ARTICLES記事

ノイマルクト劇場&市原佐都子/Q 『Madama Butterfly』©Philip Frowein

『マダム・バタフライ』異/異聞(1/3)
熊倉敬聡

2023.6.18

《その不器用な英語力に負った特異な詩作で、アメリカ詩壇に認められ始めていた野口米次郎は、1901年の冬ニューヨークで、自らの英文の手直しをしてくれる助手を求める新聞の求人広告に応募してきたレオニー・ギルモアと出会う。米次郎は、彼女にまず書きためていた英詩の手直しを依頼するが、その1ヶ月後やはり執筆中の小説「お蝶さん日記」の推敲・書き直しを懇望する。
 レオニーは、プリンマー大学――男女同権の信念にもとづいて設立され、男子エリート大学と同等の質の高い教育により、教師や学者などの専門職につく女性を育てあげることを目的としたプリンマー大学を卒業していた。ジョルジュ・サンドなどの作品も翻訳したとされる、女性解放思想にめざめた、当時の「ニュー・ウーマン」の一人であった。》*¹


 どこまでもフラットな、スーパーフラットな「日本人」の女の顔。ただでさえ平べったい造作が、映像という物理的に限界的な薄さに同一化することなく同一化し、それがこともあろうか・カラス――この、古代ギリシャ彫刻を彷彿とさせる造形美をたたえたギリシャ系移民の歌姫が、限りなく繊細に絶唱する「ある晴れた日に」の強度によって、歪み、撓み、引き攣れ、デフォルメする。
 暗転後、鬱蒼と生命を湛えるかのような、がこれまた物理的に極薄のCG映像の緑鮮やかな森かジャングル様の背景=トリプティックに取り巻かれて、一人の、ファッションセンスのかけらもない出立ちをした「おばはん」が、「関西弁」を弄して、自らの、「白人=アメリカ人」へのコンプレックスをこれでもかと捲し立てる。平べったい顔、ほっそい目の日本人の「外見」を慨嘆し、そして、向かって右手に立ち現れた、自らの、「ギャル」的風情をしたアバターによる、「人間は『外見』より『中身』が大事よ」という「正しい」主張をせせり笑いながら、劣等感に身悶える。どうやら、100年後の「蝶々さん」*²
 と、今度は左手に、真っ赤な「ボディコン」風なワンピースを着、金髪の、メリハリの効いたボディをひけらかす白人=アメリカ人女性(戯曲によるとピンカートンの妻ケイトの100年後のアバター)が現出。彼女もまた、「外見より中身が大事」となぜか日本語で、さらに21世紀版蝶々のコンプレックスを逆撫でする。セーラームーン――日本のアニメのキャラなのに、どうして金髪で、肌が白くて、でっかい目なのかと首をひねる蝶々が、あんたのほうが外見似てるからセーラームーンにコスプレしてくれと懇願し、ケイトは変身。(そういえば、ピンカートンは「セーラー」だった。でもなんで日本の多くの女子校の制服はいまだ「セーラー服」なのか? 確かに昨今は「日本」より「欧米」の若者の方が日本のアニメのキャラを好んでコスプレするかも…。)すでに、一筋縄ではいかぬ、「外見」と「中身」の二元論をなし崩しにする「コスプレ」の「マルチカルチュラリズム(批判)」の予感?
 「白人」の「中身」は、キリスト教ちゃうやろか、と、でもなぜか蝶々は、正確を期すように自分は長崎ではなく佐世保に生まれ、そのほど近くには、大浦天主堂があり、そこにはかの有名な「日本乃聖母像」があったと、そういえば自らの背後に冒頭から陰に佇んでいた白亜の彫像を指し示す。

©Philip Frowein

 すると、左手に、神父然とした「外人」のアバターが現れ、フランシスコ・ザビエルと名乗る。蝶々に「アメリカ人?」と訊かれ、いや「ポルトガル人」と正したザビエル。自分が日本に初めてキリスト教をもたらし、がやがて弾圧され、長崎のキリスト教徒も以後約200年ものあいだ「仏教徒」を装い(コスプレ?し)、「隠れ」ていたが、200年後「信徒発見」の「奇跡」と謳われ、フランス人のプティジャン司教から贈られたのが、この「日本乃聖母像」=純白のマリア像。すると、右手に、この像を初めて見た「6歳の蝶々」がひょっこり現れ、なぜだか「I am Maria」と宣う。
 ザビエルの消えた左手には、今度、キモノを着崩した外人のアバターが現れ、フランス人のジョルジュ・ビゴーと名乗る。なんでいまだに日本人はキモノではなく洋服を着ているんだと、自分が明治時代に描いた(有名な)風刺画の一つ「名磨行(なまいき)」をこれ見よがしに示し、不似合いに洋服を纏う「日本人」の鏡に映る姿が「お猿さん」だと、ザ・オリエンタリズム的表象を自慢。片や、キモノを不似合いにまとい(コスプレし)刀を閃かすオリエンタリズムの男。片や、洋服を不似合いにまとい(コスプレし)、丸腰に見えるオクシデンタリズム(ここでは「西洋崇拝」の意味に解してほしい)の女。両者が、「鏡」を挟んで、互いに映しあい、すれ違う。
 突然、蝶々は閃く。カブキ然としたミエを切る。(自分の「外見」を乗り越えるには)「白人」と交わって「ハーフ」を産めばいいのだ、と。佐世保には、海軍兵士(セーラー)たちが屯する「外人バー」がいたるところに。そこで、「イエロー・フィーバー」たちと「外人ハンター」(=自分)が出会い、交われば、「ハーフ」が誕生。「鏡」の生物学的(かつ弁証法的?)止揚?「ステレオタイプ(オリエンタリズム+イエローフィーバー)」と「ステレオタイプ(オクシデンタリズム+外人ハンター)」、「異文化と異文化」がコスコスと「まさつ」すれば、「新しいものが生(産)まれる」と、あいもかわらず下品な「関西弁」で宣うが、実は、長崎生まれの自分はわざと「えせ関西弁」を喋り続け、「関西人」の「心の狭さ」を正したいと、今さらのように「日本」すら相対化してみせる。
 我々は、あらゆる「ステレオタイプ」、「〇〇イズム」といったイデオロギーの孕む権力関係が現代思想的に「解体」され「転覆」され「脱構築」される現場に立ち会っているのか。いや。むしろ、冒頭の「スーパーフラットな」日本人の女の顔が暗に示していたように、「現代思想」的に「脱構築」されるように見えてしまう我々の認知の極薄の隙間に、(不器用に刀を振り回すでのはなく)知らぬ間に匕首あいくちを忍び込ませ、悟られる隙さえ与えぬ俊敏さで現代思想的にステレオタイプ化した認知の皮膜すら斬りさく斬撃技の現場に立ち会っているのではないか。
 ところで、知人でもある生命科学者郡司ペギオ幸夫は、『やってくる』でこう、人工知能と、彼云うところの「天然知能」との違いについて語る*³。――人工知能は、例えば「椅子ってなに?」という「問題」を与えられると、椅子を表す写真やイラストという「解答」を示してくれる。そして我々もそれを見て「あぁ!」と納得する。しかし、人工知能が「問題」に対して「解答」を示し、それを見て我々が納得するのは、実は暗にある「文脈」(例えば「見てわかる」という条件)を前提としているからにすぎない。その暗に前提している特定の文脈に固定されている限り、我々は、例えば「椅子の本質は?」といった「外部」を認識することはできない。では、それに対し「天然知能」とは何か。例えば、「生きるってなに?」という「問題」が与えられたとする。それに対し「映画で」という「文脈」を暗に前提すると、例えば黒澤明監督の『生きる』という映画作品が「解答」として示される(ここまでは「人工知能」)。ところが、天然知能は、「映画でいいの?」という「ツッコミ」を入れ、「映画で」という暗黙の「文脈」から逸脱してしまう。そうツッコミをいれた途端、「問題―解答」関係に亀裂が走り、認識に大きな「ずれ=スキマ=ギャップ」が生まれる。別言すれば、ツッコミ=文脈の逸脱によって、「問題―解答」関係が「こじれ」て、その隙間に「予想もしなかった生のイメージ」=「外部」が「やってくる」。そうして「外部」を召喚する知性を、郡司は「天然知能」と称する。
 我々は、「問題」=「プッチーニの『蝶々夫人』ってなに?」を与えられると、「オリエンタリズムのオペラ」という「解答」を示され、納得する。が、その「問題―解答」関係が成り立つのは、我々が暗にエドワード・サイード『オリエンタリズム』以降の「現代思想」という「文脈」を前提しているからに他ならない。さらに、「問題」として「市原佐都子/Q&ノイマルクト劇場の『Madama Butterfly』ってなに?」が与えられ、それは「オリエンタリズムの脱構築」という「解答」が示され、それに我々が納得するのも、件の(ジャック・デリダやサイード以降の)「現代思想」という「文脈」を暗に前提しているからに他ならない。
 市原の天然知能は、その人工知能的な「問題―解答―文脈」の三角形に「ツッコミ」を入れ、「文脈」そのものから逸脱し、その人工知能的認知を、天然知能的匕首で鮮やかに斬り裂き、「ずれ=スキマ=ギャップ」を生み出し、「外部」を召喚してしまうのだ。
 前作『ホルスタインの雌』が、ドイツの「世界演劇祭」に招聘された。その作品では、主人公の女性が自分の人工授精のために海外の通販サイトから精子を取り寄せる際、日本で育てるなら日本人らしい見た目がよいだろうと、日本人の精子を選択するが、その理由の一つが、子供時代のクラスメイトに日本人とアメリカ人(黒色人種)の「ハーフ」の女児がいて、いじめを受けていたからという件がある。ドイツの制作側は、それを「黒人」への差別=レイシズムだとして削除するよう要求してきたという。
「しかし、ここで言う黒人をすぐ彼らの『黒人』としてしまうのは暴力的ではないか。それこそ植民地主義的だ。日本は黒色人種を奴隷にした歴史はない。日本国内の米軍基地には多くの黒色人種の米兵が駐在している。周辺地域では作中で描いたような『ハーフ』の子供へのいじめも存在するが、それはレイシズムというよりルッキズムの問題ではないか。とにかく、同じ『黒人』という言葉でもその背景にあるものは、ヨーロッパ側と日本人である私とで同じではない。植民地主義の反省をするのは結構だが、もちろん私は作品の中でレイシズムを肯定していない。」*⁴(傍点筆者)
 もちろん、市原の天然知能的匕首が「ツッコミ」を入れるのは、ドイツないしヨーロッパのレイシズム(批判)だけではない。それは、少なくとも「日本」と「ヨーロッパ」という二つの異なった「文脈」の間の「ずれ=スキマ=ギャップ」に自らを忍び込ませ、悟られぬほどの速さで両「文脈」を斬り裂きつづける。
 『マダム・バタフライ』に戻る。冒頭からの「森」のトリプティックに幕が引かれ、それこそAI風かつTV風な音声が、日本社会の現状を憂うる中、「モテるにはどうしたらいいの?」という、日本の女子にとっては喫緊らしい脳天気な「問題」の提示。その問いに、なぜか「右翼の女」と「左翼の女」と名付けられた「専門家」が「解答」を下す。「文脈」はまさに「ルッキズム」。
 「右翼の女」――アイプチやマスカラでとにかく目を大きく見せ、外陰部の代替物である唇はピンクのリップグロスでテカテカに「ナチュラルメイク」して、「Hできますように」とひたすら唱える。「左翼の女」――なぜか誇張された英語表現を交えつつ、『チャーリーズ・エンジェル』のルーシー・リューをロールモデルとして、黒髪ロング、細く切長の目を強調、真っ赤なリップで「I’m Oriental.」風にメイク。何よりも白人にモテるには「ルックス」が大事。
 「問題」=「モテるにはどうしたらいいの?」/「解答」=「ルックスが大事」というルッキズムの「文脈」に、ここでも市原はツッコミ=匕首を入れる。その斬撃技はさらに冴え渡る。天然知能的「イロニー」とでも呼ぼうか。といっても、例えばヴァルター・ベンヤミンがフリードリッヒ・シュレーゲル等のドイツロマン主義にみた「個々の作品の形式を解体しつつ、絶対的形式=芸術の理念という天空を切り開く」*⁵といった超越的で荘厳な否定神学的イロニーではさらさらなく、むしろ、この、シミュラークルに満ち満ちた国にふさわしいスーパーフラットなイロニー。「右翼の女」や「左翼の女」たちが「ルックス」を化粧したのを同語反復するように、ルッキズムそれ自体をメイクし、増幅し、「テカテカ」にして、我々の認知の暗黙の文脈・コンテクストという編み物をその極薄のイロニーで引き裂きつづけ、「正しい」人工知能的な認知を「こじらせ」つづけ、どこまでも居心地悪く、不快な、得体の知れない「外部」へと気づかぬうちに引きづりこんでいく。
 ルッキズムのあとは、キッチュ。いや、ルッキズムそのもののキッチュさを、市原の天然知能は次に標的にする。
 「教会」らしき薄暗い空間で、一人の白い海軍服を着た「Gaijin」が、告解を始める。日本でALT (Assistant Language Teacher) としても働くGaijinは、「Gaijin」であれば(本国ではどんなにモテなくても)日本の女と簡単にやれると友人から聞いて、喜んで来日。佐世保の「外人バー」で、Gaijinを獲物にする「Gaijinハンター」=日本女性をハンティングする。突如、再び、マリア・カラスの「ある晴れた日に」が流れ始め、「左翼の女」をなぞるような黒髪ロング、細い切長の目、真っ赤な唇にメイクし、純白な着物をしどけなく纏い、でもなぜかピンクのふわふわのスリッパという出立ちの「日本女」が、この上なく下手くそな「英語」で、ALT=Gaijinと、互いにハンティングのやりとり=言語的(ディス)コミュニケーションをくりかえす。どうやら、プッチーニのオペラの「蝶々」と「ピンカートン」の(ディス)コミュニケーションを100年後に再演=反復しているよう。

©Philip Frowein

 と、外人バーは、いつの間にか「結婚式場=教会」に。こちらも真っ白な「神父」然としたコスチュームを纏う、やはり「Gaijin」の顔をした男が、たどたどしい日本語で、二人の「結婚」を執り行い、式料として10,000円を請求。なぜか、三人とも、足元を見れば、ふわふわのスリッパ姿。
 「教会」、「結婚」。――キリスト教圏では(敬虔な信者が減少傾向にある国々でも)いまだ「精神性」の制度的根幹を形作る神聖な「中身」であるものが、この、日本という国ではなぜか(キリスト教信者が人口の約1%しかいないにもかかわらず)、その「外見」、「ルックス」だけが、しかし文化的に執拗に取り入れられ、非常に多くの人々が、当たり前に「教会」で「結婚」する*⁶。“キッチュ”以外の何物でもない文化。ちょうど三人の履くふわふわのスリッパのように、すべてが“キッチュ”。ただし、その“キッチュ”さは、当の日本人にとっては、おそらくそれとして意識されない。「教会」も「結婚」も「テーマパーク」も、どれも“現実”。
「ディズニーランドとは、《実在する》国、《実在する》アメリカのすべてが、ディズニーランドなんだということを隠すために、そこにあるのだ」とは、シミュラークルのフランス人思想家ジャン・ボードリヤールの有名な言葉だが*⁷、日本もまた、いや(フランス人にとっての「アメリカ」以上に)、現実=実在する日本=テーマパーク、すなわち「ハイパーリアリテイ」なのだ。“外(人)”から見れば、限りなく「キッチュ」、でも当の日本人にとってはあくまで「現実」に他ならない、ハイパーリアリティ。市原の天然知能は、またもや「ツッコむ」。
 と今度は、「教会」が「ラブホ」らしき空間に転換。ピンカートン=ALT=Gaijinは、(今度は「10,000円」ではなく)7,500円のホテル代のうち3,000円を割り勘にしようと、蝶々=Gaijinハンターに英語で伝えようとするが、後者はひたすら「Pardon?」という和製英語(?)を繰返すばかり。相変わらず純白な着物を纏う蝶々=Gaijinハンターは、突如、やはり真っ白な制服姿のピンカートン=Gaijinに、「Please give me, your white liquid, OK?」と懇願。「ハーフ」の子どもが欲しいからだという。「You can think you are an animal」とけしかける蝶々=Gaijinハンターに、ピンカートン=Gaijinは襲いかかり「Animal, animal, animal, animal…」と絶叫する。互いに互いを特異な「人間」と思わぬ、いわば「動物」による「動物」の強姦=獣姦。
 再び、「教会」の「告解室」。いまや、制服と帽子をすっかり脱ぎ、どう見ても「男」には見え難い容姿となったピンカートン=Gaijinはそれでもこう懺悔する。「彼女は僕を動物と考える 僕は彼女を動物と考える だからこれはまったく正しい行為だったのかもしれません ごめんなさい しかし考えてみれば顔と顔を突き合わせて 交尾をするのなんて人間同士の場合くらいなのではないでしょうか 僕はこれまでの人生でひどく複雑で不自然な人間の交尾をしてきたのだ 自分は人間という地球上で一番変な生き物の一員として自分をその環境に適応させてきたのだ と この獣姦によって確認していたのです」と、「人間」を代表するかのように懺悔するピンカートン=Gaijin。それに対して、「神父」は「アーメン」ならぬ「ザーメン」で応じ、式料10,000円の他に懺悔料30,000円を請求。
 ここ、ピンカートン=「人間」の懺悔のうちに、「動物」が、「地球」が、「生命」が何気なく仄めかされる。市原の作品には親しい、人間と動物の交配、そして“生命(力)”の、「人間」の内への噴出が、冒頭の鬱蒼とした、しかしCGの「森」に木霊するように、暗示される。ハイパーリアリティの裂け目に、一瞬、「ハイパー・オブジェクト」(ティモシー・モートン)としての「ガイア」(ブルーノ・ラトゥール)=「外部」が顔を覗かせる。市原の天然知能はなんと巧妙か。

2ページ目へ