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photo by bozzo
アーティスト・イン・レジデンスというインターフェース
コーンカーン・ルンサワーン『Dance offering』の創作プロセスから①
朴 建雄
2023.6.29
2023年4月1日から4月30日まで、タイのダンスアーティスト、コーンカーン・ルンサワーン(以下、愛称のケイトと記載)が城崎国際アートセンター(以下、KIAC)に滞在し、新作プロジェクト『Dance offering』の滞在制作を行った。筆者はリサーチのサポートと創作過程の記録の担当として、4月9日から12日までの滞在前半の4日間と、4月17日から26日までの滞在後半の10日間、計2週間KIACに滞在した。このレポートでは二回に分けて、今回のアーティスト・イン・レジデンスの創作プロセスについて記述していく。特に注目したいのは、ケイトの作品、今回筆者が果たした役割、そしてアーティスト・イン・レジデンスというプログラムの3つに共通に共通する「インターフェース」(接触面)という点である。
前編となる今回は、ケイトのプロジェクトがはじまった経緯とそのモチーフがどういうものであったか、彼女が滞在制作の前半で何を行っていたか、そして筆者が彼女の上演と日本の観客のつなぎ方をどう考えたか、について主に述べていく。
前編となる今回は、ケイトのプロジェクトがはじまった経緯とそのモチーフがどういうものであったか、彼女が滞在制作の前半で何を行っていたか、そして筆者が彼女の上演と日本の観客のつなぎ方をどう考えたか、について主に述べていく。
『Dance offering』は拡張現実(AR)や仮想現実(VR)を用いて、タイの民族舞踊「RUM-KEA-BON」をアップデートする試みで、ケイト自身がタイの寺院でこの踊りを踊るダンサーでもある。「RUM-KEA-BON」はタイで(神様などの)神聖な存在に願いや要求をする際に非常によく用いられる手段であり、例えばバンコクなどで多くの人が新しい仕事が欲しいときなどに寺院に行き、ダンサーにお金を払ってこの踊りを踊ってもらうという。
KIACに来るまでにケイトはこの作品のワークインプログレス(途中発表)を2021年から4回、オンライン上、劇場、アートスペース、野外といった様々な場所で行っていた。このプロジェクトでの彼女の狙いは三つ。第一に自分が関わってきた伝統的なダンスを現代化すること、第二に自分をインターフェースとして人間と聖なるもの、身体(フィジカル)とデジタル空間といった様々な存在や空間をつないでいくこと、そして第三に人と人を繋げる場所を再想像・再創造することである。
2020年、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックのため寺院で「RUM-KEA-BON」を踊ることもできなくなり、舞台の仕事も失ったケイトは、希望もつながりも失ったと感じていた。しかし、オンラインでしか他者とつながれない状況が続いたことにより、逆にデジタル空間で場所の制約を超えてつながれることに可能性を見出し、それがこの『Dance offering』で重要な役割を果たす「デジタル・シュライン」の発想につながった。
この作品でケイトが踊る場所は実際の寺院ではなく、VRヘッドセットをつければどこにでも出現するこの「デジタル・シュライン」と名付けられたデジタル空間における祈りの場である。この仮想空間で、彼女は観客から聞いたそれぞれの願い事を神聖な存在に送り、そして願いが叶ったときにダンスを贈る。
「デジタル・シュライン」へはVRヘッドセットをつけてアクセスする photo by bozzo
こうした作品の背景や経緯、意図は、KIACに到着してからケイトから直接聞いたものである。事前に共有してもらった映像資料を見ていただけでは、わからないことばかりだった。ということは、観客はなにも事前解説がない状態で作品が上演されると、雰囲気はつかめてもその背景にある意図に関しては(筆者のように)「なんだかよくわからない」と反応してしまい、作品に対して積極的に向き合えなくなってしまうかもしれない。
さらに話を聞くと、KIAC周辺での日本における信仰や宗教観に関するリサーチはもうすでにほぼ終わりかけているとのことだった。リサーチのサポートが主な仕事だと思っていたため、かなり拍子抜けする。しかし創作現場ではいろいろなことの進み具合のスピードの予想がつきづらいため、こういうことが実はよくある。リサーチや創作は納得のいくアイデアや方法が見つかればあっという間に進み、見つからなければいつまでも同じポイントに留まっているものだ。ではケイトはいまどんなサポートをしてもらいたいのかと聞いた結果、リサーチを作品につなげるポイントを探るための意見交換と、25日に行う公開プレゼンテーションで何をどういう順序で行うかに関する相談をすることになった。
リサーチでは温泉寺などKIAC周辺の温泉街だけでなく、竹野や出石、但東地域にも足をのばし、飲食店なども楽しんだそうだ。最初に行ったおでん屋(城崎のふくとみ)では、おでんがおいしかっただけでなく、日本語を話せず、メニューも読めないケイトをお店の人たちが温かく迎えてくれ、英語を話せる人を呼んで対応してくれた。愛嬌があって人懐っこく、するっとこちらの懐に入ってくるような感じのあるケイトならではのエピソードだと感じた。作品に直接関連することでは、かつて但東地域で流行った農村歌舞伎の名残で多くの神社の境内に舞台があったことが興味をひいたらしい。ケイトによればかつてのタイでも寺院の近くに移動可能な仮設の劇場を作って権力者に見せる上演をしていたとのことで、宗教施設と劇場の近さというトピックがここで浮かび上がった。
但東地域の農村歌舞伎舞台を訪れるケイト
プレゼンテーションに関しては、ぜひ日本の観客からのフィードバックを得たいとのことだった。ではそのために作品を観客にどう受け取ってほしいのか話を聞いたところ、ダンスを見ること自体よりもそれを媒介にして観客それぞれが自分の願いについて考えるという体験が重要なポイントになる作品だと分かってきた。いわゆる「ダンス作品」というくくりではなく「お参り体験」のような言葉で観客に説明した方がうまく飲み込んでもらえるのかもしれない。私は最初の日本の観客として、ある程度作品の背景や意図を踏まえたうえで、作品と観客をうまくつなぎ、そこから実りある議論を生むためにはどうすればいいのか。それは作品と観客の接触面、インターフェースをどう設計するかにかかっている。作り手側がどういう態度で観客に向き合い、どういう背景情報を共有していくのかがカギとなる。
舞台作品と観客のインターフェースについて考えるにあたって、とても参考になったのが同時期にKIACに滞在していたアルゼンチンのアーティストグループのプレゼンテーションだった。詩的なイメージの連鎖が、ディスプレイの映像、窓越しの風景の中でのパフォーマンス、劇場でのパフォーマンスで観客に提示されるというもので、抽象的な衣装や動きやシーンが多かった。無心にそのイメージを楽しめばよかったのだろうが、ただ感覚に没入するだけには一時間弱という上演時間は長かったのかもしれず、観客の頭上に「これはなんだ?」というフキダシがいくつも浮かんでいるのが目に見えるようだった。上演後の質疑応答では、あれはどういう意味だったのかと聞く観客がやはり多かった。「猫のような耳がついた全身黒タイツの衣装を着ていたのはどういう意味だったのか?」。アーティストたちによれば、ただ「動物である」ことを感じてもらえばよかったとのことだったが、筆者のようにその意味をやたらと考えてしまい、感覚に集中できずにいた観客もいたようだ。
とりわけ文化的な背景の異なる海外のアーティストなどの作品では、抽象的なイメージあるいは詩的な言葉の面白さをより感覚的に楽しむため、美術作品にキャプションをつけるように、これにはこういう背景があるという最低限の情報を共有していくことが役立つのではないだろうか。この黒タイツが動物だということは事前の情報なり上演での動きの見せ方なりでわかればよく、本来注目すべき点は他にある。その共通理解があってはじめて、不毛な意味探しに骨を折ることなく、イメージや言葉や動きによって得られる感覚からそれぞれの想像力を羽ばたかせることができる。実際、このアーティストたちを追ってアルゼンチンからやってきた観客は、アフタートークで豊かな解釈を語ったのだから。
プロジェクトの構想について意見交換するケイトと筆者
何かを見聞きするにあたっての当たり前の前提やその受け取り方は、時と場所と人、つまり文化によってかなり異なる。加えて日本の観客はよくわからないものに出会った際に、わからないものをわからないままにとらえるというよりは意味を考えがちかもしれない(もちろんみんながみんなそうであるというわけではない)。その傾向を踏まえ、上演を見る前に知っておくべき最低限の背景情報を、ハンドアウトにまとめて配布するのはどうかとケイトに提案した。これまでの上演でも使っていたA4用紙一枚分の作品内容説明のテキストをケイトからもらい、内容を今回の発表に合わせて調整していった。ハンドアウトの文章は最終的に『Dance offering』プロジェクトチームのドラマトゥルク(舞台公演全体に関する知的な相談役)の文章に置き換わったが、それに関してもそのまま翻訳したのではアートの専門家以外には難解すぎる語彙や表現が多かったので、可能な限り平易な日本語に訳すよう努めた。KIACに来る観客は必ずしもアートに詳しい人ばかりではないからである。
アーティストが自分の作りたい作品を作ることと、作品が観客にうまくつながるようにそのインターフェースを考えることは、往々にして様相が異なるが、どちらも同じく重要な役割である。観客とのつながり方をきちんと考えないアーティストの作品は、大切にしているポイントが観客に伝わらないことがよくある。作品の本質的な部分を観客に届けるためには、観客がどういった人たちなのかを丁寧に観察し、その背景や特徴に合わせて作品の見せ方を工夫しなければならない。一方でアーティストの作品がなければ、そもそも観客との接触面を考える必要もない。
アーティスト・イン・レジデンスでは、この『Dance offering』プロジェクトのように外国からやってきたアーティストの滞在制作の成果発表や途中報告が行われることも多い。外国のアーティストと、レジデンス施設がある地域の観客では常識も、思考も、感性もしばしば大きく異なる。この違いをただ「わからない」と切り捨てるのではなく、新しい刺激として互いに興味を持って楽しむためには、こうしたアーティストと観客のインターフェースを個々の違いに沿って丁寧に考えることが重要なのではないだろうか。
(後編に続く)
KIACに来るまでにケイトはこの作品のワークインプログレス(途中発表)を2021年から4回、オンライン上、劇場、アートスペース、野外といった様々な場所で行っていた。このプロジェクトでの彼女の狙いは三つ。第一に自分が関わってきた伝統的なダンスを現代化すること、第二に自分をインターフェースとして人間と聖なるもの、身体(フィジカル)とデジタル空間といった様々な存在や空間をつないでいくこと、そして第三に人と人を繋げる場所を再想像・再創造することである。
2020年、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックのため寺院で「RUM-KEA-BON」を踊ることもできなくなり、舞台の仕事も失ったケイトは、希望もつながりも失ったと感じていた。しかし、オンラインでしか他者とつながれない状況が続いたことにより、逆にデジタル空間で場所の制約を超えてつながれることに可能性を見出し、それがこの『Dance offering』で重要な役割を果たす「デジタル・シュライン」の発想につながった。
この作品でケイトが踊る場所は実際の寺院ではなく、VRヘッドセットをつければどこにでも出現するこの「デジタル・シュライン」と名付けられたデジタル空間における祈りの場である。この仮想空間で、彼女は観客から聞いたそれぞれの願い事を神聖な存在に送り、そして願いが叶ったときにダンスを贈る。
こうした作品の背景や経緯、意図は、KIACに到着してからケイトから直接聞いたものである。事前に共有してもらった映像資料を見ていただけでは、わからないことばかりだった。ということは、観客はなにも事前解説がない状態で作品が上演されると、雰囲気はつかめてもその背景にある意図に関しては(筆者のように)「なんだかよくわからない」と反応してしまい、作品に対して積極的に向き合えなくなってしまうかもしれない。
さらに話を聞くと、KIAC周辺での日本における信仰や宗教観に関するリサーチはもうすでにほぼ終わりかけているとのことだった。リサーチのサポートが主な仕事だと思っていたため、かなり拍子抜けする。しかし創作現場ではいろいろなことの進み具合のスピードの予想がつきづらいため、こういうことが実はよくある。リサーチや創作は納得のいくアイデアや方法が見つかればあっという間に進み、見つからなければいつまでも同じポイントに留まっているものだ。ではケイトはいまどんなサポートをしてもらいたいのかと聞いた結果、リサーチを作品につなげるポイントを探るための意見交換と、25日に行う公開プレゼンテーションで何をどういう順序で行うかに関する相談をすることになった。
リサーチでは温泉寺などKIAC周辺の温泉街だけでなく、竹野や出石、但東地域にも足をのばし、飲食店なども楽しんだそうだ。最初に行ったおでん屋(城崎のふくとみ)では、おでんがおいしかっただけでなく、日本語を話せず、メニューも読めないケイトをお店の人たちが温かく迎えてくれ、英語を話せる人を呼んで対応してくれた。愛嬌があって人懐っこく、するっとこちらの懐に入ってくるような感じのあるケイトならではのエピソードだと感じた。作品に直接関連することでは、かつて但東地域で流行った農村歌舞伎の名残で多くの神社の境内に舞台があったことが興味をひいたらしい。ケイトによればかつてのタイでも寺院の近くに移動可能な仮設の劇場を作って権力者に見せる上演をしていたとのことで、宗教施設と劇場の近さというトピックがここで浮かび上がった。
プレゼンテーションに関しては、ぜひ日本の観客からのフィードバックを得たいとのことだった。ではそのために作品を観客にどう受け取ってほしいのか話を聞いたところ、ダンスを見ること自体よりもそれを媒介にして観客それぞれが自分の願いについて考えるという体験が重要なポイントになる作品だと分かってきた。いわゆる「ダンス作品」というくくりではなく「お参り体験」のような言葉で観客に説明した方がうまく飲み込んでもらえるのかもしれない。私は最初の日本の観客として、ある程度作品の背景や意図を踏まえたうえで、作品と観客をうまくつなぎ、そこから実りある議論を生むためにはどうすればいいのか。それは作品と観客の接触面、インターフェースをどう設計するかにかかっている。作り手側がどういう態度で観客に向き合い、どういう背景情報を共有していくのかがカギとなる。
舞台作品と観客のインターフェースについて考えるにあたって、とても参考になったのが同時期にKIACに滞在していたアルゼンチンのアーティストグループのプレゼンテーションだった。詩的なイメージの連鎖が、ディスプレイの映像、窓越しの風景の中でのパフォーマンス、劇場でのパフォーマンスで観客に提示されるというもので、抽象的な衣装や動きやシーンが多かった。無心にそのイメージを楽しめばよかったのだろうが、ただ感覚に没入するだけには一時間弱という上演時間は長かったのかもしれず、観客の頭上に「これはなんだ?」というフキダシがいくつも浮かんでいるのが目に見えるようだった。上演後の質疑応答では、あれはどういう意味だったのかと聞く観客がやはり多かった。「猫のような耳がついた全身黒タイツの衣装を着ていたのはどういう意味だったのか?」。アーティストたちによれば、ただ「動物である」ことを感じてもらえばよかったとのことだったが、筆者のようにその意味をやたらと考えてしまい、感覚に集中できずにいた観客もいたようだ。
とりわけ文化的な背景の異なる海外のアーティストなどの作品では、抽象的なイメージあるいは詩的な言葉の面白さをより感覚的に楽しむため、美術作品にキャプションをつけるように、これにはこういう背景があるという最低限の情報を共有していくことが役立つのではないだろうか。この黒タイツが動物だということは事前の情報なり上演での動きの見せ方なりでわかればよく、本来注目すべき点は他にある。その共通理解があってはじめて、不毛な意味探しに骨を折ることなく、イメージや言葉や動きによって得られる感覚からそれぞれの想像力を羽ばたかせることができる。実際、このアーティストたちを追ってアルゼンチンからやってきた観客は、アフタートークで豊かな解釈を語ったのだから。
何かを見聞きするにあたっての当たり前の前提やその受け取り方は、時と場所と人、つまり文化によってかなり異なる。加えて日本の観客はよくわからないものに出会った際に、わからないものをわからないままにとらえるというよりは意味を考えがちかもしれない(もちろんみんながみんなそうであるというわけではない)。その傾向を踏まえ、上演を見る前に知っておくべき最低限の背景情報を、ハンドアウトにまとめて配布するのはどうかとケイトに提案した。これまでの上演でも使っていたA4用紙一枚分の作品内容説明のテキストをケイトからもらい、内容を今回の発表に合わせて調整していった。ハンドアウトの文章は最終的に『Dance offering』プロジェクトチームのドラマトゥルク(舞台公演全体に関する知的な相談役)の文章に置き換わったが、それに関してもそのまま翻訳したのではアートの専門家以外には難解すぎる語彙や表現が多かったので、可能な限り平易な日本語に訳すよう努めた。KIACに来る観客は必ずしもアートに詳しい人ばかりではないからである。
アーティストが自分の作りたい作品を作ることと、作品が観客にうまくつながるようにそのインターフェースを考えることは、往々にして様相が異なるが、どちらも同じく重要な役割である。観客とのつながり方をきちんと考えないアーティストの作品は、大切にしているポイントが観客に伝わらないことがよくある。作品の本質的な部分を観客に届けるためには、観客がどういった人たちなのかを丁寧に観察し、その背景や特徴に合わせて作品の見せ方を工夫しなければならない。一方でアーティストの作品がなければ、そもそも観客との接触面を考える必要もない。
アーティスト・イン・レジデンスでは、この『Dance offering』プロジェクトのように外国からやってきたアーティストの滞在制作の成果発表や途中報告が行われることも多い。外国のアーティストと、レジデンス施設がある地域の観客では常識も、思考も、感性もしばしば大きく異なる。この違いをただ「わからない」と切り捨てるのではなく、新しい刺激として互いに興味を持って楽しむためには、こうしたアーティストと観客のインターフェースを個々の違いに沿って丁寧に考えることが重要なのではないだろうか。
(後編に続く)
朴 建雄
1991年生まれ。大阪大学大学院言語文化研究科博士前期課程修了。 舞台芸術の企画制作・創作過程・観客受容が必然的に孕む様々なあわいの活性化と、 空間・身体表現の言語化に関心を持ち、主にドラマトゥルクとして様々な舞台芸術の製作に関わる。