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photo by bozzo
KIACレジデンス・セレクション2022→23「SPA of Narratives/声と語りの浴場」レビュー
山﨑健太
2024.4.14
2023年9月22日(金)~9月24日(日)の3日間にわたって開催した、KIACレジデンス・セレクション2022→23「SPA of Narratives/声と語りの浴場」。
批評家、ドラマトゥルクで、演劇批評誌『紙背』編集長を務める山﨑健太さんによるレビューを掲載します。
批評家、ドラマトゥルクで、演劇批評誌『紙背』編集長を務める山﨑健太さんによるレビューを掲載します。
年間を通してアーティスト・イン・レジデンスを実施し、国内外から数多くのアーティストを受け入れてきた城崎国際アートセンター(以下KIAC)。その成果を発信する初めての試みとしてKIACレジデンス・セレクション2022→23「SPA of Narratives 声と語りの浴場」が開催された。2022年にKIACで滞在制作を行なったアーティストの中から3組の作品を紹介するこのプログラムでは、荒木優光『Paradise Lost』、佐藤朋子『ツル/アンティゴネ』、ユニ・ホン・シャープ『ENCORE-Mer』の3作品をショーケース形式で上演。本稿はそのレビューとして書かれたものだが、上演された3作品に言及する前にまずはこのプログラム自体の意義に触れておきたい。
「SPA of Narratives/声と語りの浴場」メインビジュアル designed by 鈴木哲生
KIACではもともと、滞在制作の成果を広く開くことを前提にアーティスト・イン・レジデンスのプログラムを実施してきた。アーティストの受け入れ条件には「滞在期間中、「地域交流プログラム」を実施し、地域住民や観光客、市民との交流活動を行うこと」が定められており、アーティストの滞在ごとに「成果発表や試演会、公開稽古、オープンスタジオ、ワークショップ、トークイベント、交流会など」が実施されているし、近年ではウェブ上でのレポート記事の発信も積極的に行なっている(この文章もその一環だ)。だが、滞在制作の性質上、そこで発信される「成果」は基本的には作品以前の創作プロセスに限定されており、たとえば豊岡演劇祭2020のプログラムとして上演されたQ『バッコスの信女 ─ ホルスタインの雌』など少数の例外を除いては、完成形としての作品がKIACで上演されることはこれまではなかったのである。
今回、このようなかたちで滞在制作の成果としての作品の発表の場が設けられたことの意義は大きく二つある。一つはKIACの成果を豊岡という地域に還元すること。創作プロセスに触れれば完成形としての作品も観たくなるのが人情だし、創作プロセスと作品の双方に触れることで観客の思考はより深く刺激されることになる。「社会への応答」と「批評的創造性」を滞在アーティストの選考基準に掲げるKIACでの滞在制作を経て生まれた作品には一筋縄ではいかないものも多いのだからなおさらである。その意味でセレクションは「地域交流プログラム」の延長線上にあるプログラムだと言えるだろう。
もう一つは作品の上演機会を創出すること。KIACのアーティスト・イン・レジデンスは創作に集中できる環境をアーティストに提供するプログラムだが、多くのアーティストにとっては作品の上演機会を獲得することもまた、創作環境の確保と同じくらい困難な課題である。実際のところ、それぞれに事情は異なるものの、荒木と佐藤の作品は「地域交流プログラム」での成果発表を除けば今回のセレクションでの上演が初演となっている。KIACではあらかじめ定められた公演などの形態での成果発表を目指すわけではないリサーチやワークショップなどの取り組みも滞在制作として受け入れており、だからこそ、それが作品というかたちに結実したときに上演の機会を提供できることには大きな意義があるだろう。
加えて、作品の上演はそれ自体が未来の上演への契機ともなり得ることは言うまでもない。今回のセレクションは豊岡演劇祭2023連携プログラムの一環に位置づけられており、国内外から多くの舞台芸術関係者が訪れていたはずだ。セレクションでの上演が舞台芸術関係者の目に触れることで、また別の場所での上演やクリエーションへとつながる可能性は十分にあるだろう。
一方の豊岡演劇祭にとってもこのようなプログラムが実施されることには大きなメリットがある。KIACの滞在アーティストは公募によって選ばれており、たとえば2024年度は27か国79件の応募から選ばれた11組のアーティストやプロジェクトが「公募プログラム」として採択されている。そのような選考とその後のKIACという充実した環境でのクリエーションを経て上演に至った作品には一定のクオリティが担保されていると言ってもいいはずだ。加えて、選考基準も「社会への応答」と「批評的創造性」と明確である。ある一定の方向性をもったアーティストや作品に興味がある観客(私もその一人である)や、協働できるアーティストを探している舞台芸術関係者にとって、KIACレジデンス・セレクションは豊岡演劇祭の公式プログラムに負けず劣らず魅力的なプログラムなのだ。すでに「KIACレジデンス・セレクション2023→24(仮)」の実施も発表されているが、安定して一定以上のクオリティの、しかも滞在制作を通して豊岡地域とも縁のある複数のアーティストの作品の上演が可能な「KIACレジデンス・セレクション」という枠組みが、今後の豊岡演劇祭において重要な位置を占めるプログラムの一つとなることは間違いない。
2023年度「アーティスト・イン・レジデンス プログラム」メインビジュアル collaged by 堤拓也
荒木優光『Paradise Lost』
荒木の作品はKIAC館内の様々な場所を使った回遊式のパフォーマンス。日記調の文章(かつて城崎温泉に湯治に訪れた志賀直哉と荒木自身の体験とを重ね合わせた架空の日記らしい)を読み上げる淡々とした男の声と音楽からなるインスタレーションがスタジオやホール、宿泊室やエレベーターなどに設置されており、それらのポイントを中心に館内の様々な場所で散発的にパフォーマンスが行なわれ、観客もまた自由に館内を移動しながらそれらを鑑賞する。ボーカリスト(竹岡大志)、ダンサー(花本ゆか、松木萌、黒田健太)、モデル(諸江翔大朗)の6名5組(花本と松木は二人一組)のパフォーマーが広い館内をそれぞればらばらに回遊しながらパフォーマンスを行なうため、観客はその全てに立ち会うことはできないのだが、どうやら(というのは私も全体のごく一部を目撃したに過ぎないためこういう言い方をするしかないのだが)パフォーマーごとに基本的には同じパフォーマンス(歌う、踊る、ポーズをとる)を場所を変えながら繰り返し遂行していたようだ。一方、音声作品は場所ごとに異なるものがループ再生されている。特定の場所でループする音声と場所を変えながら繰り返されるパフォーマンス、そしてそれらを鑑賞するために動き回る観客のリズムが綯い交ぜになったところに立ち上がる時空間は直線的な時間の流れから半ば解き放たれ、観客は再帰する時間の中に放り込まれ揺蕩うことになるだろう。それこそが『Paradise Lost』の「回遊式ウェルネスクラブ」たる所以である。
だが、『Paradise Lost』もまた上演作品である以上、どんなに直線的な時間から解放されているかのように見えたとしてもいつか終わりのときを迎える。しかし、KIACで最も広い空間であるホールにパフォーマー全員と観客の多くが集まるなかで展開された本作のクライマックスは、直線的な時間の果てというよりはむしろ、KIACという空間全体に展開されていた時空間がホールの空間へと圧縮されたもののように体感されたのだった。
荒木優光『Paradise Lost』(2023年、城崎国際アートセンター)photo by bozzo
この作品はもともと、創作につきものの「企画し、お金を集め、(…)稽古をして、宣伝し、ツアーを回れるようなパッケージにする」という「永遠に続きそうなサイクルと構造のおかげで失うクリエイティビティを取り戻す試み」としての滞在制作から生まれてきたものなのだという。その試みは『Paradise Lost』の上演を通して、いや、「SPA of Narratives 声と語りの浴場」というプログラムの全体を通して観客にも差し出されているように思われる。『Paradise Lost』の時空間は、館内に点在し、開場時間中はいつでも鑑賞可能なインスタレーションの存在によってKIACレジデンス・セレクションの全体を包み込むように拡張されているからだ。しかも、上演期間中には「KIAC食堂」として太田夏来シェフによるまかない料理(アーティストに提供されているものと同じもの)も提供され、KIACの生活空間としての性格はより一層強調されている。創作のための空間と生活のための空間とが重なり合うKIACという空間に招き入れられた観客はそこで、非日常的なイベントとして上演に対峙することをやめ、日常の一部としての芸術に浸るよう誘われることになるだろう。
荒木優光『Paradise Lost』(2023年、城崎国際アートセンター)photo by bozzo
佐藤朋子『ツル/アンティゴネ』
タイトルの通り「ツル」をモチーフの一つとした佐藤のレクチャーパフォーマンスは、ツルの踊りを知っているかと観客に問うた後、今日は「踊りたいと思っている私」を躍らせるために調べたツルの踊りについて話し、そして踊ることを試みてみようと思うという宣言からはじまる。
最初に示されるのは佐藤がKIACのある豊岡地域で出会ったという「ツル」の写真だ。佐藤は「このツルは、コウノトリとも呼ばれています」と言い、コウノトリが道端の標識になったり(それはKIACのすぐそばにある)、特急(コウノトリ)や温泉(KIACに最も近い温泉である鴻の湯)、あるいは店の名前になったりと、様々な姿となって自分たちの周りに存在しているのだと語る。他愛もないご当地ネタによる導入のようにも思えるここには、すでに作品のタイトルにも示されていた存在の二重性(多重性?)、あるいは潜在する可能性といったテーマが表われている。
佐藤の語りの焦点は連想ゲームのようにして次々と移り変わっていく。アンティゴネーという名のツルがいること。それはギリシャ神話の神、あるいはギリシャ悲劇の登場人物に由来すること。ツルとペアになり踊りを教えた人間がいたこと。戯曲『夕鶴』の人間に化けたツルの話。ツルのふりをしてエサを与える人間の話。等々。コウノトリ/ツル、ツル/神、ツル/人間、神/人間。一つの姿に与えられた複数の名前と一つの名前に与えられた複数の姿。
やがて佐藤が踊れないこと、自らの身体が自由にならないことの苦痛を語りだすと、あたかも佐藤の存在を二重化するかのように、その傍に白い衣装を着た佐藤とは対照的な黒ずくめの服を着た女が寄り添う。それはこの作品の振付としてクレジットされているダンサーの木村玲奈なのだが、上演中にはそのことが示されることも木村が(いわゆる)踊りを披露することもない。木村は終始、ただ影のように佐藤に寄り添うのみだ。
佐藤朋子『ツル/アンティゴネ』(2023年、城崎国際アートセンター)photo by bozzo
そして語りはアンティゴネーのそれへと収斂していく。国によって禁じられた兄の埋葬を、それでも実行せずにはいられなかったアンティゴネー。抑圧され聞き届けられることのなかったその声は、「とても大きな声を出すことができ」るというツル、その名もアンティゴネーの頭部のパペットを掲げた佐藤によって読み上げられる。
この最後のパートについては、アンティゴネーの物語と言葉にあまりに多くを語らせ、「踊りたい」という佐藤の欲望に決着をつけるわけでもないため(というか語られる言葉だけを取り出せば踊りの話はどこかにいってしまっている)、率直に言えば消化不良の印象も否めない。だが、佐藤は踊らず、木村もまた踊りの気配を湛えた状態に留まるからこそ、そこにある踊りの可能性は踊りそのものではなく可能性として示され得るのだろう。佐藤は冒頭の挨拶で、あがり症で今も顔が真っ赤になってしまっている自分は声を届けるのが難しいので、マイクを使って台本を読み上げると述べていたのだった。体が白く、頭部が赤いというのはツルの特徴そのものである。佐藤の語りは、イメージを連ねることで自らをツルへと、踊ることができ大きな声を出すことができる動物へと変身させるための、あるいは抑圧されてきたツルとしての姿を解放するための試みだったのかもしれない。最後の言葉はこうだ。「アンティゴネーの声は私の声よりずっと大きく、響きわたります」。
佐藤朋子『ツル/アンティゴネ』(2023年、城崎国際アートセンター)photo by bozzo
ユニ・ホン・シャープ『ENCORE-Mer』
日本統治時代の朝鮮半島出身の舞踊家・崔承喜(チェ・スンヒ/さい・しょうき)。『ENCORE-Mer』は彼女に関するリサーチに基づく、あるいはリサーチについてのレクチャーパフォーマンスである。パフォーマンスは大部分がユニ・H-Cのフランス語ともう一人の出演者である平野暁人による日本語の逐次通訳によって進行し、崔をめぐる史実や言説、そしてそれらのリサーチにあたったユニ・H-Cらの取り組みが語られていく。
石井漠に師事し「モダンダンスと朝鮮舞踊という2つの様式から構成された」崔の作品が、川端康成に「日本一」であり「いちじるしい民族の匂い」がするものとして評価される一方、朝鮮人の韓雪野には「真実性が欠如」した「それらしい模倣性があるだけ」のものだと厳しく批判されたことにあからさまなように、崔のアイデンティティと作品、そしてそこへ向けられる他者からの評価は日本による朝鮮の植民地支配の力学にあらかじめ否応なく巻き込まれている。だが、それはユニ・H-Cも、そして上演に立ち会う観客も同じなのだ。パフォーマンスの終盤、ユニ・H-Cが母語ではないフランス語を身につけたのも、かつて自らもその一員であった「在日に新たな像を付与するため」の「日本とも、朝鮮とも無縁の言語体」を獲得するためだったのだということが語られるに至り、その力学は上演のその場にも流れ込んでいることが改めて明らかになるだろう。
ユニ・ホン・シャープ『ENCORE-Mer』(2023年、城崎国際アートセンター)photo by bozzo
だからこそ、ユニ・H-Cが初めて日本語で語る最後の場面は鮮烈だ。なぜここで日本語なのか。この作品では冒頭から繰り返し翻訳という行為が前景化され、ときには「ぴらの先生の日仏翻訳講座」というあからさまに胡散臭いかたちでその不透明性が強調されてきた。だが、翻訳というフィルターが取り外されたこの場面において改めて意識されるのは、そもそも話す言語の選択自体、それが意識的なものであれ無意識的なものであれ、あるいはそれが選択の余地のないものであったとしても、透明中立なものではあり得ないということだ。ある言語を話すことにはあらかじめ政治性が宿っている。厳密には、この場面ではユニ・H-Cとスイッチするかたちで平野がフランス語を話しており、翻訳という行為自体は舞台上で相変わらず行なわれてはいる。しかし、多くがフランス語を解さない日本語話者であろう観客にとってそれはほとんど意味のない翻訳である。ではなぜ平野はフランス語を話すのか。いずれにせよここでは目の前の人物がその言語を話すことの意味が問われることになる。ユニ・H-Cの日本語が鮮烈に聞こえるのは、なぜ目の前の人物は日本語を話すのかという、普段はまず問うことのない政治的な問いとともにそれを聴取しようとするからなのだ。
ここまでで明らかなように、『ENCORE-Mer』においては語られる内容もさることながら、それらがなぜ(言語の選択や身ぶりも含めて)どのように語られているかが重要である。本稿では最後のパートを中心に取り上げたが、崔についてのエピソードとユニ・H-C自身の体験とを行き来しながら、そしてユニ・H-Cのフランス語と平野の日本語を行き来しながら展開する本作にはまだまだ論じるべき点がいくらでもある。幸いなことに本作については日本語で書かれた詳細かつ充実した評がすでに3本出ている(※)。作品についてさらに知り、思考を深めたい方はそちらをご参照いただきたい。
ユニ・ホン・シャープ『ENCORE-Mer』(2023年、城崎国際アートセンター)photo by bozzo
*
さて、初めての試みとなったKIACレジデンス・セレクションだが、一定以上の水準の作品をラインナップしていたことはもちろん、『Paradise Lost』をベースに据えることで、単なるショーケースの枠を超え、観客もアーティスト・イン・レジデンス施設としてのKIACを疑似体験できるようなユニークかつ充実したプログラムを実現していたことは改めて指摘しておきたい。
一方、ラインナップのバリエーションは今後の課題だろう。上演作品のクオリティを個々に見れば文句のつけようはないのだが、いくら「声と語り」というテーマを設定していたとはいえ、レクチャーパフォーマンスが2本、しかもどちらもテクストを読み上げる形式の作品というのはKIACの成果を発信するショーケースとしては少々物足りなく感じてしまった。予算や規模感など様々な制限があることも理解できるところだが、来年度以降のセレクションではKIACで活動してきたアーティストたちの多様な取り組みが体感できるようなラインナップを期待したい。
※越智雄磨「来るべき言語を求めて −ユニ・ホン・シャープ『ENCORE』公開リハーサル鑑賞ノート」
高嶋慈 artscapeレビュー2023年10月1日号
井原麗奈「ユニ・ホン・シャープ『ENCORE-Mer.』鑑賞ノート」
KIACではもともと、滞在制作の成果を広く開くことを前提にアーティスト・イン・レジデンスのプログラムを実施してきた。アーティストの受け入れ条件には「滞在期間中、「地域交流プログラム」を実施し、地域住民や観光客、市民との交流活動を行うこと」が定められており、アーティストの滞在ごとに「成果発表や試演会、公開稽古、オープンスタジオ、ワークショップ、トークイベント、交流会など」が実施されているし、近年ではウェブ上でのレポート記事の発信も積極的に行なっている(この文章もその一環だ)。だが、滞在制作の性質上、そこで発信される「成果」は基本的には作品以前の創作プロセスに限定されており、たとえば豊岡演劇祭2020のプログラムとして上演されたQ『バッコスの信女 ─ ホルスタインの雌』など少数の例外を除いては、完成形としての作品がKIACで上演されることはこれまではなかったのである。
今回、このようなかたちで滞在制作の成果としての作品の発表の場が設けられたことの意義は大きく二つある。一つはKIACの成果を豊岡という地域に還元すること。創作プロセスに触れれば完成形としての作品も観たくなるのが人情だし、創作プロセスと作品の双方に触れることで観客の思考はより深く刺激されることになる。「社会への応答」と「批評的創造性」を滞在アーティストの選考基準に掲げるKIACでの滞在制作を経て生まれた作品には一筋縄ではいかないものも多いのだからなおさらである。その意味でセレクションは「地域交流プログラム」の延長線上にあるプログラムだと言えるだろう。
もう一つは作品の上演機会を創出すること。KIACのアーティスト・イン・レジデンスは創作に集中できる環境をアーティストに提供するプログラムだが、多くのアーティストにとっては作品の上演機会を獲得することもまた、創作環境の確保と同じくらい困難な課題である。実際のところ、それぞれに事情は異なるものの、荒木と佐藤の作品は「地域交流プログラム」での成果発表を除けば今回のセレクションでの上演が初演となっている。KIACではあらかじめ定められた公演などの形態での成果発表を目指すわけではないリサーチやワークショップなどの取り組みも滞在制作として受け入れており、だからこそ、それが作品というかたちに結実したときに上演の機会を提供できることには大きな意義があるだろう。
加えて、作品の上演はそれ自体が未来の上演への契機ともなり得ることは言うまでもない。今回のセレクションは豊岡演劇祭2023連携プログラムの一環に位置づけられており、国内外から多くの舞台芸術関係者が訪れていたはずだ。セレクションでの上演が舞台芸術関係者の目に触れることで、また別の場所での上演やクリエーションへとつながる可能性は十分にあるだろう。
一方の豊岡演劇祭にとってもこのようなプログラムが実施されることには大きなメリットがある。KIACの滞在アーティストは公募によって選ばれており、たとえば2024年度は27か国79件の応募から選ばれた11組のアーティストやプロジェクトが「公募プログラム」として採択されている。そのような選考とその後のKIACという充実した環境でのクリエーションを経て上演に至った作品には一定のクオリティが担保されていると言ってもいいはずだ。加えて、選考基準も「社会への応答」と「批評的創造性」と明確である。ある一定の方向性をもったアーティストや作品に興味がある観客(私もその一人である)や、協働できるアーティストを探している舞台芸術関係者にとって、KIACレジデンス・セレクションは豊岡演劇祭の公式プログラムに負けず劣らず魅力的なプログラムなのだ。すでに「KIACレジデンス・セレクション2023→24(仮)」の実施も発表されているが、安定して一定以上のクオリティの、しかも滞在制作を通して豊岡地域とも縁のある複数のアーティストの作品の上演が可能な「KIACレジデンス・セレクション」という枠組みが、今後の豊岡演劇祭において重要な位置を占めるプログラムの一つとなることは間違いない。
荒木優光『Paradise Lost』
荒木の作品はKIAC館内の様々な場所を使った回遊式のパフォーマンス。日記調の文章(かつて城崎温泉に湯治に訪れた志賀直哉と荒木自身の体験とを重ね合わせた架空の日記らしい)を読み上げる淡々とした男の声と音楽からなるインスタレーションがスタジオやホール、宿泊室やエレベーターなどに設置されており、それらのポイントを中心に館内の様々な場所で散発的にパフォーマンスが行なわれ、観客もまた自由に館内を移動しながらそれらを鑑賞する。ボーカリスト(竹岡大志)、ダンサー(花本ゆか、松木萌、黒田健太)、モデル(諸江翔大朗)の6名5組(花本と松木は二人一組)のパフォーマーが広い館内をそれぞればらばらに回遊しながらパフォーマンスを行なうため、観客はその全てに立ち会うことはできないのだが、どうやら(というのは私も全体のごく一部を目撃したに過ぎないためこういう言い方をするしかないのだが)パフォーマーごとに基本的には同じパフォーマンス(歌う、踊る、ポーズをとる)を場所を変えながら繰り返し遂行していたようだ。一方、音声作品は場所ごとに異なるものがループ再生されている。特定の場所でループする音声と場所を変えながら繰り返されるパフォーマンス、そしてそれらを鑑賞するために動き回る観客のリズムが綯い交ぜになったところに立ち上がる時空間は直線的な時間の流れから半ば解き放たれ、観客は再帰する時間の中に放り込まれ揺蕩うことになるだろう。それこそが『Paradise Lost』の「回遊式ウェルネスクラブ」たる所以である。
だが、『Paradise Lost』もまた上演作品である以上、どんなに直線的な時間から解放されているかのように見えたとしてもいつか終わりのときを迎える。しかし、KIACで最も広い空間であるホールにパフォーマー全員と観客の多くが集まるなかで展開された本作のクライマックスは、直線的な時間の果てというよりはむしろ、KIACという空間全体に展開されていた時空間がホールの空間へと圧縮されたもののように体感されたのだった。
この作品はもともと、創作につきものの「企画し、お金を集め、(…)稽古をして、宣伝し、ツアーを回れるようなパッケージにする」という「永遠に続きそうなサイクルと構造のおかげで失うクリエイティビティを取り戻す試み」としての滞在制作から生まれてきたものなのだという。その試みは『Paradise Lost』の上演を通して、いや、「SPA of Narratives 声と語りの浴場」というプログラムの全体を通して観客にも差し出されているように思われる。『Paradise Lost』の時空間は、館内に点在し、開場時間中はいつでも鑑賞可能なインスタレーションの存在によってKIACレジデンス・セレクションの全体を包み込むように拡張されているからだ。しかも、上演期間中には「KIAC食堂」として太田夏来シェフによるまかない料理(アーティストに提供されているものと同じもの)も提供され、KIACの生活空間としての性格はより一層強調されている。創作のための空間と生活のための空間とが重なり合うKIACという空間に招き入れられた観客はそこで、非日常的なイベントとして上演に対峙することをやめ、日常の一部としての芸術に浸るよう誘われることになるだろう。
佐藤朋子『ツル/アンティゴネ』
タイトルの通り「ツル」をモチーフの一つとした佐藤のレクチャーパフォーマンスは、ツルの踊りを知っているかと観客に問うた後、今日は「踊りたいと思っている私」を躍らせるために調べたツルの踊りについて話し、そして踊ることを試みてみようと思うという宣言からはじまる。
最初に示されるのは佐藤がKIACのある豊岡地域で出会ったという「ツル」の写真だ。佐藤は「このツルは、コウノトリとも呼ばれています」と言い、コウノトリが道端の標識になったり(それはKIACのすぐそばにある)、特急(コウノトリ)や温泉(KIACに最も近い温泉である鴻の湯)、あるいは店の名前になったりと、様々な姿となって自分たちの周りに存在しているのだと語る。他愛もないご当地ネタによる導入のようにも思えるここには、すでに作品のタイトルにも示されていた存在の二重性(多重性?)、あるいは潜在する可能性といったテーマが表われている。
佐藤の語りの焦点は連想ゲームのようにして次々と移り変わっていく。アンティゴネーという名のツルがいること。それはギリシャ神話の神、あるいはギリシャ悲劇の登場人物に由来すること。ツルとペアになり踊りを教えた人間がいたこと。戯曲『夕鶴』の人間に化けたツルの話。ツルのふりをしてエサを与える人間の話。等々。コウノトリ/ツル、ツル/神、ツル/人間、神/人間。一つの姿に与えられた複数の名前と一つの名前に与えられた複数の姿。
やがて佐藤が踊れないこと、自らの身体が自由にならないことの苦痛を語りだすと、あたかも佐藤の存在を二重化するかのように、その傍に白い衣装を着た佐藤とは対照的な黒ずくめの服を着た女が寄り添う。それはこの作品の振付としてクレジットされているダンサーの木村玲奈なのだが、上演中にはそのことが示されることも木村が(いわゆる)踊りを披露することもない。木村は終始、ただ影のように佐藤に寄り添うのみだ。
そして語りはアンティゴネーのそれへと収斂していく。国によって禁じられた兄の埋葬を、それでも実行せずにはいられなかったアンティゴネー。抑圧され聞き届けられることのなかったその声は、「とても大きな声を出すことができ」るというツル、その名もアンティゴネーの頭部のパペットを掲げた佐藤によって読み上げられる。
この最後のパートについては、アンティゴネーの物語と言葉にあまりに多くを語らせ、「踊りたい」という佐藤の欲望に決着をつけるわけでもないため(というか語られる言葉だけを取り出せば踊りの話はどこかにいってしまっている)、率直に言えば消化不良の印象も否めない。だが、佐藤は踊らず、木村もまた踊りの気配を湛えた状態に留まるからこそ、そこにある踊りの可能性は踊りそのものではなく可能性として示され得るのだろう。佐藤は冒頭の挨拶で、あがり症で今も顔が真っ赤になってしまっている自分は声を届けるのが難しいので、マイクを使って台本を読み上げると述べていたのだった。体が白く、頭部が赤いというのはツルの特徴そのものである。佐藤の語りは、イメージを連ねることで自らをツルへと、踊ることができ大きな声を出すことができる動物へと変身させるための、あるいは抑圧されてきたツルとしての姿を解放するための試みだったのかもしれない。最後の言葉はこうだ。「アンティゴネーの声は私の声よりずっと大きく、響きわたります」。
ユニ・ホン・シャープ『ENCORE-Mer』
日本統治時代の朝鮮半島出身の舞踊家・崔承喜(チェ・スンヒ/さい・しょうき)。『ENCORE-Mer』は彼女に関するリサーチに基づく、あるいはリサーチについてのレクチャーパフォーマンスである。パフォーマンスは大部分がユニ・H-Cのフランス語ともう一人の出演者である平野暁人による日本語の逐次通訳によって進行し、崔をめぐる史実や言説、そしてそれらのリサーチにあたったユニ・H-Cらの取り組みが語られていく。
石井漠に師事し「モダンダンスと朝鮮舞踊という2つの様式から構成された」崔の作品が、川端康成に「日本一」であり「いちじるしい民族の匂い」がするものとして評価される一方、朝鮮人の韓雪野には「真実性が欠如」した「それらしい模倣性があるだけ」のものだと厳しく批判されたことにあからさまなように、崔のアイデンティティと作品、そしてそこへ向けられる他者からの評価は日本による朝鮮の植民地支配の力学にあらかじめ否応なく巻き込まれている。だが、それはユニ・H-Cも、そして上演に立ち会う観客も同じなのだ。パフォーマンスの終盤、ユニ・H-Cが母語ではないフランス語を身につけたのも、かつて自らもその一員であった「在日に新たな像を付与するため」の「日本とも、朝鮮とも無縁の言語体」を獲得するためだったのだということが語られるに至り、その力学は上演のその場にも流れ込んでいることが改めて明らかになるだろう。
だからこそ、ユニ・H-Cが初めて日本語で語る最後の場面は鮮烈だ。なぜここで日本語なのか。この作品では冒頭から繰り返し翻訳という行為が前景化され、ときには「ぴらの先生の日仏翻訳講座」というあからさまに胡散臭いかたちでその不透明性が強調されてきた。だが、翻訳というフィルターが取り外されたこの場面において改めて意識されるのは、そもそも話す言語の選択自体、それが意識的なものであれ無意識的なものであれ、あるいはそれが選択の余地のないものであったとしても、透明中立なものではあり得ないということだ。ある言語を話すことにはあらかじめ政治性が宿っている。厳密には、この場面ではユニ・H-Cとスイッチするかたちで平野がフランス語を話しており、翻訳という行為自体は舞台上で相変わらず行なわれてはいる。しかし、多くがフランス語を解さない日本語話者であろう観客にとってそれはほとんど意味のない翻訳である。ではなぜ平野はフランス語を話すのか。いずれにせよここでは目の前の人物がその言語を話すことの意味が問われることになる。ユニ・H-Cの日本語が鮮烈に聞こえるのは、なぜ目の前の人物は日本語を話すのかという、普段はまず問うことのない政治的な問いとともにそれを聴取しようとするからなのだ。
ここまでで明らかなように、『ENCORE-Mer』においては語られる内容もさることながら、それらがなぜ(言語の選択や身ぶりも含めて)どのように語られているかが重要である。本稿では最後のパートを中心に取り上げたが、崔についてのエピソードとユニ・H-C自身の体験とを行き来しながら、そしてユニ・H-Cのフランス語と平野の日本語を行き来しながら展開する本作にはまだまだ論じるべき点がいくらでもある。幸いなことに本作については日本語で書かれた詳細かつ充実した評がすでに3本出ている(※)。作品についてさらに知り、思考を深めたい方はそちらをご参照いただきたい。
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さて、初めての試みとなったKIACレジデンス・セレクションだが、一定以上の水準の作品をラインナップしていたことはもちろん、『Paradise Lost』をベースに据えることで、単なるショーケースの枠を超え、観客もアーティスト・イン・レジデンス施設としてのKIACを疑似体験できるようなユニークかつ充実したプログラムを実現していたことは改めて指摘しておきたい。
一方、ラインナップのバリエーションは今後の課題だろう。上演作品のクオリティを個々に見れば文句のつけようはないのだが、いくら「声と語り」というテーマを設定していたとはいえ、レクチャーパフォーマンスが2本、しかもどちらもテクストを読み上げる形式の作品というのはKIACの成果を発信するショーケースとしては少々物足りなく感じてしまった。予算や規模感など様々な制限があることも理解できるところだが、来年度以降のセレクションではKIACで活動してきたアーティストたちの多様な取り組みが体感できるようなラインナップを期待したい。
※越智雄磨「来るべき言語を求めて −ユニ・ホン・シャープ『ENCORE』公開リハーサル鑑賞ノート」
高嶋慈 artscapeレビュー2023年10月1日号
井原麗奈「ユニ・ホン・シャープ『ENCORE-Mer.』鑑賞ノート」
山﨑健太
1983年生まれ。批評家/ドラマトゥルク。演劇批評誌『紙背』編集長。WEBマガジンartscapeでショートレビューを連載。他に「現代日本演劇のSF的諸相」(『S-Fマガジン』(早川書房)、2014年2月~2017年2月)など。2019年からは演出家・俳優の橋本清とともにy/nとして舞台作品を発表。主な作品に『カミングアウトレッスン』(2020)、東京芸術祭ファーム2022 Farm-Lab Exhibitionでの国際共同制作によるパフォーマンス試作発表『Education (in your language)』(2022)、『フロム高円寺、愛知、ブラジル』(2023)など。