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ノイマルクト劇場&市原佐都子/Q 『Madama Butterfly』©Philip Frowein

『マダム・バタフライ』異/異聞(2/3)
熊倉敬聡

2023.6.18

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《ジャポニスムにも魅了されていたレオニーに、米次郎は「あんな『蝶々夫人』などとは比べものにならない、本物の日本の話が、私には簡単に書ける」と書き送り、そのうえで「そうはいっても、英語の語彙が何とも貧弱なので、その点をあなたに補ってほしいのです」と訴えた。その後、主人公の名前を「お蝶さん」から「ミス・モーニング・グローリー(朝顔嬢)」と変え、作品の題名も『The American Diary of a Japanese Girl』(邦題:日本少女の米国日記)と改めた。作品は、雑誌『レスリー』に三回にわたって連載され、後、フレドリック・ストックス社から単行本として出版される。米次郎は、そのマネージメントの一切をレオニーに任せた。
米次郎とレオニーは、1903年11月ごろ肉体関係を結んだらしい。その前後に米次郎はレオニーに次のように英語で書かれた手書きのメモを渡していたらしい。「レオニー・ギルモアが、私の法律上の妻であることをここに宣言します。一九〇三年十一月十八日  ヨネ・ノグチ」。しかし、米次郎は、同時期、レオニーには隠して、もう一人の女性、『ワシントン・ポスト』紙の文芸記者であったエセル・アームズに激しい恋心を抱き、やがて求婚するにいたっていた。
 米次郎は、レオニーには、日露開戦という国の一大事のために帰国せねばならないと言いながら、実は、エセルと人生を共にする夢を母国で実現するため、エセルに執拗に結婚を迫った末、ついにニューヨークを出立せねばならなかった四日前に彼女から「イエス」を得る。そして、1904年8月、11年に及んだアメリカでの暮らしに終止符を打ち、帰途につく。その2ヶ月半後、レオニーは、母が移住していたロサンゼルスで米次郎の男の子を出産する。
当時の新聞『ロサンゼルス・ヘラルド』紙の記事「ヨネ・ノグチの赤ん坊、病院の誇り――白人妻、作家の夫に息子をプレゼント」は、『日本少女の米国日記』で知られる日本人作家の息子の誕生を祝いながらも、その息子をこう描写する「星条旗の下に、また、青い目の白人を母親として生まれていても、この赤ん坊は父親と同じ黒い目と黒い髪で、日本人以外の特徴がまったく認められない。」
この当時、カリフォルニア州でも、他の州同様に、「白人と有色人種の混婚」が1872年から禁止されていた。「有色人種」とは黒人を意味したが、日露戦争での日本の戦勝後日本人移民が増えはじめたこともあり、一九〇五年、同禁止令に「蒙古系」が追加される。》


 すると、「神父」は背景幕を引き片づけはじめる。徐々に舞台裏が露呈。蝶々=Gaijinハンター役の「日本人」俳優が、今度は「ハルコ」と名乗り、「ねえ やっぱりサマーが⽩⼈男性の役って変じゃない?」と問いかけ、「サマー」と呼ばれた、つい先ごろまで「ピンカートン=Gaijin」を演じていた、今や見るからに「女性」然とした体型を示す俳優は、突然(英語ではなく)ドイツ語で「なんで? わたしがトルコ⼈で⼥性だから? 演劇は性別や⼈種を超えられるはずだから 俳優はなんの役でも演じられるはずよ 私はそう思ってやってきた」と返す。先まで「神父」役だった俳優も、自らを「タムタム」と名乗り、自分はフィリピン人の母とウルグアイ人の父の「ハーフ」だとドイツ語で明かす。これを引き金に、圧巻の、この作品上演、制作自体の「自己批評」とでも形容されかねない、劇作術の、自らへの無限ミラーリングが開始する。天然知能の匕首は、あろうことか、自傷に自傷を重ねていく。
 「ジェンダー」、「人種」、「演劇」、「表象」、「言語」、「コミュニケーション」という「文脈」が次々と、めくるめくように俎上に乗せられ、鮮やかに斬られていく。
 そして、Zoomによる「フユコ」の登場。日本でコロナに感染し無症状ながら隔離されていると思しき、その「劇作家・演出家」は(誰?=「問題」)、話の流れ(=「文脈」)からすると、市原佐都子本人(「解答」)のはずなのだが、ここでもまた、天然知能のイロニーは、「自分」にツッコミを入れ、すなわち、どう「日本人」には、肌が黒く、豊満でカーリーヘヤーの、しかし、ことさらのように桜が咲き乱れ富士山が臨む、キッチュこの上ない「日本」的バーチャル背景に包まれ、いたって「アメリカンな」英(米)語を繰り出す。「サトコ」=「フユコ」、「日本人」=「アメリカ人」、「黄色人」=「黒人」、「日本語」=「英(米)語」…。「個人」の、「民族」の、「人種」の、「言語」のアイデンティティ「=」は、ものの見事に断ち斬られ、その「ずれ=スキマ=ギャップ」が、我々の認知システム=文脈を決定的に機能不全に陥らせる。あの「外部」が口を開ける。
 「外部」は、ドイツ語、日本語、英(米)語が乱れ飛ぶ中、この演劇作品の「制作 (produce)」の只中へも「やってくる」。
 フユコがタムタムに「タムタム ⽇本語の練習してる? ちょっとやってみてよ」というと、タムタムは、「いいよ」とドイツ語で応じ、今度は「日本人」の若者風の歩みで「日本語」で(三幕の冒頭のセリフ)「僕の脇ってくさい? ワキガかな 単⼑直⼊にどう思う?」とたどたどしくいう。サマー:「すごくうまくなったんじゃない? ⽇本⼈みたい」。ハルコ:「申し訳ないけど 全然⽇本⼈みたいじゃないよ」。サマー:「でもどうせスイスの観客にはわからないんじゃない?」ハルコ:「絶対⽇本の観客には笑われると思う ⽇本でもツアー組まれてるんだよ」。
 そうなのだ。この「一つ」の「同じ」演劇作品は、スイス(その後、ドイツ、オーストリア、オランダ)で上演され、日本上演されるのだ。上演されるだけではない。それは、「ノイマルクト劇場市原佐都子/Q」によって制作(produce)されたのだ。「スイス」と「日本」が共同制作(co-produce)し、共に産んだ「ハーフ」なのだ。

©Philip Frowein

 ノイマルクト劇場のプレスリリース――この作品は、日本とヨーロッパの観客に向け、二つの異なった文脈で観られることを想定している。だから、特にヨーロッパの観客を意図したパートもあれば、逆に日本の観客にしか読み解けないパートもある。それぞれに異なった作品理解の間で作品は微妙に揺れ、時には他者の視点から、自らの盲点を暴き、無知を引き受ける。
 事実、共同制作、co-produceによる「ハーフ」の出産は難産を極めたらしい。俳優の登用、「ダイバーシティ」の理解、制作メンバー間の権力関係等々をめぐり、紛糾に紛糾を重ねたらしい制作現場が、今ここで、上演=再現(re-present)される。そうしてこの場面そのものが、presentationとre-presentationの「ずれ=スキマ=ギャップ」に宙吊りにされ、判断停止に迫られる。しかも、あやうく、この、とりわけ秀逸なドラマトゥルギーの「自己批評」と見紛う、三幕からなるこの作品=トリプティックの(中心が無限退行する)“中心”=第二幕は、こともあろうかスイスのドラマトゥルクの意向で削除されんとしたらしい。
 そして、件の、前作における「黒人」の記述をめぐるドイツの制作側との悶着。ハルコが言う。「数年前ドイツのフェスティバルから声がかかったとき 台本のなかに⽇本でアフリカ系アメリカ⼈がいじめられている描写があったんだけど そこを変えるように⾔われたことがあったよね 変えるのか公演をやめるのか迫られた」。そしてフユコ:「⿊⼈じゃない私が⿊⼈がいじめられていることを書いちゃだめだって⾔われた 過去の植⺠地主義を反省するのはいいけど 実際⽇本で⿊⼈がいじめられることはあるし ⽇本での⿊⼈とドイツにとっての⿊⼈は違う⽂脈があるはずなのにそれをすぐそっち側のルールにのせようとする デリケートなことなのはわかるけど どうして全部同じ問題にしちゃうの でもうまく英語でしゃべれないし どんどんなにも⾔えなくなって 相⼿から私は無知だって決めつけられてるような気がした」と、どう
「黒人」にフユコが、どうネイティヴな「英(米)語」に言語で、宣うのだ。我々はいったいいるのか? 「外部」が「やってくる」。「外部」に放り込まれる…。
 そしてダメ押し。――サマーが、タムタムに、(次の幕の「ハーフ」の)「息子」の役を、日本語でなく、(フィリピンでしか通じない、日本語よりさらにマイナーな)ビサヤ語で演じたらいいんじゃない?と提案。ハルコが「う〜ん」と唸ると、サマーは「もうなんでも良くない? 」(傍点筆者)と、ドイツ語、日本語、英(米)語で演じられたにもかかわらず、俳優間も了解しあい、我々観客も(字幕のおかげで?)了解したと思い込んでいた、作品の「理解」の「文脈」という“舞台”全体を、何の気なく、ぶち割ってしまうのだ。我々は、上演の「外部」にすら放り出される…。

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