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Q『弱法師』 ©igaki photo studio 豊岡演劇祭実行委員会提供

Q『弱法師』――いかにして人間/人形の「宿命」を演じるか
(2/2)
熊倉敬聡

2024.7.14

〈第二幕〉

「なんでも文楽あたりでは残忍であるとかみだらであるとかいう廉で禁ぜられている文句やしぐさを、淡路では古典の姿を崩さず、今でもそのままにやっている、それが非常に変わっているという話を老人は聞いて来たのであった。たとえば玉藻の前なぞは、大阪では普通三段目だけしか出さないけれども、ここでは序幕から通してやる。そうするとその中に九尾の狐が現われて玉藻の前を食い殺す場面があって、狐が女の腹を食い破って血だらけな腸をくわえ出す、 その腸には紅い真綿を使うのだという。伊勢音頭では十人斬りのところで、ちぎれた胴だの手だの足だのが舞台いちめんに散乱する。奇抜な方では大江山の鬼退治で、人間の首よりももっと大きな鬼の首が出る。『そういうやつを見なけりゃあ話にならない。』」(谷崎潤一郎『蓼喰う虫』)*¹⁶


 琵琶弾きは、一転して、第一幕の冒頭同様、幽玄なる響きを奏ではじめる。幕が開くと、薄紗を透かしてビニール袋に包まれた坊やの映像が、巨大な満月のように、朧に浮かび上がる。坊やは、山奥に不法投棄されたタイヤやスーツケースや電子レンジやペットボトルなどとともに、投げ捨てられている。「坊やの目はつぶされ 脚も曲がりうまく歩けない 手には腕のないエリーが握られていた」。まさに、現代版蛭児として。
 そこへ、自転車に乗った、これまた異形なる者、身体器官のアマルガムとでもいうべき者が通りかかり、坊やを自転車に乗せる。そして、ある小屋に着く。そこには、無数の人形たちに囲まれ、一台の透明なアクリルのバスタブ。その中に、坊やが浸かる。異形の者が語る。「ここの水は人間の体温と同じあたたかさなの 人間はここに入ると羊水の中に浮いているような感覚になるんだって どんな感覚なんだろうね羊水に浮いてるって うちらって羊水の中に入っていたことなんてないじゃん? 色んな人形が来て 皆ここで目を瞑って羊水を想像してる もしいつか水の温かさを感じたら人間になれるらしいよ 私は別に人間になんかなりたくないけど」。
 坊や=呪われた人形=abjectが、アクリルのバスタブの「羊水」に浸かりながら、「人間」になることを夢想するが、羊水の温かさを感じることができない。
 そう、ここで我々は騙されてはならない。「羊水」に浸かっているのは、人間の子供ではなく、人形、しかも足も曲がり、目もつぶされた人形なのだ。
我々は先に、人形には二種類あると言った。主体へと成長するべき「移行対象」としての人形。そして、主体を逆に欲動の海へと瓦解させるabjectとしての「呪われた人形」。クリステヴァによれば、abjectなる穢れは、とりわけ母性的なものに依存する。そんな母性的なabjectな穢れの代表が、彼女によれば、「糞便」と「経血」なのである。もちろん、我々はそこに、子宮に関するあらゆる生理、例えば「羊水」を付け加えることができよう。「糞便とそれに匹敵するもの(腐敗、感染、病い、死体等)は同一性の外部から来る危険を表わす。たとえば、自我は非=自我から、社会はその外部から、生は死から脅威を受ける。逆に、経血は(社会的、あるいは性的)同一性の内部に由来する危険を表わす。それは社会総体のうちでの男女両性の関係に、および内面化されると、性差に直面したそれぞれの性の同一性に、脅威を与える。いまみた糞便と経血という二つの型の穢れにどんな共通点があるのか。肛門愛や去勢恐怖に訴えずに〔…〕別個の精神分析的接近によって、この二つの穢れが母性的なものと/もしくは、母性的なものを現実には支えとする女性的なものに依存している、と示唆することができる。」*¹⁷
 が、『弱法師』はここで、第三の人形としてもう一種類のabjectがあることを示唆する。そう、坊やは、「羊水」に浸かる坊やは、人間の子供ではなく人形なのだ。「人間」になることを夢見るが、「人間」にはなれない人形なのだ。しかも、大量の産業廃棄物とともに捨てられていた、自らも産業廃棄物でしかない「土になればいいのに、分解されない」人形なのだ。母性的なもの=羊水に浸かっても、決して「人間」的温かみを感じることのできない、人工物のゴミ。「母」どころか、資本主義的機械で大量生産された、生命なき無機物の残骸。母性に依存したabjectが「エロス」的abjectだとするなら、坊やはまさに「タナトス」的abjectではないだろうか。アクリルのバスタブに満たされた「羊水」の中で、エロスとタナトスの裂け目が、またもや〈外部〉が、口を開ける…。

Q『弱法師』 ©igaki photo studio 豊岡演劇祭実行委員会提供

 坊やを小屋へと誘った異形なる者は、その小屋でマッサージ屋をやっているので、一緒に働かないかと坊やを勧誘する。坊やは、しばし躊躇いを見せるが、やがて言われるがままに小屋=マッサージ屋に入り込む。そこはなんと、客からサービスの対価としてもらったあらゆる身体のパーツ・器官のコレクションの一大倉庫でもあるのだ。「そこにはたくさんの 誰かの目 鼻 耳 足 手 髪の毛 陰毛 指 爪 唇 ちんこ まんこ 眉毛 何者かはそのコレクションの中から目を坊やにつけた」。
 それらのパーツ・器官を日毎に取り付け/外し、新たな装いで客の接待をする(坊やも入れると)四人(?)衆。かつて、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、『アンチ・オイディプス』*¹⁸で、西欧のそれまでの世界観・人間観に反旗を翻し、「器官なき身体」を思想的革命として説いた。それは、人間の中のエロスを全面的に解放し、歌いあげる思想・実践の謂であった。ところが、この異形なるマッサージ師たちは、まさに「土になればいいのに、分解されない」、反エコロジカルな、タナトスが充填された、いわば「身体なき器官」とでも言うべき輩なのだ。
 そこへ、仕事で疲れ切った「交通誘導員」の男が、怪我した足を引きずりながらやってくる。癒しを求め、最近話題らしいこのマッサージ屋に入る。突然、ポップなネオンサインが点滅する中、先ほどの四人衆が登場し、そのパーツ・器官だらけの異形に、男は及び腰になる。どうやら保守的なジェンダー観をもっているらしい男は、あまりにトランスジェンダー、いやあまりにポリ・セクシュアル、いやあまりにポリ・オーガニック(多器官的)なマッサージ師たち(「今日は この子はちんこ二本 この子はまんこ一個だけ あ でも小さい子供のちんこも付いてて 私は両方二個ずつつけてます だから大丈夫です」)が常軌を逸しているがゆえに判断停止状態となり、思わず一番右の者を指してしまう。
 そして、そのマッサージ師に店に招じ入れられ、男はベッドに仰向けに横になり、マッサージが始まる。マッサージ師は男の心臓の鼓動に耳を寄せながら、全身を撫でまわしはじめ、やがてその口に男のペニスを咥え込む。咥え込んだ口の「内部」と思しき映像がアップで映し出される。ベロア素材でできた襞のなかにコロコロとした無数の小球体が蠢いたと思うと、奥の方からスライム状のものが溢れ出してきて、そのネバネバが蠕動運動を始める。
 すべては、人形の口の中、無機的なはずの人工物の動き、しかもその映像であるのに、おそらくほとんどの観客、我々は、そこにこの上ないエロス、限りない肉感を感じ取ってしまう。その「エロス」とは、いったい誰のエロスなのか。あたかも、マッサージ師の喉の奥の「真空状態」に吸い込まれ/吸い出されたかのように、我々のエロスが、このタナトスの蠕動に乗り移り、エロス/タナトスもろともに歓喜に酔いしれんとする。なんと恐ろしい「性感マッサージ」だろうか。
 そして、その「性感マッサージ」により、ついに男は快楽のクライマックスへと登り詰めんとする。が、その刹那、マッサージ師は突如として動きを止め、あろうことか、男の胸にナイフを突き立て、心臓を抉り出して、マッサージの対価としてもらうと宣言する。その時、男の目に、マッサージ師の胸元に逆さまに垂れる小さな人形が入る。あの「エリー」だ。「私の名前はエリーちゃん 坊やの相棒よ いつもこうやって 肌身離さず 側にいるの ねえ 私のこと忘れちゃった? あのときも 私は強く強く坊やに握り絞められていたわ ごめんなさい ごめんなさいって坊やが何度も言っていたのあなたも聞いたでしょ あれは私の腕を切断したことを謝っていたのよ あなたの息子ってなんていい子なんでしょう 私とっても幸せよ あははははは ええええええん パパ 私のことダイソーで買ってくれてありがとう」。

Q『弱法師』 ©igaki photo studio 豊岡演劇祭実行委員会提供

 エリーは、こうして、男=父がマッサージ師=坊やの春を買ったこと、近親相姦を犯してしまったことを暗に告知する。我々はここで、これまた精神分析学的に異様な光景に立ち会っていないだろうか。フロイトに「エディプス・コンプレックス」の啓示を与えた神話――テーバイの王となったオイディプスは、デルフォイの神託をきっかけに、自分が知らぬ間に父ライオスを殺し、さらに知らぬ間に母イオカステと交わっていたことを知る。結果、母は自害し、自らは目を抉り、追放される。今、『弱法師』で我々は、いかなる光景に立ち会っているのか。エリーの如上の「神託」により、男=父、そしてマッサージ師=坊やは、近親相姦の事実を知り、男=父は、「神様」を呪いながら、首を吊ってしまうのだ! 「アンチ・オイディプス」だろうか? いや違う。「アンチ・アンチ・オイディプス」とでも言うべき事態だ! そこでは、ペラペラで不具な人形たちが「近親相姦」し、ダイソーで100円で買われた薄っぺらい安物にすぎぬエリー=「巫女」が「神託」を与えているにすぎないのだ。
 その人形たちの「アンチ・アンチ・オイディプス」劇にダメ押しするように、首を吊った交通誘導員の足元では、バスタブの傍らで、他のマッサージ師たちが笑いさんざめいている。そして、言う。「自殺なんかして 文楽の人形気取りかよ ただの交通誘導人形だろが」、「そもそも生きてないから死ねないんですけど」、「人形に近親相姦のタブーなんかあるかよ 血流れてねえし」と、まさに「アンチ・オイディプス」をバカにするかのように失笑しあう。
 と、小屋から坊やが出てきて、奇妙なことを言いはじめる。「汗をかいている きっと心臓を手に入れたからなんだ」。そして、バスタブの「羊水」の中に改めて浸かってみると、なんと、先には感じられなかった生温かさを感じるではないか。そして、叫ぶ。「僕は人間になった!」。そして、「羊水」のなかで小躍りしながら、「生きている 生きている 生きている 生きている 生きている!」。
 「人間」たちのアンチ・オイディプスを愚弄して「アンチ・アンチ・オイディプス」を唱えた「人形」が、今度はさらにその「アンチ・アンチ・オイディプス」に異を唱えるように、「人間」と「生命」の凱歌を歌い上げる。
 と、突然、電子的爆音と、「爆像」とでも呼ぶしかない電子光のカオスが、舞台を超高速で駆け抜け、炸裂しつづけ、狂喜乱舞し、我々の認知を叩きのめす。「人形」たちも、そしてそれまでそれらを「操って」いただけの「人間」たちもともに、荒れ狂い、「人形」の四肢はバラバラにもげ、「人間」たちの四肢もバラバラにもげそうなほど、爆音/爆像に蹂躙され、木っ端微塵になる。
 ついに、〈外部〉が――「人間/人形」たちが、誕生以来自らにひた隠しに隠してきた、あの〈外部=現実界(le réel)〉が全面的に「やってきた」のか。「人形」としての「人間」、「人間」としての「人形」の、何万年、いやおそらくは何十万年も作りつづけてきた「世界」が、今やついにアポカリプスを迎えているのか。〈外部=現実界〉だけが勝ち誇り、宇宙を満たし、ついに「人間/人形」の「国」は滅んでいくのか。
 しかし、『弱法師』は、これでも終わらない。この先にいったい何があろうというのか。

Q『弱法師』 ©igaki photo studio 豊岡演劇祭実行委員会提供

 爆音/爆像が突如止み、暗転。坊やの「かしら」だけが光を浴び、ころころころころと手前に転がってくる。下手には、依然交通誘導員がひもにぶら下がっている。女大夫は宣う「坊やはただの捨てられた人形だった 汗だと思ったのはただの油 この手の人形は定期的にベビーパウダーをはたいてやらないと油が出てくるんだから まったく世話が焼ける」。つづけて「すべて幻だった 死ぬことも生きることも すべてただの人形遊びだった」と、悲哀と諦念を込めて歌い上げる。
 我々は、〈外部=現実界〉の凱歌による「人間/人形」の世界のアポカリプスに叩き込まれたあと、なんと再び、「幻」、「ただの人形遊び」、すなわち〈想像界〉の方へと揺り戻される。いや、より正確に言うなら、〈現実界〉と〈想像界〉の間、その裂け目に宙吊りにされるのだ。この、「人間/人形」の宿命。しかし、ふだんは、この『弱法師』以外では、「人間/人形」が自らにひた隠しにしている宿命。この宿命の深淵に、今や我々は、紐に吊るされた交通誘導員のように、吊り下げられている。
 ついに、えんじの幕が引かれる。手前に坊やの「頭」と、紐に吊るされた交通誘導員だけを残して。
 琵琶が、舞台の始まりを奏でたように、その幽玄なる響きを、このもはや「どこでもない」空間に渡らせる。
 徐々に暗くなる刹那、坊やの頭に当たる光がにわかに明るくなる。「ハロー 生きてるよ ハハハ」と、(女大夫ではなく)自らの(録音された)声で、ケラケラ笑う。まるで、呆然とする観客を嘲笑うかのように。

 幕が開き、劇場全体の照明がつき、演者たちが舞台に出てきて並んでお辞儀をし、観客は拍手する。
 いったい我々は、何に拍手しているのか。そして、演者たちもまた何にお辞儀をしているのか。自分たち「人間/人形」の宿命にか。その宿命を、他の追随を許さぬほど見事に描き切り演じ切った「人間/人形」たちにか。これほど「拍手」が、「お辞儀」が、空しく、だが限りなく幽玄になされた舞台は、他にないのではなかろうか。



*1 シャルル・ボードレール「玩具のモラル」(福永武彦訳)、『ボードレール全集 Ⅲ』、福永武彦編集、人文書院、1963年、317頁。
*2 ジェーンマリー・ロー『神舞い人形――淡路人形伝統の生と死、そして再生』、齋藤智之訳、発行者:齋藤智之、2012年、229頁。
*3 ジークムント・フロイト『フロイト著作集 第六巻』、井村恒郎、小此木啓吾他訳、人文書院、1970年、156頁。
*4 同所。
*5 同所。
*6 中村恭子、郡司ぺギオ幸夫「書き割り少女――脱創造への装置――」、『共創学』、2巻1号、2020年、1-12頁。
*7 郡司ぺギオ幸夫『やってくる』、医学書院、2020年。
*8 郡司ぺギオ幸夫『創造性はどこからやってくるか――天然表現の世界』、ちくま新書、2023年。34-35頁。
*9 同書、59頁。
*10 同書、63-66頁。
*11 ジェーンマリー・ロー、前掲書、233頁。
*12 ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力――〈アブジェクシオン〉試論』、枝川昌雄訳、法政大学出版局、1984年、3-4頁。
*13 ジェーンマリー・ロー、前掲書、179頁。
*14 同書、235頁。
*15 同書、182-183頁。
*16 谷崎潤一郎『蓼喰う虫』、岩波文庫、1948年、207頁。
*17 ジュリア・クリステヴァ、前掲書、103-104頁。
*18 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス――資本主義と分裂症(上)・(下)』、宇野邦一訳、2006年、河出文庫。

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熊倉敬聡
芸術文化観光専門職大学教授。同学術情報センター長。慶應義塾大学教授、京都(造形)芸術大学教授を経て現職。パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。フランス文学 ・思想、特に「ステファヌ・マラルメの“経済学”」を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『GEIDO論』、『藝術2.0』(以上、春秋社)、『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)などがある。