の作家性がイメージしやすい美術というジャンルだけなく、ダンスや演劇といった集団的な創作についても、AIRが普及していったというのである。「移動の時代」にふさわしい広義の創作のための、つまり調査研究をも含む制度ないし体制である。
 日本語圏における展開については、この連載の第二回「日本のアーティスト・イン・レジデンス」で、こう書かれている。

 1980年代から90年代初頭にかけて、いわゆるバブル経済期に、日本では「ハコモノ」行政と揶揄されるほど全国各地に美術館が建設されました。作品を収容するスペースはできましたが、他方、現代アートの創作過程を見る、アーティストと交流する機会はほとんどありませんでした。
 そこで、海外でAIRを体験したアーティストやキュレーターたちによって、あるいは、海外の文化機関が日本でのAIRの機会を求めて、実験的にAIRが始められました。(同上


やはり美術の分野で、また海外での経験から、日本語圏におけるAIRの需要が高まったというのである。こうして、さまざまな試みが始まっていくわけだが、中でも注目すべきは1997年に文化庁が地方自治体へのAIRの支援を開始したという菅野の指摘である。20世紀最後の「地方の時代」におけるひとつの目玉政策のようなかっこうで、つまり地域振興の一事業としてAIRが支援されたというのである。
 ただし、この事業は2001年には停止されてしまった。そのあたりについて、日沼禎子は2015年、以下のように書いていた。

(略)文化庁の地域振興課(当時)が「アーティスト・イン・レジデンス事業」を1997年に5カ年計画で開始、実際には3年で終了したが、文化庁と関係都道府県、関係市町村の共催で、3~5年間の継続事業を実施した。このように、1990年代から2000年代に開始された自治体主導のAIRに地域特性の活用や教育活動などの「地域貢献」が期待されたのは、当時の文化政策の影響が大きく、ここから日本におけるAIR事業モデル、評価軸が形成されていった。しかし、経済の低迷による税収減の影響や公的事業の評価という課題もあり、地方自治体運営によるAIRは現在、転換期を迎えている。(日沼禎子「はじめにアーティスト・イン・レジデンス:働くこと、生きることについて新たな価値をつくる場」(『ARTS NPO アートNPOデータバンク2014-15』特定非営利活動法人アートNPOリンク、2015年、7-8頁)


現在では想像しやすい「経済の低迷」による事業自体の停止ということのようだが、そもそも「地域貢献」が期待されたのは、当時の文化政策の影響で、日本におけるAIRの事業モデル(そして、その事業を評価するクライテリアは)、この「地域貢献」を軸に形成されていったと日沼はいう。そしてそれが「再開」されるのが2011年である。このときには、AIR助成事業「文化芸術の海外発信拠点形成事業」という名称となっていて、その位置づけは異なっている。その点を日沼はこう書いている。

 2011年には再び文化庁によるAIR 助成事業「文化芸術の海外発信拠点形成事業」(国際課)がスタートし、現在に至る。1997年に始まった助成事業との大きな制度設計の違いは、国際社会への参入、海外における日本文化のプレゼンスを高めることが期待されていることと、NPOおよび民間団体が助成対象とされたことである。また、偶然にもこの新しいAIR助成事業が開始されたのは、東日本大震災という未曾有の災害が起こった年であり、翌2012年からは被災地復興支援の枠組みも設けられ、AIRによる地域社会課題への取り組みも視野に入れられている。
 最も根源的な優れた芸術文化の醸成というだけでなく、地域貢献から社会課題への取り組み、グローバル化のなかでの発信というように、文化政策の変化に応じて、AIR自体の目的も、期待される効果と成果も変化してきたのである。(同上8頁)


長い経済停滞のあげくに、国際的な発信という文化政策の方向転換はおなじみのものだろうが(「クールジャパン」!)、そうした国レベルの〈お題目〉よりも重要なことは、日沼が指摘するように「NPOおよび民間団体が助成対象とされたこと」である。これはつまり、以前のスキームではことを意味し、AIRのより大きな広がりと現場感覚との即応感といったものが、ようやく国の文化政策レベルでも意識化されたということになろうか。ただし、KIACがその代表格のひとつである舞台芸術系AIRということでは、そもそもその相性の悪さがこれまで指摘されなくもなかったことに多少は注意をしておくべきかもしれない。AIRが美術系を中心に発展してきたことにはそれなりに理由があり、劇団やカンパニー制を基本とする舞台芸術系の場合、とりわけ、言語を扱うことが前提の演劇の場合、「国境や文化の違いを越える」(菅野)ことの意味そのものが、なかなか理解されづらいからである。
 それでも舞台芸術系の分野では、AIRを実施する組織がたしかに近年増えつつあり、2020年には「舞台芸術AIR研究会」が発足し、同年8月から21年3月にかけて研究会や調査を実施した。そしてその結果は、活動報告書「舞台芸術におけるアーティスト・イン・レジデンスの現在」にまとめられて公表されている。
 舞台芸術系とAIRとの相性ということでは、本報告書の総括的第三章「舞台芸術におけるアーティスト・イン・レジデンスの特徴と役割」にはこういう記述がある。

(略)アーティスト・イン・レジデンスという名称が必ずしも使用されていないが、劇場では、それ以前から公演を前提とする滞在制作が行われている。例えば、静岡県舞台芸術センターは劇場の開館から滞在制作を事業の軸としている。その他にも、数多くの公共劇場や小劇場で滞在制作は従来から行われている。(41頁)


つまり、公演を前提として滞在制作、要するに作品制作を目的化したものであれば、これまでもあったというわけである。ただし、AIRと滞在制作を同一視してよいかどうかは自明ではなく、だからこそ、AIRという「外国語」が現在、普及してきているという事情がある。作品創作だけを目的としない「新たな創作の糧」(菅野)を得る機会としてのAIRである。この報告書では、近年におけるそのあたりの展開を次のようにまとめている。

劇場では、公演を目的とする滞在制作が古くから行われてきた歴史があるが、アーティスト・イン・レジデンスとしては、公演等の発表だけでなく、そのプロセスに焦点を当てた創作支援も大きな目的の一つである。近年では、一つの作品の創作を長期的に取り組むアーティストも増え、そのニーズも高い。(同上)


発想の転換というべきだろうか。限られた滞在期間に、いわゆる初日が決まった期日を目指して、無理矢理にでも創作に取り組むのではなく、長期的なビジョンのもとに、AIRを活用しながら創作活動を行う舞台芸術系アーティストが増えてきたというのである。

  城崎国際アートセンター・スタジオ1 photo by bozzo


舞台芸術系フェスティバル文化の新展開


 ここまで簡単にAIRの歴史的展開について見てきたが、AIRが20世紀後半から急速に世界的に発展してきた背景には、既に書いたように、ベルリンの壁崩壊以降の新たな段階のグローバル化による国家間移動が容易になったという事情が当然考えられる。美術における国際展だけでなく、ヨーロッパ各地の舞台芸術系のフェスティバル文化の多様化が始まったのである。
 ヨーロッパの演劇祭と言えば、第二次世界大戦後すぐにはじまったスコットランドのエジンバラ演劇祭(1947~)やフランスのアヴィニヨン演劇祭(1947~)、さらには同じフランスの諸国民演劇祭(1957~1972)から展開し、現在はドイツで3年に1度開かれている世界演劇祭(Theater der Welt、1981~)など、巨大な規模をほこる演劇祭がよく知られている。しかし、新たなグローバル化の時代を迎え、そうした演劇祭は規模をより一層拡大する一方で、冷戦終結後の1994年に始まったベルギー・ブリュッセルのクンステンフェスティヴァルデザールやルーマニアのシビウ国際演劇祭をはじめ、ヨーロッパ各地において、大小様々なそれぞれ性格を異にする演劇祭が百花繚乱状態になってもいったのである。
 AIRの隆盛とこうした舞台芸術系のフェスティバル文化の発展の因果関係はそれほど明確ではないにせよ、「移動の時代」になったことはまちがいないだろう。ヨーロッパの場合、そこに1993年の欧州連合、いわゆるEU(現在の加盟国は27)の成立という歴史的事象があり、通貨統合も進むなか、字義通り、地域内の移動が容易になったのである。
 移動のモメントは文脈の〈交錯〉を導き、文化的差異の〈交渉〉を必須化する。そして、グローバル化時代における〈交錯〉と〈交渉〉は、複数のアクターがアトランダムに主体化しつつ、一時的な接合を果たすことによって、カオティックなシーンを生み出すことになった。先進と発展途上、中心と周縁、西洋とその他(the rest)、芸術とエンターテイメント、現代と伝統といった20世紀までは自明だった二元論が脱構築されたのである。
 日本語圏の演劇でそのことを体現してみせつづけているのは、21世紀に入ってからの大陸ヨーロッパのフェスティバル文化の寵児になった劇作家・演出家、岡田利規が主宰するチェルフィッチュである。『三月の五日間』(2004)で岸田戯曲賞を受賞、直後に新国立劇場へ新作(『エンジョイ!』(2006))を提供したりはしていたものの、岡田の評価は日本語圏の演劇業界内では低いままで、ある種特殊日本的な才能だという評価が中心であった。ところが、『三月の五日間』が上記クンステンフェスティヴァルデザールに2007年招聘されて大ブレークを果たす。岡田に同時代的才能を見出した大陸ヨーロッパの芸術監督やプリゼンターたちがこぞって招聘を試みただけでなく、新作のクリエーションを委嘱したのである。それが2008年初演された『フリータイム』であり、クンステンだけでなく、ウィーン芸術週間とフェスティバル・ドートンヌ(パリ)の国際共同制作であった。つまり、ヨーロッパのフェスティバルで上演するために、この三つの演劇祭の資金によってチェルフィッチュはAIR・・、北九州でのリーディングと東京での試演会を経て、ブリュッセルで初演という道筋で、同作の創造を行ったのである。
 ここで注意すべきは、これまでも海外の演劇祭から招聘される劇団やアーティストは数多くいたが、それとは異なる「呼ばれ方」だったことである。『三月の五日間』の場合は、そもそも海外公演など意識せず、国内的な文脈で作られた作品だった。そしてそれが、〈海外の眼〉によって選ばれて作品が招聘されている。これが通常の「呼ばれ方」であり、いまでも海外公演という場合、それがデフォルトだろう。つまり、ある具体的な地理的・文化的文脈に根ざして作られた作品が、何らかの理由で、その文脈にはいないけれども招聘に決定権をもつ専門家の眼にとまり、で、別の文脈において、あるいは別文脈に接ぎ木されて上演を行うわけである(その切り離し方が暴力的である場合、文化盗用とか文化帝国主義と呼ばれることもある)。西洋近代特有の「芸術の普遍性」が信じられている時代であれば―あるいは、いまだにそれが信じられている文脈内部/同士だからこそ―可能な方式である。
 しかし岡田/チェルフィッチュは、その次の段階で、海外で初演する作品のクリエーションを委嘱されたのである。劇作家あるいは演出家として、その才能を見出され、個人として招聘されて現地のアーティストと共同制作するのであれば、それもまた、これまであった「呼ばれ方」であろう。ところが、岡田の『フリータイム』については、日本語で新たに戯曲を書き、日本語を話すチェルフィッチュの俳優とのリハーサルと試演会的上演を経て、海外の演劇祭で初演を迎える作品だったのである。そしてそのための資金を、ヨーロッパの複数のフェスティバルが全面的に提供する。その場合、岡田は当然、上演される三つの演劇祭の観客(という固有の文脈)を視野に入れたクリエーションを行うことにもなる*¹。
 このようなフェスティバルにおける新作の委嘱がいつから始まったのか調べきれてはいないのだが、EU内のような近似的な文化圏内であれば当時もすでに珍しくはなかっただろうし、美術の国際展ではむしろそちらのほうが支配的になっていることは想像に難くない。しかし、「外国語」で上演される演劇を、クリエーター集団を信じて制作を委嘱するという新しい「呼ばれ方」だったのではないか。というのも、固有の文脈で創作された作品を脱文脈化して別文脈で提示するというこれまでのやり方は、実は「移動の時代」にふさわしくないからである。たしかに作品は移動している。しかし、元文脈はクリエイターサイドのなかで消えたわけではないにもかかわらず、観者/観客がそれを見る/体感する保証はない。
 こうした少なくとも当時は新しい「呼ばれ方」が登場してきたのには、「移動の時代」だからこその個別の文脈の問題、あるいは藤原ちからの言葉を借りれば、〈重力〉の問題が関係していたと思われる。〈移動〉だけでなく〈重力〉にも、人びとの関心が向いてきたのである。大きな時代思潮としてのポスト近代的な相対主義の時代が、と言い換えてもよい。

  ノイマルクト劇場(スイス)と市原佐都子/Qによる国際共同制作『Madama Butterfly』(2021年)©Philip Frowein


〈移動〉と〈重力〉


「移動の時代」はグローバル化の時代であり、それはいわば資本主義の運動性と寄り添うようなアート/アーティストの現象的なありようをも指し示す。その運動性のもたらす急激な変化、なかでも経済格差の「飛び地化」―先進国内部における貧困問題の定着と拡大―「第一世界」内における「第三世界」の出現と空間的分離―に対抗して、グローバルではなくローカルが称揚されることもあった。日本語圏では、グローバルに対抗していることが必ずしも明示的でない「地域」という語によって肯定的に喚起される諸事項・事象である。いうまでもなくローカルとは、本来不可逆なグローバル化の隠蔽であり、本質主義/アイデンティティ主義に回帰するほかなかったことは多くの識者の見解が一致するところであろう。つまり、結局、ローカルを言いつのることはグローバル化を相互補完的―〈分断・・によって・・・・―に強化するだけである。
 しかしここで問題にしたいのは、そうしたグローバルとローカル、あるいは、その統合可能性としてのグローカルといった雑ぱくかつスタティックな二項対立的概念ではなく、〈移動・・〉と〈重力・・〉という身体とも複雑にかかわる物理的特性である。すでに言及した藤原は、〈重力〉でなくグラヴィティという言葉を使って、「移動の時代」の問題を、AIRの普及とも関連させながら、次のように論じている。

(略)このAIRが普及していった10年間において、アーティストがグラヴィティから逃れて自由になったのかというと、そうではなく、むしろ新たなグラヴィティに直面することになりました。地域住民やコミュニティとどのような関係を生み出すか、という問題が生じたからです。(略) 
 ここで押さえておきたいのは、モビリティの獲得によってグラヴィティを回避できると考えるのは幻想にすぎない、ということです。地球上のあらゆる場所にそれぞれ固有のグラヴィティがある。しかもラップトップやスマートフォンを通して、それは地の果てまで追ってくるでしょう。(藤原ちから「これから演劇を始める人のための演劇入門 第3場 モビリティとグラヴィティ」


モビリティ=移動性の獲得は、多様でしかあり得ないグラヴィティ=重力を意識的・無意識的文脈として抱えてしまうというのである。その結果、

もしかすると「あなたの拠点はどこですか?」というシンプルな問いにさえ、彼ら〔引用者註:原文ママ〕はうまく答えられないかもしれません。なぜなら彼ら〔引用者註:同上〕は複数のグラヴィティの影響を受けながら、それらの「はざま」に生きているからです。都会と島とのあいだに。いくつかの地方都市のあいだに。この国とあの国のあいだに……。言語、時計、法律、宗教、習慣……この世界にはいろんな差異がありますが、彼ら〔同上〕が生きるのはその「はざま」です。ひとつだけの場所ではないのです。(同上)


このように藤原は2019年の時点で書いていた。言い換えれば、複数の文脈を同時にあるいは時差とともに引き受けながら、「はざま」を/で動き続けること。「移動の時代」のアーティストは、そのような心構えが必要されるといったらよいだろうか。では、この「はざま」を/で生きる心構えのアーティストにたいしてAIRは何を提供できるのか。
 国際展や(欧州中心の)フェスティバル文化が移動のモメント・・・・・・・を所与として展開するようになったとするなら、AIRは、さまざまな意味での〈重力〉の問題を消去したりあるいはその逆に可視化したりといった、準備段階を用意する役割をまずは期待されるだろう。AIRの経験が、「刺激やアイディア、インスピレーションを得、新たな創作の糧」(菅野)となることが前提であるからだ。しかし、いつまでもAIRを繰り返すことは考えにくいので、いずれは作品化をする必要がある。その場合、その作品はどこでどのようなかたちで公開していくのか。その作品―その作品がどのような文脈で公開されるのかということも含め―とAIRの関係はどうあるべきなのか。そこでは〈移動〉と〈重力〉はどのように扱われているのか。

  ハイドロブラスト『最後の芸者たち』の滞在制作時に城崎の「最後の芸者」である「秀美さん」に芸を習う出演者たち(2021年)©igaki photo studio


AIRと演劇祭―KIACと豊岡演劇祭を事例に(1)


 KIACの場合、管見では、AIRはいわゆる基本公募でまたプロジェクト単位であり、特定の劇場やフェスティバルと結びついているわけではない。それでも、2019年からの豊岡演劇祭の開催と2021年に豊岡市に開学した芸術文化観光専門職大学とどのような関係性を作っていけるのかが、短・中期的には重要な課題となろう。
 2022年9月15日から25日までの期間で開催された豊岡演劇祭2022には、KIACでのAIRとかかわる作品が5作品あった。公式プログラムとして、1)平田オリザ作・カミーユ・パンザ演出による『思い出せない夢のいくつか』(エルザッツ)、2)KIAC芸術監督の市原佐都子作・演出による『Madama Butterfly』(ノイマルクト劇場+Q)、3)大塚健太郎作・演出『光環(コロナ)』(劇団あはひ)の三作品。さらに、フリンジプログラムとして、4)武本拓也作・演出『いもりを見た』『ドキュメント・ヒア』と、5)太田信吾作・演出『最後の芸者たち』(ハイドロブラスト)である。このうち筆者は、演劇祭第2週後半に上演された3作品―上記2)3)5)―を観ることができた。
 本稿は劇評を書く目的ではないので、それぞれの上演を詳細に分析評価することはしない。それよりむしろ、この三作品はこれまで書いてきた日本語圏におけるAIRの可能性を、どのようなアウトプットとして実現しているかについて、概観しておきたい。
 市原の『Madama Butterfly』は、スイス・チューリッヒにあるノイマルクト劇場と市原が主催するQの共同制作となっている。市原自身は、あいちトリエンナーレ2019からの委嘱された前作『バッコスの信女 ― ホルスタインの雌』制作時にKIACのAIRを経験済みで、新作についても2021年にKIACでAIRを行っている。その後、チューリッヒとミュンヘンで初演。2022年にはウィーン芸術週間、インパルスフェスティバルをツアー、さらに、日本初演はロームシアター京都、そして最後に豊岡演劇祭での上演となった。使用言語は日本語、英語、およびドイツ語である。
 タイトルが示すとおり、原作小説がオペラ化されて有名になった『蝶々夫人』をベースにしつつ、基本的に今も変わらぬ欧米から日本女性への植民地主義的視線とそれを内面化した日本女性の現在性を縦横無尽、かつ批評的に演劇化した意欲作である。いや、「革命的逆襲」(水上文)という評もあった。この場合の逆襲とは、「ジャコモ・プッチーニのオペラ『蝶々夫人』が内包する男性/西洋中心主義への時を超えた反逆であると同時に、未だその視線を内面化してやまない現代の私たち自身に対する皮肉に満ちた風刺であり、だからこそ革命的である」という意味での「革命的」である(水上文「革命的逆襲」)。
 AIRとの関係でいうなら、KIACでの滞在制作中(21年6月24日~7月12日)にリーディングの会が開催されて意見交換会などが開かれている。その一方、ヨーロッパ初演後、22年初頭の日本での初演予定(東京でのシアターコモンズ22とロームシアター京都)はコロナ禍の影響でキャンセルされるなど、内容面より制作プロセスにおいてパンデミックの影響を強く受けた作品でもあり、KIACないしはAIRと国際共同制作の典型例とはなりにくいかもしれない。
 しかし、本作品の詳細な長文劇評を書いた本橋哲也も指摘するように、KIACにおける滞在制作とノイマルクト劇場での(滞在)制作を経て、ヨーロッパ初演(21年9月)にいたる多層的かつ複数的な作品だったことは銘記されるべきである。

(略)この劇の多層的な構造を分析したからと言って、拙稿では市原がさまざまな差別に対する相対主義(西洋人も日本人もどっちもどっち)を標榜していると言いたいわけではない。実際にこれだけの作品を書いて、スイスで多国籍の俳優やスタッフとともに舞台を制作することに従事する市原にとって、相対主義を傘にして嵐を避ける余裕などある筈もないだろう。『Madama Butterfly』は彼女自身の苦闘や苦渋のクロニクルでもあり、しかしそこには、きわめて巧妙で賢明な、しかし際どい劇的戦略と知性とによって、告発にも露悪にも、センチメンタリズムにもコンフェッションにも陥らない工夫がなされているのだ。(本橋哲也「アイ・デンティティの沼にはまって―ノイマルクト劇場+市原佐都子/Q『Madama Butterfly』」)


ここで本橋が書く「彼女自身の苦闘や苦渋のクロニクル」は、市原の個人史というより、テクストを書きつつ、かつまた「スイスで多国籍の俳優やスタッフとともに舞台を制作する」ことにおける「苦闘や苦渋」である。ここでの「スイスで」には、本橋は意識していないかも知れないが、KIACでの滞在制作も当然、含まれるだろう。ただし、実際には、コロナ禍の影響があり、「当初スイスから日本に来日しての滞在制作を予定していましたが、コロナ禍により日本チームのみの滞在制作に変更」(http://kiac.jp/event/351/)とKIACのHPには掲載されている。時系列としては、KIACでの滞在制作後にスイスでのリハーサルを行って上演に至ったことになる。
 2008年の岡田利規/チェルフィッチュが『フリータイム』で切り開いた〈移動〉と〈重力〉のバランスの上に成り立つ国際共同制作=「呼ばれ方」は、市原/Qにおいては、コロナ禍にあっても、このレベルまで発展・展開してきているのである。KIACはその制作プロセスに自然に溶け込み、そしてまた、こうして時系列的・地理的紆余曲折を経てたちあがった作品が、豊岡演劇祭でひとまず最終的な上演を果たすことになったのである。

 ノイマルクト劇場+市原佐都子/Q『Madama Butterfly』(2022年、城崎国際アートセンター)©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会


AIRと演劇祭―KIACと豊岡演劇祭を事例に(2)


 市原のスケールの大きな国際共同制作とはある意味対照的だったのが、劇団あはひの『光環(コロナ)』であった。この劇団は1998年生まれの6名によって構成されたアーティストグループとして2018年に結成され、2020年には東京下北沢の本多劇場に史上最年少で進出する(劇団紹介による)。つまり、いわゆるまったくの若手ありながら、東京の小劇場演劇という特定のジャンル内にあって、かなりの速度でジャンル的頂点(=学生演劇から本多劇場での公演へ)に到達していることが、その大きな特徴となっている。
 KIACでは2021年8月と10月にAIRで滞在。そのときの作品名は『Letters』となっていて、神奈川芸術劇場(KAAT)で同年11月に初演された。ここにあるタイトルは、エドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』を原案にしているためである。しかしその2回目の10月の滞在期間中、以下のようなことが起きたと作・演出の大塚健太郎は書く。

10月、二度目の滞在の終盤で、まだ制作中だったシーン断片の試演会を行った際に存在し、11月の本番では削除されていたテキストがあります。
そのテキストを今一度丹念に読み直し、そのうえで「Letters」の主題にテキストと身体の両面から迫っていった結果、本作のまったく別の面が露呈してきました。
能の構造を援用し、「Letters」という作品が本来持っていたポテンシャルをさらに引き出していく作業を繰り返した結果、もはや別作品としか言いようのない、しかし明らかに「Letters」の本来の姿、とでもいうべき全体像が浮かび上がりました。
これは新しい、しかし初演が潜在的に含んでいた本当の「Letters」です。
その作品を、2022年4月の池袋で、新たに「光環(コロナ)」として上演いたします。
これは、コロナ禍を経験したすべての人に送るわたしからの手紙です。
大塚健太郎「『Letters』タイトル変更のお知らせ」)*²


 劇団あはひ『Letters』試演会(2021年、城崎国際アートセンター)photo by bozzo

『Letters』は2022年4月に東京池袋の芸術劇場主宰の「芸劇eyes」に招聘されて再制作されたさい、引用にあるように『光環(コロナ)』となった。そしてその作品が、さらに改変を加えられ、9月の豊岡演劇祭でも公式プログラムの作品として上演されたのである。
 作・演出の大塚の特徴をひとことでまとめるならば、とでも言えようか。形式として参照というより借用される能にしても、テクスト中に登場するツェランやボードレール、さらには散文作家としてだけではなく「ユリイカ 散文詩」や「大鴉」の詩人としてのポーに加えてデリダが出てきてしまうと、20世紀後半の文学部的あるいは文学研究的教養が、いわば無媒介に回帰してきた不思議な感覚をわたしなどには与えることになる。それよりなにより、ここでは災厄や亡霊、死や宇宙といった近代的普遍のテーマ系が、あざとくなくだからといって素朴でもなく、、浸透しているのである。
 本作にも藤原央登によるかなり長文の劇評が池袋での上演後に書かれている(藤原央登「他者の言葉や想いを『誤配』されることの意味について」)。しかし、AIRとの関係で注目しておきたいのは、すでに大塚自身の言葉を引用したように、KAATでの上演時『Letters』であったものが、『光環(コロナ)』に変わったことである。KIACでの滞在制作中にがあり、KAATでの公演後、その部分を「丹念に読み直し」「テキスト〔引用者註:原文ママ〕と身体の両面から迫っていった結果、本作のまったく別の面が露呈してきました」のだという。『Letters』ではスタイリッシュで現代的だったセノグラフィが、余計なものをそぎ落とされて、よりシンプルなものへと変化したのである*³。
 KIACに滞在中、具体的にどこがどう削除されたのかわからないので、滞在制作そのものが『Letters』から『光環(コロナ)』への変化とどうかかわるのか正確にはわからないし、わかったところで、何か意味がある議論に繋がると考えているわけではない。しかし、滞在制作中にをもう一度読み直そうと、しばらく時間を経て再演を構想する段階で考えたという時間と空間の連続性・継続性が興味深いのである。つまり、大塚にとって、KIACでの滞在制作には、地域的あるいは場所的〈重力〉が、少なくとも明示的にはかかっていないと見なせるのではないか。いい悪いの問題ではなく、それだけこの世代のアーティストにとっては、〈移動〉は自然化しており、必ずしも滞在制作の地理的・制度的〈重力〉とともにあるわけではないし、また、あるべきだともかぎらないのである。それでも、AIR時の試演会まではあったテクストを復活させることで、別の作品になった『Letters』/『光環(コロナ)』が、上演空間は異なるとは言え(試演会はKIAC内で行われたが、豊岡演劇祭の上演は芸術文化観光専門職大学静思堂シアターだった)、ことがなにより新鮮である。

 劇団あはひ『光環(コロナ)』(2022年、芸術文化観光専門職大学 静思堂シアター)©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会


AIRと演劇祭―KIACと豊岡演劇祭を事例に(3)


 最後に取り上げるのは、『光環(コロナ)』とは正反対に、地域的あるいは場所的〈重力〉そのものが作品化した例である。太田信吾作・演出の『最後の芸者たち』は豊岡演劇祭フリンジ【Selection】に参加。すでに論じた『Madama Butterfly』にも出演していた竹中香子に加えて太田自身も出演した。本作は2022年の5月と7月の2期に分けて滞在制作されたものだが、それ以前の21年、竹中とKIACの関係が、起点となっている。竹中と太田の出会いと本作のクリエーションにいたる過程については、本論が掲載される予定のKIACホームページに詳しいエッセイを竹中自身が書いている(竹中香子「『身体を〈記録メディア〉として活用する』:俳優の視点から」)。詳しい経緯はしたがって、竹中の滞在制作にかかる理論的かつ内省的な記述にゆずるが、簡単にまとめておくと、以下のようになる。
 コロナ禍の影響で別プロジェクト(マリー・ブラッサール『Violence』)の滞在制作が2020年にコロナ禍で延期、次年度の21年に遠隔で行われることになったため、KIACの滞在制作に参加していた竹中が、映像監督として招聘された太田信吾と会うことになったのが始まりだった。太田にとっても、「結果的にその後城崎と深く関わっていくきっかけになった」(同上)という。そして、この遠隔によるAIR終了のわずか3ヶ月後、竹中と太田は城崎に戻ってくる。『最後の芸者たち』とは別に、太田が監督し竹中が出演する短編映画『現代版 城崎にて』の撮影をするためだった*⁴。
 こうして城崎に馴染んで・・・・いくなかで、本作のテーマとなった温泉街の芸者文化への興味を太田がもち、タイトルにある「最後の芸者」である「秀美さん」に取材を行ったという。そこから、たとえば、秀美さんのもとでの日舞のお稽古などに竹中は参加するようになる。太田は太田で、KIACでの滞在制作に向けて、「全国の芸者さんをリサーチする旅に出た」(同上)。そして、「身体を〈記録メディア〉として活用する」というコンセプトが作られたという。

今までカメラを用いて記録してきた映像を、身体をカメラとして扱い記録することはできないか。実際、お座敷は個人のお客様がクライアントとなって、芸者さんを呼んで時間を過ごす場所なので、カメラで撮影することは非常に難しい。ならば、私たち自身がカメラとなり、記憶と時代と想像の「記録媒体」となった私たちの身体を通して、作品を観客の前に現出させるのだ、と。(同上)


 ハイドロブラスト/Hydroblast『最後の芸者たち』 photo by bozzo

こうして『最後の芸者たち』は、2022年9月、東京(plan-B)、大阪(3U4階、「路地裏の舞台にようこそ2022」参加)、そしてKIACのスタジオ1での上演が行われることになった。
 芸者の日常が特に物語性を伴わずにカットアンドペースト的につながれていくのがこの作品の基本的ドラマトゥルギーなのだが、に対する常時両義的な振幅のなかで上演は進行する。パフォーマーの2人が身につけた芸者的な芸(=踊りや唄)と思われるものをそのまま披露していると思われる場合も多々あるが、そのパフォーマンスに自己耽溺性がほぼ皆無であるので、そこにへの距離(=批評性)が感得できるような演出がされているといえばよいだろうか。竹中自身は、俳優が演じる役に同化する一般的な演技の考えを能動態としつつ、今回の演技は中動態を意識したと上記のエッセイで書いている。言い換えれば、当初のコンセプトにあるとおり、竹中と太田の身体をカメラとして扱って記録したものが、ある種の濃淡と深浅の振幅をはらみながらも、ただ並べられていく/つながれていく上演である(竹中自身は創作プロセスで記録された身体の記憶/記録を上演で「現像していく」という言い方をしている*⁵)。
 ただし、本作の通し稽古を見て山田淳也が書いたレポートで指摘されるように、「一見曖昧なまま終わっていくようにみえるが、この劇はだんだんとあるテーマをクリアに訴えかけ始める」。そしてそれを山田は、『日本という国がさらされている「眼差し」日本自身が日本へと向ける「眼差し」について』」だと書いている(山田淳也「『買われる』私たち、眼差しの関係~「最後の芸者たち」通し稽古を見て」)*⁶。直接的にはたとえば、東京オリンピック招致が決定した会議時の滝川クリステルによるよく知られた「おもてなし」スピーチ(フランス語)が語られたりすることだが、それは声高な告発や批判というより、上演の通底音、あるいはとでも呼ぶべき仕掛けである。というのも、太田は本作のプログラムノートで書くように、

私は作品そのものが直接的な告発やイデオロギーとなることに抵抗があります。
舞台芸術やドキュメンタリーに備わる社会を批評性をもって見つめるための鏡としての機能を信じています。
時代の記憶を宿すメディアとしての踊り。
一方で、時に高額な代金、お座敷という閉鎖空間で、権威や見栄を保つためにそれが浪費される踊り。
一筋縄には語れない芸者文化への複雑な思いを、この作品に込めました。


 からなのだ。
 こうして、ある意味偶然に偶然が重なって上演に至った『最後の芸者たち』だが、その偶然を〈移動〉するアーティストが〈重力〉として感じつつ、かつ作品化するという「移動の時代」にふさわしい、AIRを積極的に活用したクリエーションの方法だったと言ってよいのではないか。そして城崎という〈重力〉を最大限に受け止めた竹中香子と太田信吾を中心にした創作チームにとって、最後の上演機会ではないにせよ、をKIACのスタジオで行えたのは、豊岡演劇祭というフレームワークがあったおかげだとも言えるのである。竹中は上記エッセイをこう締めくくっている。

つながりがつながりを呼び、創作の外にまで関係性が広がっていったのは、まさに、KIACという場所の特性であると思う。KIACレジデンスアーティストであることは、1年のうちのほんの数ヶ月なのだが、いつ城崎にもどってきても、喫茶店や温泉、道端で、地元のような居心地の良さを感じた。KIACから始まった私たちの「大冒険」に感謝を込めて。(同上)


「つながりがつながりを呼び、創作の外にまで関係性が広がってい」くこと。AIRの醍醐味はそこにある。そして、豊岡演劇祭の存在は、『最後の芸者たち』にとって、この連鎖するつながりの重要な構成要素になった。もちろん、「外」はほかにもある。そのことさえ忘れなければ、〈移動〉は、複数の〈重力〉の場を巻き込みながら、持続可能となる。

 ハイドロブラスト/Hydroblast『最後の芸者たち』(2022年、城崎国際アートセンター)©igaki photo studio



*¹ このあたりの状況については、岡田自身が書いたエッセイがある。『フリータイム』については、「気負いと警戒心と」を参照のこと(岡田利規『遡行―変形していくための演劇論』河出書房新社、2013年、151-55頁)。
*² 劇団あはひに制作過程を尋ねるメールをしたところ、以下のような作品創作の進行状況が、作・演出の大塚氏から2022年11月24日付けで届いた。ここに転載しておく。
「2021年8月 一度目のKIAC滞在制作。KIAC内スタジオにてアーティストトーク実施。
2021年10月 二度目のKIAC滞在制作。試演会として、制作中の『Letters』から2つのテクスト(A,B)を抜粋して上演。
2021年11月  KAAT神奈川芸術劇場大スタジオにて『Letters』上演。2021年10月の試演会で上演した2つのテクストのうちテクストAはブラッシュアップしたうえで作品内に取り込み、テクストBは削除。
2022年1月 『Letters』再演に向けた稽古開始。初演時に削除されたテクストBの復活を視野に改稿を重ねる。
2022年4月   改稿の結果、初演時の『Letters』からテクストAを含むほぼすべてのテクストが消滅。登場人物や設定の一部を引き継いだ新作として『光環』に改題して東京芸術劇場シアターイースト(芸劇eyes、「劇団あはひレパートリー公演『流れる』と『Letters』」)にて発表。その際にテクストB復活。同月20日、両作共通の舞台である「4月20日の海岸」として、KIACからほど近く、2021年の滞在制作期間にも何度か訪れた兵庫県竹野浜海岸にて『光環』上演。
2022年7月 金沢21世紀美術館シアター21(アンド21)にて『光環』上演。2022年4月の『光環』初演時より演出を大幅に変更(出演者が4人から2人に、巨大なハーフミラーに映像を投影、など)。テクストには大幅な変更なし(既存訳を用いていた一部引用テクストを拙訳に変更など)。
2022年9月 芸術文化観光専門職大学静思堂シアター(豊岡演劇祭)にて『光環』上演。2021年10月のKIAC試演会以来さまざまに変容した『Letters』『光環』群から演出を引用。テクストに変更なし。」これを見ると、豊岡演劇祭の前の段階でも演出が変更され、わたしが観た演劇祭のバージョンは、「2021年10月のKIAC試演会以来さまざまに変容した『Letters』『光環』群から演出を引用」しているという。なお、強調は引用者による。
*³ 『Letters』 については、たとえば、「中西理の下北沢通信」に書かれた劇評があり、舞台写真は掲載されていないものの、その概要を知ることができる。
*⁴ 同作品は2022年「まるっとみんなで映画祭in Nasu」で特別上映会(11月7日)後、期間限定配信上映。12月には豊岡劇場でも上映予定である。
*⁵ 「そして、迎えた「最後の芸者たち」の公演。能動的に、他者の状況を解釈し、自身の身体で表現していくことを『演技』、演じる技と呼ぶなら、今回、身体をカメラとして常に物事に巻き込まれながら、そして、本番もまだ巻き込まれ続けている私の身体は、『現技=そこに現出させる技』とも言えるような中動態的状態であった。それは、フィルムとなった自身の身体を公演ごとに観客の前で『現像』していくような不思議な感覚であった」(同上)。
*⁶  本稿では、芸術文化観光専門職大学とKIACのAIRプログラムとの関係についてはあまり触れることができなかったが、この山田が発表したレポートのように、現役の学生がKIACでの試演会や通し稽古等に参加する機会は多々ある。本作では、公演当日配布されたプログラムのなかに、「鑑賞ノート 創作中に交流した大学生から寄せられた感想」が掲載されており、そこに山田の文章も含まれていた。山田は芸術文化観光専門職大学の1年生である。こうした現役の学生との関係は、きわめて生産的かつ重要だと思われる。



内野 儀(うちの・ただし)
1957年京都生れ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。博士(学術)。岡山大学講師、明治大学助教授、東京大学教授を経て、2017年4月より学習院女子大学教授。専門は表象文化論(日米現代演劇)。著書に『メロドラマの逆襲』(1996)、『メロドラマからパフォーマンスへ』(2001)、『Crucible Bodies』(2009)。『「J演劇」の場所』(2016)。TDR誌(ケンブリッジ大学出版)編集協力委員。公益財団法人セゾン文化財団評議員、公益財団法人神奈川芸術文化財団理事、福岡アジア文化賞選考委員(芸術・文化賞)、ZUNI Icosahedron Artistic Advisory Committee委員(香港)。2022年より城崎国際アートセンター「アーティスト・イン・レジデンス・プログラム」選考委員。